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かくして男は新たな色覚を手に入れた。
全てを赤で染め上げた世界はサーモグラフのように美しい。
濃淡や光沢のわずかな差異から物体の形状や位置、距離を把握できるのは誰よりも赤を愛し敬ってきた彼だからこそ可能な芸当だ。
おかげで日常生活に支障はない。
慣れれば書籍の小さな文字の羅列さえ識別できる。
蛇口をひねった際に真っ赤な水が流れた時にはさすがに驚いたが、今ではそれを当たり前のこととして受け入れられる。
「ああ、こんなにも美しい世界に生きられるとは――」
自分はなんと幸せなのだろう、と彼は心から思った。
真っ赤な部屋の中で緋色の本を繙き、紅色の文字を読む。
喉が渇けば朱色のお茶を飲み、腹が減れば茜色の飯を食べる。
彼にとっては極上の生活だ。
手術をしてよかった、と彼は心から思った。
だが――。
異変が起こったのはそれから数日後のことであった。
彼はある時を境に赤色を認識できなくなってしまった。
色が分からないワケではない。
術後の経過に問題はなく、彼の目には確かに赤色の世界が見えているハズだった。
認識できていないのは彼自身だった。
目の前に広がるその色がはたして赤色なのか、それともそれ以外の色なのか?
そもそも自分が見ているものに色がついているのか?
それ以前に”色”とは何なのか?
彼にはもうそれすら分からなくなっていた。
(これはどうしたことなんだ……!?)
せめて赤以外の何かが認識できれば、それとの対比で赤を認識することができたかもしれない。
だが色覚を捨てたのは誰あろう彼自身だ。
(私は何を見ているんだ? 私は何色を見ているんだ!?)
苦痛から逃れようと本棚の書籍をぶちまける。
散らばった様々な本は全て同じ色をしている。
手近にあったイラスト集をめくる。
同じ色のページが続き、同じ色の風景や動物の絵が描かれている。
「クソっ!!」
それらを投げ捨てて洗面台の前に立つ。
冷たい水で顔を洗えば気分が変わるかもしれない。
色の無い手が蛇口をひねり、色の無い水が流れ出す。
指に触れた冷たい感覚だけは本物だった。
ふと顔を上げる。
鏡がある。
そこに映る透明な顔と目が合う。
「あ、ああ……ああ…………!」
何もかもを認識できなくなった男は喚き散らしながら外へと飛び出した。
無数の色がひしめく、境い目のない地面を踏んだ時。
彼の後ろからけたたましく鳴り響くクラクション。
鈍い音がした数秒後。
彼は何も見えなくなった。
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