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 高校の頃に憧れていた先輩がいた。  彼女は同じ部活で、前しか向いてない人だった。欠点もいっぱいあったが、それ以上に力強く、だから皆も私も憧れた。  彼女は普通に卒業し、それから一度も会っていない。  噂では、留学したとも、結婚したとも、そして死んだとも聞いた。  私は噂の真偽を確かめなかった。  今、先輩の後ろ姿そっくりの女子高生の後ろをついて行きながら、私は自分が噂の真偽を確かめなかった理由を悟った。  私は先輩を人間扱いしていなかったのだ。  自分の理想、アイコン、シンボルとしてしか見ていなかったのだ。だから、自分の理想としてもう機能しない相手に興味が湧くはずもなく、右から左へと噂を流していた……。  だから、私はぼんやりとしているのだ。  目標も、理想も、憧れも無い。  ただただ、漠然と日々、終わりに向かって歩いているだけなのだ。  私は溜息をつきつつ、女子高生の後をついていく。  顔を見てみたい、と思った。  間違いなく先輩の顔ではない。例え似ていたとしても、先輩ではない。  それでも、顔を見てみたい。  不審者と思われるだろうか? 道を聞いてみる、というのは? いや、スマホがあるのにそんな事をする人が今時いるか?  私はちらりと助手席に投げだしてあるスマホを見た。  圏外、という文字。  こんな、だだっ広い場所で圏外?  首を捻った私が前に視線を戻すと、女子高生は視界から消えていた。  え? と慌てて視線を左右にめぐらすと、右の奥をすーっと走って行く後姿が見える。  だが、道が無い。  あぜ道を強引に走ったのだろうか? 私が後ろからついてくるから?  まずいな。警察にでも通報されたら――  右に曲がる細い道があった。  細い道なので、青々と茂る稲に隠され見えなかったのだ。  しかし、どうすべきか? 戻るべきか――  いや、戻るべきだろう。彼女の顔を見たからなんだっていうんだ?   きっと、何も解決しない。夏は暑いままだし、私はぼんやりしたままなのだ。  私は右に曲がる道に車を入れ、ギアをバックに入れて切り返そうとした。  ざあっと風が吹き、田圃の上を波が打ち寄せてくる。  車の両側を稲が叩き、ばさばさと音がした。  私はミラーで後方を確認しながらギアをバックに入れようとして、フロントガラスの向こうで、女子高生が自転車から足を降ろしているのに気がついた。  風にシャツとスカート、そして髪をなびかせながら彼女は自転車から左足を降ろし、じっと道の真ん中に立っている。  私はギアに手をかけたまま、彼女の背中を見つめ続けた。  彼女は振り向くどころか、全く動こうとしない。  また風が吹き、彼女の髪がなびき、伸びた稲が車を叩く――  なんだ?  私は振り返った。  確かに、今、車を叩く音がした。  後ろ、左後ろ、こんこんっと固い物で叩く音。  いや、それだけじゃない。  さっきまでのさらさらと稲が車体を撫でる音とは全く違う音がする。  べたべた、ずるずる、と粘つく何か大きな物が這いまわっているような音。  車がぐらりと揺れた。  風ではない。  ぐっと左後ろ『下』に引っ張られた感じだ。  私はブレーキからゆっくりと足を離す。オートマでギアはドライブに入っている。  だが、車は前に進まない。  べたべた、こんこん、ざらざら、ぐいっ――  車がはっきりと上下に何度も揺れ、ついで前後に揺さぶられた。  ギィギィ、ゲェゲェと蛙の声のような音が聞こえ始めた。それは徐々に大きく、そして多くなっていく。  ハンドルを握る私の手は震えていた。  混乱――恐怖――混乱――恐怖、と頭の中が二色で埋め尽くされ、私は目を瞑って頭を下げた。そうやって小さくなってしまえば、何もかもが解決するような気がした。車体の揺れも、鳴き声も、何もかもが黒の向こう側で、他人事のようだった。  チリリン、と甲高い音が私の耳を打った。  はっとして目を開け、顔を上げる。  彼女は自転車のベルを、もう一度鳴らすと、アスファルトを蹴って自転車をこぎ始めた。  私は――クラクションを鳴らした。  もしかしたら、車を買って、初めて鳴らしたかもしれないクラクションは大きく、甲高かった。  瞬間、全ての音と気配が『引いた』。  私はアクセルを踏み込んだ。  シートに押し付けられるような速度で車は前に走り出した。  道路はやや登りになり、それからなだらかな下りになった。どこまでも広がる田圃に目を走らせる。  道路は、ぐっと左にカーブし、稲は益々伸びて道路を隠している。彼女は遥か向こうを、稲をかき分けるように走って行く。思い切りアクセルを踏み込みたい衝動を覚える。だが、道の両側には稲に隠れてはいるが、側溝があるようだ。スピードを出し過ぎると、脱輪するかもしれない。  速度を落とそうと考えたその時、サイドミラーに何かが映った。  青々とした稲が激しく揺れている。  その間を縫って、何かが大勢でこちらに向かってきている。  ちらりと見えるその形に、頭が追いつかない。  長い紐のような物が組み合わさっているように見える。  その所々に瘤のような物があるようにも見える。瘤には大きな亀裂があって、表面には皺が寄っていて、亀裂が開閉する度に、ゲェゲェとあの鳴き声が漏れているようだ。  瘤から生えた細長い物の先には、ナナフシの足のような、深海の細長いサンゴのような物が生えていて、それを細かくさらさらと動かし、アスファルトを撫でるように、滑るように――  がくりと車体が右に傾いた。  