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君が幸せになるために、
穴の中に落ちる夢をよく見た。
どこまでもどこまでもただただ闇の中を落ちていく夢。いつまでも不安定な感じで、本当の自由落下みたいな速度ではないけれど、無重力みたいなふわふわした感じでもなくて。起きた時もまだ安定感がないみたいで気持ち悪い感覚がした。あの夢は好きじゃなかった。
とはいえ、今僕がいる空間も好きになれそうにない。
どこまでもどこまでも闇。ただただ何もない空間。空中を歩いているような錯覚さえ覚える。一体どうしてこんなところにいるんだろうか。でもまあ、どうせ夢だろう。すぐ帰れる。
そう思って、何もない闇の中を進んでいるという確信もないまま、歩き続けていた。
「ぁ……」
ふと、光が見えた。正確には、どこかに光が灯った。
闇を切り裂くような鋭さはないし、この闇を全て晴らすほどの力もない。けれど確かな光。
僕はそこに向けて歩を進めていた。
しばらくは歩き続けるだろうと思っていたが、案外早く光の前に立っていた。
光だと思っていたものは人だった。正確には、人がいてその後ろから光が射していた。
でも僕は、光と人が一体だと思った。この闇の中から浮き出るような白い肌と白い髪を見れば、誰だってそう思うだろう。おまけに白いワンピースまで着ている。
でも、この少女の存在はどこか不自然だ。
風もないのにワンピースの裾や髪の毛が揺れているし、そもそもの話浮いている。もっとも地面がどこなのかよくわからないのだが、それでも確かに『浮いている』と感じた。
少女はゆっくりと眼を開いた。長い睫毛に縁取られたなかに、快晴の空のような色の瞳を宿していた。
目があった瞬間に、彼女は僕に向かって微笑みかけた。僕は今までにないくらいに脈拍が上がった。
何も言葉が出てこない僕に、彼女は頭に響くような声でこう言った。
「私を殺してください」
突然すぎる言葉にその意味を見失った。
神話に出てくる女神です、と説明を受けてもあっさりと納得してしまいそうなほど美しい姿とは、あまりにかけ離れた言葉だった。
青い瞳は僕のことをまっすぐにみつめる。懇願するように。眼をそらしたくなるほどに。
「私を、殺してください」
彼女は再びそう言った。一言一言を僕のもとへ届かせるように。それでやっと言葉の意味を理解した。辞書で引けるような意味を。彼女が僕に本当に伝えたいことはわからない。
青い瞳はまだ僕をまっすぐにみつめる。
耐えきれなくなって言葉を探す。
「君は誰? 誰だかわからない人を殺す理由なんてないよ。
「僕には君を殺す理由がないよ」
そう言うと、彼女は少し寂しげな顔をした。
「覚えていないのですね……」
目を伏せる彼女。
白い髪に青い瞳の女の子なんて忘れようにも忘れられないだろう。それでも僕が覚えていないということは、つまりそういうことだ。
というか、この場所は一体何だろう。闇に包まれている割には、彼女の姿も自分の体もはっきりと視認できる。むしろ、彼女の姿は暗闇の中で輝いているかのようだ。さらに、この闇の中には一切の建築物がない。彼女と僕しか存在しないのだ。
よほど困った顔をしていたのだろうか。彼女が答えを教えてくれた。
「ここは、あなたの心の中」
「……この闇の中が?」
「……そう」
僕の心は闇に満たされているとでも言うのだろうか。
「ていうか、それなら尚更君は誰なの?」
「本当に、思い出せない?」
潤んだ瞳で言われたって、わからないものはわからない。それでも一応、彼女のことをよく見て見る。
艶やかな白い髪。陶器のように滑らかな白い肌。ビー玉みたいに綺麗な丸い瞳。まるで人形のようだ。
「やっぱり、僕には覚えがないよ」
「違う」
彼女はキッパリと否定した。まるで彼女と僕の周りの空気までが切れてしまいそうな言い方だった。
ふと、彼女はその顔に寂しげな色を浮かべる。
「覚えがないんじゃなくて、封じ込めてるだけなの」
「封じ込める?」
「そう。あなたは私の存在を閉じ込めて、無いものにしていたの」
まっすぐに僕を見つめる青い瞳。
そんなこと言われたって、余計にわからない。
「だったら、無いものになってた君がどうしてここにいるの?」
「思い出すべき時が来たから」
思い出すべき時。口の中で呟いてみる。
「でも、僕は君を思い出せない」
「それはきっと、私の姿が違うから。ほんとの私はこんなに全身真っ白じゃないの」
なら、どうして彼女は闇の中で光るほどに白いのだろうか。
彼女はまるで僕の頭の中が見えているかのように言った。
「それは……きっと私が、君にとって光だったから」
