シフト

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 ガシャンだかバシャンだか、とにかく背中で叩き割ったような音と衝撃を感じた。  水の中へ、どんどん沈んでいく。しゅわしゅわと体から泡が出て上へ昇っていく。何かに似てる、と考えていて、思い付いたのは炭酸ガスの入浴剤だった。小さい頃はよく湯船に投げ入れる役をやらせてもらった。大人になってからは入浴剤なんて贅沢品だと思っていて、自分のお金で買ったことは一度もなかったかもしれない。  なるほど、だからこんな夢を見るのか。夢の中だ。体が水の中で泡立つ夢。入浴剤になる夢。深層心理的にどういう意味があるんだろう?  どんどんどんどん沈んでいく。水面が遠ざかっていき、周囲は暗くなっていく。まるで深海だ。背中から落ちているのでどこまでいくのかわからない。体が冷えていく。やっぱりここお風呂じゃないよな。すうっと、血が抜けてくみたいな冷たさ。そう考えたと同時に、周囲がぶわぁっと真っ赤に染まって、恐ろしくなって声を上げようとするとボコボコと大きな泡が弾け、思わず目を閉じた。  体のそこらじゅうにちりちりと刺激があるのを手で払うように動くと、赤い景色はすでに消えて、おがくずの中にいた。色素の薄い黄色のおがくずはやけに眩しく、偽物の森の匂いがした。上を見上げると煌々と蛍光灯が照らしている。ただ私がぎょっとしたのは、すぐ隣に私と同じくらいの大きさのコガネムシが仰向けに横たわっていたことだった。息はしている。蛇腹の胴を上下にヒクヒクさせ、天井へ向けた足は南国のダンスのようにゆらゆらうねっていた。  頭上で大きな何かが動く気配を感じ再び見上げると、吸血鬼のように八重歯をちらつかせ、蛍光灯の光で茶髪を輝かせる、子どもの姿の巨人が現れた。おののいて逃げようとすると、手だと思っているものが足として、そして私が足として動かしたものも当然足として同時に動く。そのことに混乱しているうちに、その巨人に片手でひょいと掴み上げられた。全てが足と化した四肢をばたつかせていると、なぜだかもう二本、合計六本の足が私の意思で自在に動き、子どもの巨人の指をひっかいた。声を上げても音は出なかった。  私を掴む手とは反対の手には注射器が握られている。彼はおそらく人間で、彼は私を人間とは思っていないのだろうが、人間だと自分では思っている私には彼が今から何をしようとしているのかがわかってしまい、恐怖でもがくことしかできない。しかしちょうど左わき腹のあたりに小さな痛みがちくりとあって、体の中にじゅわっと冷たい液体が入ってきたのがわかった。  掴んだときとはうって変わってやさしくおがくずに下ろされる。ああ、ああ、と混乱していると、先ほど注入された冷たさがじわりじわりと腹、胸、足先まで広がってくる。真冬に外で立ち尽くしているときのように、ゆっくりと体温がなくなり、感覚を奪っていく。次第に視界まで霜が下りるように白くなっていき、やがて何も見えない真っ白な闇が訪れた。  どのくらい白を見つめていたのだろうか。数分のようにも、数日のようにも思える。しかし突然ワイパーが動くように視界が開け、傍らにいたコガネムシも、おがくずも、注射器をもった人間もどこかへ去っていた。代わりに周囲にはネジや金属の部品などが散乱しており、体感数メートル先にはブリキ製と思われるロボットのおもちゃが壁に寄り掛かるように座っていた。私はそのおもちゃに対面するように反対の壁に寄り掛かっている形だった。体はまだ思うように動かない。  そのおもちゃは昭和にやっていた特撮に出てきそうな、明らかにロボット! というデザインで、動くときはガシンガシンと音を立てそうだ。古いものらしくあちこち塗装のハゲや錆のような茶色い汚れが目立つ。車のヘッドライトに似た大きな目からは何か黄色い液体が垂れており、泣いているように見えた。 「泣いてるの?」  私は話しかけてみる。実際には口は動かず喉も震えたように思えないが、どうやら私の背中から出ているらしい、携帯の充電器くらいの太さのワイヤーが彼のところまで伸びていて、ストローで吸い上げるように彼の元へ届いた。 「泣くわけないさ」  彼の返事が、同じようにワイヤーを通って私の中へ入ってくる。 「涙が、出てる」  この不思議な交信手段に戸惑いつつ、短く言葉を返す。 「僕はもうだめだ。頭部の電池が液漏れをしているんだ。体も動かない。もう充分だ」 「それは、私も?」 「君は電池が空っぽなのさ。まだ使われる」 「リサイクル」 「僕たちは中古品さ」 「あなたはどうなるの?」 