ひといろ

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 人の好みはそれぞれだ。  食べ物、芸術品、酒、たばこ、小動物……。  誰しもが好きなものと嫌いなものを持ち、前者を求めて後者を遠ざける。  対象は何でもよいし、長い人生の途中で変わってもかまわない。  甘い菓子が好きな子どもが歳をとり、若い頃は苦手だった野菜や魚を好むようになるのはよくあることだ。  バッハやショパンといった有名どころの曲を嗜んでいたハズが、気が付けばスウェーリンクやブクステフーデのような聞き慣れない作曲家に傾倒していることもある。  しかし好いているうちは健全でも、それが度を越えれば恐ろしい病となる。  好きも嫌いもほどほどにするべきなのだ。  この男にも好きなものがあった。  できることなら世界中の全てのそれをかき集め、永遠に自分のものにしたくなるほど愛してやまないものが。  しかしそれは不可能であった。  彼が愛しているのは ”赤” だったからだ。  なぜこれに興味を引かれるようになったのかは本人にも分かっていない。  ただ相対的に好きな理由は説明ができる。  何色にも染まってしまう白には強さがなく、反対に何にも染まらない黒には可愛げがない。  水色やピンクのような淡い色合いは中途半端な印象を与えるし、紫や黄は毒々しくて深みがない。  その点、赤である。  食べ頃の果実、赤身の魚や肉、バラをはじめとする花弁などには力強く、そしてポジティブなイメージがある。  なにより体内を流れる血液。  この赤さは生命の躍動、いや命そのものを表現していると言ってよい。  赤がなければ生命は存在せず、この地球は冷たく凍てていたにちがいないと彼は思う。  赤はそれ自体も魅力的だが、引き立て役を用意すればさらに映える。  たとえば白。  真白な布にほんの一滴の赤色のインクを垂らすだけで、芸術的なコントラストのできあがりだ。  平面に描画されているにもかかわらずまるで浮き上がって見える赤は、白に優越していることを如実に表している。  黒を基調に赤をちりばめてみると、何ら工夫を凝らすことなく高級感を演出できる。  言うまでもなく緑に赤を添えれば瑞々しい植物と果実の完成だ。  このように赤は何色にも勝り、何色にも屈せず、しかし何色をも迫害しない。  この世界に存在するあらゆる色は赤を中心に成り立っている!  男はすっかり赤の虜になった。  外に出れば信号機を見つめ、近所で小火(ぼや)騒ぎが起こればゆらめく炎に心ときめかせた。  花、車、文房具、家具、内装――。  彼はそれら全てを赤色で統一した。  自宅の外壁まで赤く塗りたくったために近隣住民と揉めたりもしたが、そのストレスも一面の赤を見れば自然と治まった。  しかしこれでも物足りないと思う瞬間がある。  そういう時は指先を切ってわざと出血させる。  彼曰く、赤にも細かな系統やランク分けがあるらしい。  信号や車の塗装等、いわゆる既製品に用いられるそれはランクが低いという。  ありきたりで希少性に欠けるのが大きな理由だが、最たる要因は深みがないため、とのことである。  対して高評価がつけられるのは花、絵画、果実だ。  これら自然が作り出す色は工業製品にはない希少性がある。  微妙な濃淡や厚み、時を経て変化した絵画の塗料などは世にふたつとない色であり、完全な再現が不可能なものだ。 「美しい…………」  彼は指先を見つめた。  それら赤色の頂点に立つのが血液だ。  前述のように生命そのものを表すこの赤は凡百の赤とは一線を画している。  濁っているようで澄んでいる表面。  高級感のある艶。  吸い込まれそうなほど鮮やかで、それでいて不気味で不吉さを感じさせる深み。  それが体内を絶えず巡っているのかと思うと、彼はなんともいえない気分になる。 「とはいえ――」  傷だらけの両手を見る。  精神の安定を図るためにしばしば血を見ようとして、あちこちに切り傷を作ってしまっている。  物理的な痛みを伴うこの作業をいつまでも繰り返すワケにはいかない。  かといって他の動物や人間を傷つけることもできない。 「どうにかしなければならないな……」
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