そう言ってほんの少し寂しげに笑った。
そうか。ここは心の中だから、見えるものが全てなんだ。僕の心の闇を照らすのが彼女だったのか。
呆れるほど真っ暗な闇を見つめて僕はそう思った。
「本当の君はどんな姿をしていたの?」
僕の問いかけに、彼女は少し困ったようだった。
「いたって平凡だったよ。茶色っぽい髪に薄茶色の瞳。肌はこんなに白くなかったかな」
彼女がそう言い終えた途端──正確には彼女の言葉通りの姿をイメージした途端──に、彼女の髪の色が変わった。瞳も、肌の色もほんの少し変わったように思えた。でもそれはあまりに一瞬のことだった。瞬きする間に瞳の色は変わり、彼女は青い眼でこちらを見つめていた。
「……思い出した?」
その眼に薄っすらと涙が浮かんでいる気がするのは見間違いだろうか。もっとも、彼女以外に光のないここでそれを判断する術はない。いや、光があったとしても僕はそれを判断できなかっただろう。そんなことができるほど、僕の心は落ち着いていなかったのだ。
呼応するかのように強風が吹きすさぶ。彼女の髪が乱れる。揺れる髪の間からわずかに茶色の瞳が見えた。
どうして。どうして忘れてしまっていたのだろう。
「だから、忘れたんじゃないよ」
当然のように僕の心中を読み、答える彼女。
「閉じ込めてたの。私がいなくても生きていけるように。自意識過剰って思う?でも、ここでは君の考えは筒抜けだからね」
彼女はいたずらっ子のように微笑んだ。
「私は、あなたの光だったんだね。そんな風に思ってくれてありがとう。でも、もうダメだよ」
その、青い双眸がしっかりと僕の眼を捉える。そして、再び投げかけられる言葉。
「私を、殺してください」
「……殺してくださいも、何も」
震え声で僕は言葉の続きを絞り出す。
「君は、もう死んでるじゃないか」
あの時のことを、忘れるはずがない。そう思っていたが、事実として僕は彼女を封じ込めていたのだから有言不実行という奴かもしれない。
───それでも…。
あの日、あの時。水底に沈んでいた君を。反射した光の網に捕らえられた君を。死んでしまったにしてはあまりに美しい君を。忘れられるはずがない。
「……私はね、死んじゃったんだよ」
彼女のほうから強風が吹き抜けた。
「だから、ここにいるのはおかしいでしょう?生きていないんだから」
深く息を吸って。
「殺してください」
それはつまり、無いものにしろということ。
僕の中から君の存在を消すということ。
「そんなの……無理に決まってるだろ!?」
いつの間にか頬を伝うものがあった。それに気づかずに僕は叫び続けた。
「ここにいてよ……!じゃなかったら、もしも君を…………光を、失ってしまったなら、僕はどうすればいい……?」
彼女はあからさまに困った顔をした。
「君は、私を殺さないといけないんだよ」
「どうして……!? もう一度会えたのに……」
もう、絶対に別れたくないのに。
「ここにいる私は本当の私じゃないもの」
そう言う彼女は凛としていて、喚いている僕が情けなくなった。でも、今はどんな醜態を晒してもいいから、彼女をここにとどめたかった。
「ダメ。君が殺してくれないと、君が一番困るんだから」
風に乱れる眩い髪を手でなだめながら続ける。
「それに、まだ何か勘違いしてるみたいだね。私は消えるんじゃなくて、君の思い出の中に残るんだよ。心じゃなくて思い出の中に」
青い瞳はどこか遠くを見つめる。
「君が、私以外の誰かを見つけて、その人と幸せになるために。今はこんな暗闇だけれど、それは君が目を閉じているだけだと気づかせてくれる人と出会うために。誰かが君を支えてくれてるって気づくために」
青い瞳は僕を捉えた。
「君が、生きていくために。私を殺してください」
言い終えた途端、瞳から雫が流れ出した。彼女も、僕も。
何も言えやしなかった。何も出来なかった。ただ、望み通りにしてあげるのが、今できることなのだと悟った。
いつの間にやら僕の手には、ナイフが握られていた。彼女は空中を滑って近づいてきた。僕はナイフを持ったままの手を彼女の背中にまわした。
そして、抱きしめると同時にそれを突き刺した。
彼女も僕を抱きしめていた。突き刺した瞬間に身体が硬直するのが分かった。血が流れたり、身体が冷たくなることはなかった。彼女は最初から死んでいるのだから。
彼女の身体から光の粒子が飛んでいくのが見えた。少しずつ、少しずつ彼女の身体は光になってどこかへ旅をするのだ。
「……ありがとう。忘れないで。君は独りじゃないってこと」
震え声は光と共にどこかへ飛びたっていった。
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