溢れかえる川の流れに

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 私が溢れかえる川の流れにあの『赤』を見たのは、小学校にあがってまもなくの頃だったように思う。  家を出て住宅地の中を通る坂道を下ると、川に出る。  町の中では細くて緩やかであるのに、私の家の近くを流れる時は、まるで窮屈さから解放された憂さを晴らすように、広く激しく流れている。  そこに橋が架かっている。  車一台が通るのがやっとで、橋を支える足もやけに細い。  壊れるんじゃないか。  子供の頃の私はいつもそんな事を考えていた。実際通学路は迂回した国道沿いを通るようになっていた。  ある日のことだ。  三日ぐらい前から降り続いていた雨がやっと止み、陽が射してきた。ちょうど日曜だったこともあり、外に遊びに行こうとした私は、両親に呼び止められた。  川の水が大変な事になっているから、近づいちゃいけないよ。  確かそんな事を言われた気がする。  勿論私は川を見に行った。  だが、私は坂道の途中で足を止めた。  そこからは川を上から見下ろせた。  ごうごうと水が流れていた。  普段の水量の二倍――いや三倍はあったかもしれない。土手が決壊するほどではなかったが、それでもその音と水量は子供の私を、坂道の途中で金縛りにするには十分だった。  私はかろうじて、すげぇとかそんなことを呟いた。  その時、『赤』が見えた。  私の立っていた場所からは、橋の足――橋脚部分も良く見えた。濁った水はやや半透明になって渦を巻き、ここからでも聞こえるほど、ごぼごぼという音を立てていた。  その中に『赤』い物が浮かび上がった。  なんだ――私の身体が硬直する。  大きい。  橋脚は細いとはいえ、小型の車よりも太いはずだ。  『赤』はそれよりもずっと大きく太い。  いや、大きいのは一部か?   目を凝らす、というよりは目がそこから離れる事が出来ない。  『赤』は大きく動き  浮き上がった。  どうしたの、と私は肩を叩かれた。  私は跳ねるように振り返った。  近所に住んでいる幼馴染の女の子だった。  汗びっしょりだよ、という彼女の言葉に私は震える指で橋を指差した。  わー、水がすご――  彼女の言葉が途切れる。という事は彼女にも見えているのだ、あの『赤』が。  おかあさーん、と彼女は家に走って行った。  五分もかからなかったと思うが、私にとっては酷く長く、そして一瞬の時間が過ぎた。私と両親、彼女と彼女の両親、近所の人達十数人は坂道の途中で立ち尽くしていた。  橋脚の辺りを『赤』はまだ漂っていた。  いや、正確に言おう。  『赤』は泳いでいた。  私達はじりじりと前に進み始めた。  細部が正確に脳に浸透し始める。  巨大でひらひらしたものをなびかせ、体をぐるりと翻すと、太陽の光がその腹にきらりと反射する。大きな口をパクパクと開閉させ、橋脚の周りをぐるぐる回っている。  橋が揺れている、と誰かが呟いた。  くわぁんと甲高い音が鳴った。  橋が揺れている所為で、欄干の中を風が通ってるのだな、と私は想像した。  『赤』がすーっと橋から離れた。  私達は思わず駆けだしていた。見失う、と思ったからだ。  坂道を降りきると左右に風景がざあっと広がった。  川を渡って吹き付けてくる風と水しぶきは、湿っていて冷たかった。ごうごうという音は体を震わすほど大きい。  一つ問題があった。視点が下がってしまって川の中が見えなくなってしまったのだ。  私の身体がぐっと上に上がった。  父が肩車をしてくれたのだ。  ふと横を見ると、彼女も父親に肩車をしてもらっていた。  彼女はこちらを見ると、唾を飲み込んだ。 「た、体当たりする気だよ、あれ」  私は川に目を戻した。  全員がはっと息を飲む。  『赤』は川の流れに乗ると、背中のひれを水面にだし、弾丸のように突き進んだ。  真っ赤な軌跡を私達は目で追いかける。  轟音。  『赤』の全身が水面に跳ねあがった。  一瞬だった。  ひれの所為だろうか、ともかく大きく見えた。  真っ赤な大輪の花が、濁流の上に咲いた。  そんな風に私は見えた。  橋が真ん中から折れ曲がり、金属の悲鳴を上げ、濁流の中に崩れ散っていた。  もう『赤』は見えなかった。  後日、橋脚の残骸に流木が大量に絡まっていたので、橋の崩壊はその所為だろう、と役所の人間が言っていると父から聞いた。  その方が、落ち着くからな、と父は笑った。  私も、その通りだと思った。  勿論、あれは夢でも幻覚でもない。  何故なら私と彼女は、水位が下がった後、下流で巨大な『赤』の鱗を拾ったからだ。  あれから、大分年月が経った。  私と彼女の間に生まれた子供が、外に遊びに行きたいと言ってきたのは、雨が数日ぶりにあがった今朝のことだった。  私と彼女、両家の両親は顔を見合わせた。  橋はあれからしばらくして再建された。  車一台が通れるかどうかの細い物で、橋脚は相変わらず細く、子供は壊れるんじゃないかと近寄りたがらない。 「川の水が大変な事になっているから、近づいちゃいけないよ」  子供は頷くと玄関から飛び出し――数分後に、近所の女の子が息を切らしてやってきた。 「お、おっきなお魚がいるよ! 川を泳いでるよ! 大きいんだよ!」 「それは――『赤い』かな?」  私の問いにぶんぶんと頷く彼女。  私達は顔を見合わせ、いそいそと外に出た。近所の人に声をかけ、坂道を下る。  坂道の途中に、私達の子供がいた。  両手を握りしめ、汗をびっしょりかきながら川を見つめている。  私は彼を肩車すると、坂を下って行った。  了 
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