しまった、後を見ていたから脱輪――連中が迫って――  私はブレーキを踏みこむと、ベルトを外し、鍵を抜くと外に転がり出た。  熱気が襲ってきて、汗がどっと噴き出す。  振り返ると稲の揺れが迫ってくる。  連中が何なのかは判らないが、車を走らせないようにしたということは友好的な相手ではないだろう。というか、あんな形のものが生物なわけが無い。  私は走り出した。  高校の時みたく、地を蹴り、足を繰りだし、自然と昔のフォームが戻ってくる。稲の青と、奇声と、不安と恐怖が後ろにあっという間に吹き飛んでいく。  私は――死んだのだろうか?  何処まで走っても、田圃は終わらない。  青々とした田圃の向こうには、一向に距離の縮まらない林が視界の端まで続いている。  そして、前を走る彼女との距離も縮まらない。  向こうは自転車なのだから、徐々に距離が離れていくのが当然のはずなのに。  まあ、昔もそうだった。  先輩は速かった。  長距離も短距離も、とにかく速くて、距離を開けられないようにするのが精一杯だった。  ゴールには、いつも彼女が先にいて、私がゴールすると、お疲れさまと微笑んでくれた。  私の右頬に、風が強く吹きつけた。  走りながらそちらを見る。  疲労の為か、暑さの為か、方向感覚も平衡感覚も全てが狂ってしまった世界は、まるで魚眼レンズのように歪んでいた。  私が見降ろす田圃のその果てから、一際大きなうねりがこちらにやってくる。  風か――いや、違う!  稲を揺らす大きな波は、泥を跳ね上げ、土の匂いをさせながら盛り上がった。海から鯨が上がってくるように、稲の下に潜むものは、その巨大な口を開くと、走る私を飲み込もうと迫って来るのだ。  あなた、大人になったらどうするの?  一度だけ、そう先輩に聞かれたことがある。  他校との親善試合の後だったか、強化合宿の最終日のことだったか、ともかく彼女は、今の私と同じく、凄まじい汗の匂いをさせていた。  わかりません。  疲れていたためか、私はそんな風に答えたはずだ。  先輩はどうするんですか? やはり大学で陸上を――  私のそんな風な言葉に、先輩は確かこう答えた。  私は走るわ。  走るんですか?  ええ、ずっと走るの。  ずっとって……でも、いつか走り終わるんでしょう?  そうね。でも、止まっていても、いつか終わるのよ。  は?  だから私は、前を向いてひたすらに走って終わるわ。  私の妄想か、思い出の美化か、本当に先輩はそんな抽象的な事を言ったのか、大体私は先輩と会話をしたのか、もう何が何だかわからない。  並走しながら徐々に私に近づく大うねり。  汗が飛び散り、こめかみの血管が激しく脈打ち、昔の感覚が――走っていた時に感じたあの感覚が――蘇ってくる。  大うねりが一際大きくうねると、道路に影が差すほどにその身を田圃から持ち上げ、雪崩のようにのしかかってきた。  私は叫んだ。  走っていれば――進んでいれば――先輩の背中に追いつこうとしているならば――  止まるはずがない!  終わるはずがない!  死ぬはずがない!  背中に衝撃があり、視界がぐるぐると回って暗くなっていく。  土と稲の青臭さが口の中で拡がって、顔いっぱいにやけに冷たい水の感触があり、背中が折れるんじゃないかというくらいに反り返る。  終わるはずがない、と私は暗闇に向かって呟いた。  何かが鳴っている。  これは――ベル? ――自転車のベル? ――いや……  スマホの着信音で私は目を覚ました。  目の前には泥と、どっしりとした稲の根元。  私は田圃から体をゆっくりと起こした。  青々とした田圃。  その向こうに林。そして新幹線の高架とゴミ集積場の煙突も見える。  私は田圃から這い出ると、道路に座り込む。  全身泥だらけだった。  背中が痛い。  夢――幻――そういう事なのか。  私は立ち上がると、辺りを見回した。  車は何事も無かったかのように、すぐ近くに止めてあった。脱輪すらしていない。  後ろに回ってみると、いつ付いたのか判らない細かい傷がバンパーに無数にあった。  金属で引っ掻いたような――小石を跳ね上げて付いたような――細かい傷だった。  家に帰り、風呂に入った時、鏡を見たらきっと背中に痣か何かがあるに違いない。  チリリン、とベルが聞こえた。  私はさっと田圃を見渡した。  何処までも青く、そして、その隙間にある名も知らぬ道を、一台の自転車が走って行く。  女子高生が乗っている、ように見えた。彼女とはあまりに距離が離れていたのだ。  熱せられたアスファルトから立ち上る陽炎で、その姿は歪んで見える。  私の手の中でスマホが振動して、チリリンと音を立てた。 「お疲れ様。今何処にいるの?」  上司だった。  私は、田圃にいる、と正直に答えた。 「へ? 田圃? えーっと、実家の手伝いとかかな? それは――」  私は、いえ、ちょっと車を停めて休憩していましたと言った。 「あ、そうなんだ。ところで、お昼まだ? まだだったら――僕と一緒に行かないかい?」  スマホの時計を見ると――交差点を曲がってから五分も経っていないらしい。 「ねえ、加奈子ちゃん、美味しいパスタの店があるんだけど――」  その時、私はようやく『この人は私が好きらしい』という事に気がついたのだった。  了
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