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第十話
所変わり、囚人の檻の部屋。
あの後ミザリは他の患者の診察があると言って出て行き、その隙を見計らって私は「自分の足で」外へ出た。夢の中で自分が走っていたからもしかしたら歩けるかも……とおそるおそる、という程度に足を震わせ地面につけた。
そしたら驚いたことに、なんと私は「いとも簡単に歩くことができた」。
車椅子に乗せられていたから勝手に自分は歩けないものだと思っていたけれど……どうやら違ったらしい。私は騙されていたのか。自分では歩けないものだと刷り込まされていたのか。いや、何でその必要がある?私を歩かせるということが何かの困りごとの種になるって……分からないや。
私は息を飲んで目の前の惨状を注視していた。
部屋の中はだだっ広い。ドアを開けてすぐのところに鉄格子があり、部屋の七割が囚人たちのスペースになっている。ただ家具はベッドと簡素なトイレ以外に何も置かれておらず、食事をまともに取れるようなスペースはない。ここはそもそも収容所でもなく病院なのに、人権もろもろの概念をほとんど取り払ったような場所だ。白い壁と白い床。けれどその床にはところどころ血と何かが混ざり合ったようなシミがこびりついて不衛生だった。
私はこの場所があまり得意ではない。いつも通り意味の分からない叫び声や言葉だけを繰り返し唱えているだけの彼らを見ているのはかなり堪える。それに、戦争屋の操り人形になっていた場面を思い返すと──頭が痛い。
「ぁあぁぁあぁ……あぁぁああぁ……恩赦、恩赦を……女神様、」
「濡羽色でまさしく子供の舌の根の色」
「ひっ、ひび、響、ッ、海底」
……全身包帯だらけの男の人“らしきもの”は、もうボロボロだ。さっきミザリと最初に来た時はまだ言語を保っていたのに、今はその面影程度のものだけしか喋らない。赤い手錠が光っている。禍々しく輝く赤の烙印。
私は耳を塞ぎたい衝動に駆られながら、鉄格子を両手で握りしめて声を出した。そう、金髪の少年に向かって、だ。許して許してと何かに対して恩赦を求め続ける彼に。万が一攻撃されても大丈夫だろう、どうせ痛みは感じないのだから。「話し続ける」ことはできるだろう。
「ねえ、貴方!」
私は一度ゴクリと唾を飲んでから、声をただ一人に向かって発した。目元を覆い目に見えない何かに対して赦しを希(こいねが)いながら蹲る少年に。彼となら、会話ができるような気がしたのだ。根拠は全く無いけれどそう思った。辻褄の合わないことばかりを言い続けている彼らの中で、彼だけはそんな雰囲気を持っていた。
「……?」
言葉の絶え間、ピク、と彼の肩が跳ねた。欠けた左腕は空気になって久しいのだろう、私が見てもまるで“その”状態が完全な状態であるかのようだった。
少し反応はあったが、彼はこちらを見ようとはしない。
私は諦めず声を掛けようとした。無秩序な言葉たちが耳の横を通り過ぎていく。
「私、貴方と話がしたいの。ちょっとだけでいいから、こっちに来てくれない?」
「……赦しを……お母さま……絶え間ない、愛を……」
絶叫は落ち着いたが、まだブツブツと言葉を吐き続けている。まだだ、まだ諦めないぞ。
「……貴方が私を怪しむのも分かるの。でもお願い、ほんの少しだけでいいから時間をくれないかな?」
「声が小さいなアオ。奴らにはもっとでかい声で言わないと意味ねえぞ」
え!
「!」
ふと背後から掛けられた声は確かに聞き覚えのある優しい声だった。
私は瞬時にそれが誰であるかを理解した。
「シン!」
「よっ、一週間ぶりの発声練習か?」
シンはそう言って悪戯っぽく笑う。どうやら私が眠り続けていたことは知っているらしい。
私の目は輝く。彼がこんな所に来るなんて思ってなかった。
「なんか久しぶりに会った気がするな。何してるんだ?こんな所で」
まあ大体予想はつくが、と彼は続ける。腕組みをしながら、何かを探るような目をこの部屋全体に向けていた。
「……話を聞こうとしてたの。この病院の本当のことを知りたくて」
「本当のこと?」
そこまで言って、私は「そうだ」と立ち上がった。シンなら知っているかもしれない、分かってくれるかもしれない──私がこの病院……いやミザリとホオズキに抱いている違和感。悔しいことに戦争屋が色々しでかしてくれたおかげで気づいたこと、だけど。
「シンは知ってる?この病院の外側には“何もない”ってこと。私、院長先生からそうやって聞いたんだ、だからパパが使ってた剣で大罪人たちを全員殺して、世界を救ってくれ……って言われた」
「おい話がいきなりだな」
マジか、とでも言いたげにあからさまに絶句するシンを無視し、私は続けた。
「大罪人を殺す?世界を救う?……意味が分からない、って思った。パパは何も教えてくれなかった……その剣のことも、何も」
少し眉をひそめたが、私が遊びで話している訳ではないことに気が付いたのか彼は真剣な表情を浮かべた。
「……精霊王が使っていた剣、っていうと“聖剣”か。それを何でお前が……ああ、娘だからか。大罪人を全員殺す……ってのが理解できないが、どういう事なんだ?」
シンは私の話に驚いた様子を見せない。最初に私が精霊王の娘であることを告げた時こそ驚いた表情をしていたものの、それ以外ではあまり見ていない気がした。頭の中は説明モード。シンのことは信用している。ミザリも彼のことを知っているみたいだから当然彼の方も認知しているだろうが、この秘密は守ってくれるだろう。
「それは……私には分からない。だけど、醜いものを全部消したらこの世界も綺麗になる、闇が晴れるって院長先生は言ってた。この病院はパパが残した最後の砦だから守らなければって」
「ふむ」とシンは顎に手を当てた。何かを思い巡らせながら。
「私がパパから教わったことも向こうの世界で知ったことも、何にも役に立たないの。だってこの世界はあまりにも私の常識とは違いすぎてて……」
「それはこの世界で産まれた人間も同じだ。だからこそこの病院のように、イカレた人間ばかりが集まるんだろう」
「何のためにここに生まれてきたのか、何でパパは私をここに送ったのか、何も分からない。私が選んだことが正しいのか……そんなことでさえも」
「“選んだ?”じゃあ何を選んだんだ?」
「……笑わないで聴いてくれる?」
チラリとシンの顔を見た私に、彼は「何を笑うことがあるんだよ」と嘆息した。こうしてマトモな会話が成り立つだけでも奇跡だというのに、余計なことを願った。
「……私は、ここの囚人たちを助けたい」
空気に強い薬のにおいを感じながら、私はそう本心を語った。
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