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わたしは言った。面と向かって。すると悲しい顔を、淋しい顔をする。
深い自己嫌悪。けれど止められない。胸の裡に、渦巻いてねばついた、真っ黒いものが湧いてきて、息が苦しくなる。けれど止められない。本当に大嫌い。
朝。誰もいない朝。いつもの朝。薄茶色の、木目の目立つテーブルの上に、今朝焼いたらしい、焦げただし巻き玉子が一つだけ、ラップをかけて置いてあった。書き置きもない。
今日は晴れらしく、明るい光が居間の大きな窓から差し込んでいた。でも、わたしの気持ちは関係ない。どんよりと分厚い雲が、頑なに広がって、灰色だった。
いつだろう。そんなことが気になる。いつ出掛けたのだろう。いつ帰ってきたのだろう。
保温の切れた炊飯ジャーの蓋を開け、食べる分だけ茶碗に盛る。出掛けにばたばたと作ったであろう味噌汁を、お椀に掬う。それらを、温める気にもなれず、そのままだし巻き玉子の隣に置いて、朝食にした。
テレビを付ける。朝のニュース番組は騒がしく、若手アナウンサーとタレントが愉快げにじゃれあっていた。
何が楽しいのか分からない。
無駄にテンションの高いニュース番組を眺めながら、ふと思った。
ひとりじゃなかったら、楽しいのかな。
不意に沸いたその考えに、慌てて頭を振る。搔き消すように、だし巻き玉子を流し込む。焦げた部分の苦味が喉に引っ掛かって、いつまでもいた。
いつの間にか、ニュースが切り替わっている。さっきまでの御茶らけた雰囲気から一変し、能面みたいに感情のないアナウンサーが、今日のニュースを伝えていた。
過労の男性社員が、首を吊っているのが発見されました 。
そんな恐ろしいニュースを、淡々と口にする。わたしは、まさに自分の首に紐が食い込んだみたいに苦しくなる。だから、食べることに集中して、ニュースの具体的な内容を聞き流した。
朝食を終え、食器を洗って伏せる。顔を洗って、着替える。
化粧はしない。買って貰った化粧用品を、手に取って眺めて、やはり元の所に戻した。
鞄を取って玄関に向かう。気がつけば、カレンダーに目が行っていた。何の印も付いていない、今日の日付を見てしまう。見ないように気を付けていたけど、磁力でもあるみたいに、目が吸い寄せられる。まるで、ねだっているみたいだ。そんな自分がまた嫌だった。
「…学校行こ」そう独りごちて、誰もいないアパートの部屋を出た。
「今日もスッピン?マジで?あたしなんて、怖くてそんなことできないよ」ばしばしと睫毛を瞬かせながら、マコが言ってくる。
休み時間、あまり長くないその時間の隙間に、前の席のマコがこちらを向いて座っていた。背もたれに覆い被さるように姿勢を崩している。
「そう?意外と何ともないよ」わたしは強がってみせる。
「いやー、ムリだわ。そんな度胸、あたしない」言いながらスマートフォンに目を落とす。
またインスタグラムだろうか、画面をたぷたぷとスクロールしては、興味深げに覗き込んでいる。その様子に、羨望の感情が浮かびそうになる。
スマホは持っている。その利用料も毎月、自分のバイト代で賄っていた。けれど、というべきか、だからというべきか、通信料が怖かった。定額プランは組んでいたけど、一番安いやつで、結局あまり使えなかった。アパートにはwifiが備わっているため、インターネットは専ら家で、だった。
「アンもインスタやればいいのに」
「いや、いいよわたしは。ギガホじゃないし」
「家にネットないの?」
「あるけど…」
「じゃあやればいいじゃん。楽しいよ」その楽しいよ、に惹かれてしまう。
「でも…だって、日中見たくなっちゃうでしょ?それは嫌だもん」
「それは…だね。親払ってくれないの?」
「自分のだし、自分で払いたいから、さ」
「そっかー。アンまじめだよね。あたしなんてさ、全部おんぶに抱っこだから、親がうるさくて。今月一万越えてるんだけど、とか、電話しすぎじゃないか、とか。もうパパとママが交互に言ってくんの。ヤバくない?」
「自分で払えば、そういうのもなくなるんじゃない?」ダメ元ではあるけど、一応言ってみる。すると案の定の返答が返ってくる。
「だって遊びに行けないじゃん」
「だよねー」
「あ、そだ。今日、買い物行こうよ」
「え、いいけど、どしたの急に」
「だってほら、アン今日誕生日じゃん」その言葉にはっとする。
「あー、うん、だね」
「買い物行こ。あたしのセンスでプレゼント選んだげるから」
「そう?ありがと」
じゃあどこ行こっか、そのマコの声とチャイムの音が重なった。
「ただいまー」玄関の、暗闇にそう投げかける。帰っているわけはない。溜め息を一つ溢し、後ろ手に扉を閉めた。
靴を脱ぎ、勝手知ったる廊下を、電気も点けずに進む。持っていたビニール袋が太股に当たって、がさがさと言った。
渋谷のコスメショップまで出掛けていき、マコに一通り選んで貰ったものだった。
明日から、していかないとな。億劫さと、けれど同時に高揚感を覚えていた。
こんなことを気にかけてくれるなんて、友人とは有り難いものだ。そう感じ入りながら、居間に踏み入れ、部屋の電気を点けた。
居間の真ん中で、父親が倒れていた。
その姿を見た途端、頭が真っ白になった。心臓が止まった気がした。電流が流れたように体が反応し、慌てて駆け寄った。
お父さん、お父さん。そう、体を揺する。
朝見たニュースが頭をよぎる。過労死。そんな文字が頭に浮かぶ。
嫌だ。そんな。嫌だ嫌だ嫌だ。お父さん、お父さん!
