赤点と赤いプレゼント

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赤点と赤いプレゼント

夏休みを数日後に控えたある日の放課後、体育教官室。窓は開け放たれ、扇風機が三台も稼働しているのに、蒸し暑くて汗が止まらない。 こんな場所、普通の生徒なら一刻も早く出て行きたいだろう。なのにあたしがそうできないのは、主にふたつの理由からだ。 「俺は別に責めてるんじゃねぇ。あまりにもらしくねぇ点数だから、担任として心配してる。……今年は受験もあるしな」 まずひとつ目の理由。期末テストの結果が散々で、担任と面談中だからである。 先生の机の上には、あたしの赤点の答案が数枚。いつもならどの教科でも平均点以上は取っているので、夏休み前に呼び出されるのはなんとなく覚悟していた。 「何かあったのか?」 先生が、うちわで自分をパタパタ扇ぎながら尋ねてくる。 百八十センチ強の身長、筋肉質で逞しい体躯。万年ジャージ姿で、態度も言葉もぶっきらぼう。おまけにひゅっと吊り上がった切れ長の瞳に迫力があり、ほぼ全校の生徒たちから怖がられている、いわゆる鬼教師だ。 でも……あたしにとっては、全然怖くない先生。 「すみません……」 「いや、謝れとは言ってねえだろ。テストに身が入んねえ理由でもあったのかって聞いてんだ」 先生は渋い顔をしながらも「あるなら話してみろ」と、少し抑えめの声であたしをうながす。 やっぱり……本当は優しいんだよね、先生。でも、今回ばかりは先生の優しさに応えられそうにない。 「理由は……その。特には、ありません」 視線を床に落とし、ごにょごにょと口の中だけで呟くあたしに、先生の口がへの字に曲がる。理由がないなんて嘘だって、見抜かれているようだ。 ごめんなさい……。だって、言えないよ。 口は悪くても、誰より生徒思いの先生のことを、特別な意味で好きだって、最近気がついて。でも、友達には話せないし、恋心を持て余したまま、しばらくモヤモヤしてて。 そんな時、スマホを覗いていたら、たまたま見つけちゃったんだ。 担任の先生に一生懸命恋する、少女漫画の広告を。 試し読みしたらすっかりハマっちゃって、お母さんにお小遣いを前借りして、古本屋に走って、全五十巻を大人買い。 テスト期間中は、ほぼ寝ないでそれを読破してた――なんて、言えるわけ、ないよ。 それきり黙ってしまったあたしに、先生も言葉を掛けなかった。 ときどき「暑ちぃ……」と不機嫌そうな独り言をこぼすだけ。 窓の外から聞こえる蝉の声がうるさくて、余計に暑いし沈黙が気まずい。 でも、この部屋を出て行くっていう気分にはならない。 先生の顔を見ていられて、同じ空間に存在できて、そこにある空気を一緒に吸っているだけで、あたしは幸せだからだ。 そのうち、顔に浮かんでいた汗の雫が首筋を伝ってワイシャツの中にどんどん入っていき、先生に汗臭いと思われてたらどうしよう……と、不安になり始めた頃。 ガラガラ、と音を立てて机の一番下の引き出しを開けた先生が、あたしの目の前に何か差し出した。 それは、真っ赤なフタに〝辛い!〟と大きな文字で書かれたカップラーメンで。 「これ、食うか?」 「えっ?」 思いもよらぬ展開に、あたしの眉根がぎゅっと中央に寄る。 先生、いったい急になにを言ってるの? そりゃ、夏休み直前のこの時期は半日授業で、今日ももれなくそうだったから、お腹は空いてるけど……。 この暑い中、なぜわざわざこの辛そうなラーメン? よく状況が呑み込めないあたしに、先生が面倒くさそうに説明する。 「……俺には言えねえ事情があるみたいだから、しょうがねえ。悩みはこれでぶっ飛ばせ。何も考えられねぇくらい、頭ん中真っ赤になんぞ」 そして先生は、あたしの手に無理やり「ほら」とカップラーメンを持たせた。 そのフタを改めてまじまじ眺めてみると、当社比五倍だの、シビレる辛さだの、見ているだけで舌がぴりぴりしてくるようなフレーズが並んでいて、写真の麺には鮮やかな赤いスープが絡んでいる。 これ食べて、悩みをぶっ飛ばせって……ショック療法にも程がある。 悩みよりも唐辛子の刺激で、胃が痛くなりそう。 あたしは先生の突拍子もない発想に驚きつつも、なんだかじわじわ笑いがこみ上げて、やがて吹き出してしまった。 「真っ赤って……普通、真っ白、とかじゃありません?」 くすくすと肩を震わせながら、先生に指摘する。 「例えば、広い空を見て頭真っ白にしてみろ、とか。そっちの方がありそうですよ」 一応、先生は優しさから言ってくれたんだろうけど、全然カッコよくもなければスマートでもない。 なのにあたしは間違いなくときめいていて、やっぱり先生が好きなんだと思い知らされる。 そんな自分も、なんだかおかしくて笑えた。 「……文句あるなら返せよ。大事な俺の食糧なんだから」 不満げな先生が、ラーメンを取り返すべくこちらににゅっと手を伸ばす。けれど、あたしはそれをひょいっとよけて、先生に向かってべーっと舌を出した。 「やだ! 絶対に返しません!」 そして逃げるように、体育教官室を出て行こうとして。 出入り口の古くさい引き戸を閉める直前、「元気じゃねえか」という、先生の呆れたような、安心したような呟きが聞こえた。 それから荷物を取りに戻るため、廊下を走り、一段飛ばしで階段を上がって。 誰もいない教室へ戻ってくると、あたしは息を弾ませたまま、手の中にあるカップラーメンをもう一度しみじみと眺めた。 賞味期限の表示は半年後……来年の一月となっている。 あたしに残された高校生活は、あと八カ月ーーううん、夏休みや冬休み、受験もあるし、先生に会える日を計算したら、七カ月ないかも。 この恋心と、ラーメンの賞味期限と、どっちが長く持つだろう。 それがわかるぎりぎりまで、食べないで取っておこう。 それまでは、これがあたしの宝物。 不器用な優しさで、あたしの心を真っ赤に塗りつぶす 大好きな先生からの、初めてのプレゼントだから。
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