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会社のビルの一階ロビーで水菜は七瀬を待っていた。
「水菜、ごめん、待たせた。」
「いえ…。」
今日はスーツではなかったので、紺のジャケットに身を包んだ七瀬が、いかにも社長という感じで少し驚いた。
ズボンは少し砕けた感じの薄いベージュだった。
「ん?どうかした?行こう。」
当たり前の様に、手を取られ引っ張られる。
歩きながら、恥ずかしくなり下を向く。
「また〜下向く…。」
七瀬に怒られて顔を上げる。
「な、七瀬さん。何でわざわざスーツなのですか?」
「ん?だってデートだし、水菜のスーツに似合う様に、黒よりはちょい柔らかい方がいいかな考えて、家まで取りに行った。
こんな服如きで自宅に帰る日が来るとは思いもしなかったよ。
水菜といると世界が広がるな?知らない自分が出てくる。面白いよ。」
楽しそうに笑いながら言う。
ビルの外に出て、どこ行こうかと聞かれて、
「あの、わざわざ自宅まで行ったのですか?そんな大層な食事に行く気はなかったのですが…。」
「水菜ならそうだろうね?いいんだよ。綺麗な水菜の隣に立つに相応しい様に着替えに行ったんだから。俺は普段、ほら、ボロボロだろ?
恥ずかしい思いはさせられないし。
それに家は近いから、気にしなくていいよ?」
「近い?近いなら帰れば……。」
「ただ寝て起きて、すぐ仕事したいしさ。あ、因みに家は今度教える。
で、何処行きたいの?」
「梨香が連れて行ってくれたお店で、この裏のマスカレードって言う…。」
「ああ、昼はピザとパスタ。夜はコースだよな?いいね、行こう。」
手を引かれたまま歩道を歩いた。
周りの目が気にもなったが、七瀬さんの耳が少し赤いから笑えて緊張もほぐれていた。
梨香にランチで教えてもらった「マスカレード」は、夜も人気らしく混んでいた。外の椅子に座って並ぶ。
(しゃ、社長を並ばせている……。)
状況に冷や汗が出て来た。
「あの、他に行きませんか?しゃ…七瀬さんの食べたい所でいいです。」
「食べたいよ?ここ。夜のコースはグラタンお薦めだって梨香が。
あいつら付き合ってる時は外食ばっかりだったからさ。
水菜と並ぶのも楽しい。顔が見えるし、破れたスーツね、新しいの買うからさ、嫌な思い出ごと捨てていいよ。」
「え!!」
「え?なに?」
驚いて大きな声になった。
「あれは今、直してます。新しいのは結構です。
あれがいいんです。同じ物でも違います。」
水菜は強く言い切る。
「でも…思い出さない?」
「思い出します。でもその後、みんなが助けてくれた事、梨香が手当てしてくれた事、全部セットです。それは捨てたくありません。」
真は水菜の顔をじっと見た。
「うん……。さすが水菜。そうだよな。買った時の思い出もあるもんな。」
握られた手にぎゅっと力が込められた。
店内に案内されて、楽しく美味しく夕食を食べた。
ここでも笑わせてくれて、七瀬は優しく水菜を気遣っていた。
(絡まれた飲み屋が嘘みたいだな…。)
と思ったけど、口には出さずにいた。
前の仕事は会社と家の往復。
精々、週一の飲み屋。
こんなに楽しい外食は初めてで、水菜も世界が広がったと思っていた。
そして七瀬に心から感謝していた。
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