父の、呻き声がした。どうやら眠っているだけだったらしい。
全身から一気に力が抜けた。うつ伏せで倒れ込む、父の寝顔を見ながら呆然とする。
汗をかいたのか、べとべととした頭。よれよれのシャツにスラックス。部屋の中はつんとした体臭が充満していた。
毎日、何時に起きて何時に寝ているのか分からないお父さん。男手一つでわたしを育ててくれたお父さん。わたしのために懸命に働くお父さん。
ブラック企業という言葉が横行する中、父は馬車馬のように働いていた。だからわたしは、少しでも家計の、父の負担を減らしたくて、バイト代で自分の身の回りのことは賄うようになった。
それでも父は働いた。身を粉にして働いた。
前に、休みが合って、話せる機会があった。父にとっては貴重な休み。それでも聞かずにはいられなかった。
「もう少し休んだら?わたしだってバイトしてるし、生活費が足りないってこともないよね。」
「アンは心配しなくていい。大丈夫だ」疲れた顔が笑う。
「そんなに大変だったら、わたしも働くから。高校出て。そしたら楽になるよね」
すると怒ったような顔をして、父は言った。
大学は行きなさい。学費は考えなくていいから、好きなところを受けなさい。アンはアンのやりたいことを、やっていいんだから。
だから、わたしは言った。面と向かって。
わたしのためになんて止めてよ。それで体壊したらどうするの?わたし、お父さんみたいにはなりたくない。
すると悲しい顔を、淋しい顔をする。
深い自己嫌悪。けれど止められない。胸の裡に、渦巻いてねばついた、真っ黒いものが湧いてきて、息が苦しくなる。けれど止められない。そんな自分が、本当に大嫌い。
父の、脂ぎった寝顔を眺める。マコのプレゼントはいつの間にか投げ出していた。せっかく買って貰ったのに。全部お父さんのせいだ。
その父の疲れた寝顔の横にふと、袋があるのを見つけた。
真っ赤なリボンが結われた、黄色い布の、大きめの袋。
気になって手を伸ばす。結われたリボンをほどいて、中身を取り出してみた。
テディベア。抱え込めるくらいのサイズの、くまのぬいぐるみだった。首元の、可愛らしい水玉のスカーフに、手書きのメモが挟んである。
杏奈、誕生日おめでとう
父の文字で書かれたそれが、すっと胸に染み込んでくる。
「ばか。何歳だと思ってんの」
知らず、テディベアを抱き締めていた。
こんなのどこに売ってたんだろう。仕事を早めに切り上げて、買いに走ったのだろうか。わたしの、ために。
涙が頬を伝う。
お父さんはいつも、わたしのために、わたしなんかのために。なのに、わたしは─。
ごめんなさい。酷いこと言ってごめんなさい。いつも、ありがとう。でも自分の体を、もっと大切にしてほしい。親孝行出来るようになったときに、出来ないとかは嫌。そんなのは絶対嫌。だからどうか、自分をもっと大切にして下さい。お父さん、大好き。
そんな言葉は口を突いて出ない。出るのはあんな、酷い言葉ばっかり。そんな自分がやるせない。不甲斐ない。本当に─。
「─だいきらい」
それだけが、ぽつりと口から溢れる。涙で濡れて、くしゃくしゃになったテディベアを強く抱き締めて、いつまでも父の傍にいた。
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