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「あの、さっきはありがとうございました。」
ファミレスの会がようやく終わって、帰り途に一緒になった広瀬さんに私は御礼を言った。
すると広瀬さんはニッコリと笑った。
夕暮れの住宅街の坂道を私は広瀬さんと並んで歩く。彼女もテニスで鍛えているのか、広瀬さんは足取りは軽かった。
「木村さんって、ひょっとすると旦那さんのことが嫌いなんじゃないですか?」
私はドキッとして広瀬さんの顔を見るが、彼女は元の笑顔のままだ。
「どうして、そう思うんですか?」
私は努めて冷静に尋ねた。広瀬さんの意図が分からない。
「何となくです。実は私も夫のことが嫌いなの。」
「まさか。冗談は止めてください。」
私は言ったが、彼女の言葉は全く冗談には聞こえなかった。
「いいえ、これは本当のことなの。」
「でも、広瀬さんは旦那さんとお似合いですし、いつも仲も良さそうにしてるじゃないですか。」
私は言った。嫌いな相手と、例え外面だけでも仲良さそうに振る舞うことが出来るとは、私にはとても信じられない。家の中で顔を見るだけでも吐き気がするのだ。
「それはね。少しばかりコツが必要なんです。もし木村さんが望めば、教えて差し上げます。とても簡単なことですから。」
広瀬さんは少しだけ声を落として言った。まるで重大な秘密を勿体ぶって話すかのように、広瀬さんは私の顔をじっと見る。
「それはね、二重思考っていう方法なの。」
「それって、ジョージ・オーウェルの小説に出てくる?」
全体主義国家に支配されたディストピアを描いたジョージ・オーウェル『1984年』については、私も知っている。徹底的に情報が管理された社会の中で浮かび上がる矛盾を、人々は二重思考という特殊な思考の方法によって忘れてしまうことを要求される。
「あら、その小説を読んだことがあるなら、話は早いわ。嫌いな人と夫婦でいるためには、まさにその二重思考が必要なんですよ。夫のことを嫌いながら、しかし同時に夫のことを愛すること。」
「そんなこと実際には出来ないですよ。」
私は言った。私ははっきりと明確に旦那のことが嫌いになったのだ。もし私がそれでも旦那のことを愛しているというのなら、それは単なる皮肉でしかない。
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