「君に託せる部品もない。消える」 「そんな悲しいこと」  私の体はまったく動かないので、具体的にどこが壊れているのかわからなかった。電池が入っているのかも、手足がちゃんとあるのかも。 「もし、まだ僕の中にネジひとつでも使えるものがあったら、もらってくれる?」  彼はとろとろと目から黄色い涙を流す。ワイヤーは細かく震えた声を伝える。 「あなたのこと、忘れたくない」  それだけをどうしても伝えたい気がして、力を込めて言った。  彼の返事を聞く前に、私たちを繋いでいたワイヤーを切るバチンという音が響いた。彼は誰かの大きな手に乱暴につかみ上げられ、どこかの箱に投げ込まれた。バキバキ、グシャグシャといろんな音がする。  待って。  発した言葉はワイヤーの切断面から飛び散って消える。気持ちが昂ぶる。すると、体のどこかが誤作動を起こすようにカタカタ痙攣し、目からぶしゃりと何かが飛び出した。液漏れ。ぴちゃぴちゃと地面に滴る。痙攣はますます大きくなり、震えにバランスを崩した私は顔面からうつぶせでガチャンと倒れた。 「なにやってんだよ」  笑われながら私は引っ張り起こされる。ごめんごめん、と顔を上げると、見覚えがあるようなないような、少年とも青年とも言えないような、懐かしいような緊張するような、不思議な感覚にさせられる人と目が合う。この茶髪、八重歯、どこかで毎日のように見ていたことがある気がするのに、初めて見つめた気もする。 「もうそろそろだよ」  彼は言った。 「ねえ、私、いつから起きてた? いつから目が明いてた?」  眠っていたことすら気のせいではないかと、そのくらい私には目覚めた実感がない。さっきから起きている変な体験や景色、感覚は今の私とひとつながりだと思う。明らかに現実ではないのに。  尋ねる私に、彼はフフッと笑った。何をおかしなことを、というような、小馬鹿にする笑い方だった。私は少しむっとする。 「君はまだ目覚めてないよ。目も閉じたままだ」  彼の言うことを理解できない。それでも私は彼の言葉を受け入れられた。彼が嘘を言っていないことを、私は確かに知っている。いろんな音が鳴っていて騒がしいのに何一つ聞き取れる音がない。全てが完全に混ざり合っていて、うるさすぎてもはや静寂。始まる予感はひしひし迫る。 「女の子なのか」  彼は私を見つめながら言う。私の風貌が女に見えないのかと焦り、確認しようとする。しかし本当に私の目は閉じたままなのか、私は自分の手も足も見ることができない。目玉だけが浮いているようだ。 「ここはまだ夢なんだね?」  私は彼に訊く。彼は首をかしげただけで肯定も否定もしない。 「こんなに突然とは思わなかった」  そう言う彼は一度も私から目をそらさない。 「君には悪いことをした。僕の走馬灯に巻き込んでしまって、きっとたくさんのものをないがしろに生きてきたから、怖い思いをさせてしまった。不徳ってことになるんだろうね」  ますます言葉の意味がわからなくなる。彼は何を言っているのだろう。 「僕はてっきりね、三十代、四十代と歳を重ねて、収入が増えたら、毎日でも温泉の香りがついた入浴剤入れてゆっくり湯船に浸かれるもんだって、思ってたんだよ。結婚して子どもができたら、息子なら昆虫採集のやり方教えたり、一緒に特撮見たりなんかしてさ。当たり前のように、そういう未来図を描いてたんだ。一瞬だった。だから、君の番だ」  まっすぐ私を見据えている彼の瞳に変化を感じて、じっと見つめていた。なんだろう、と考え続けて、あ、と思ったときにはすでに最終段階だった。彼の瞳孔が広がると同時に、私の目が開いていく。 「君に託せるものはきっとない。君は覚えていられない。でも、同じような気持ちで生きていってほしい。いつも大好きな人に感謝して。いつ終わるかわからないから。さよならも間に合わないくらいの速さで消えてしまうんだ。当たり前というのは、大きな奇跡によって守られているんだということを、感じながら生きて。これが多分、僕に残った小さなネジだ」  目が開かれるにつれ、視界は強い光で眩む。景色がまばゆさで消し飛んでいく。頭の中も真っ白になる。忘れたくない。私はあるのかもわからない見えない手で、彼の手を握りしめる。  固く手を握ったまま、水の中からどぅるりと引っ張り出される。生温かい液体にまみれ、頭の後ろと背中に大きな手が添えられる。名前もないただの魂に直に触れるような、この感触はなんだろう。過去にあった思い出のようでもあり、これから始まる未来の予知のようでもある。体の真ん中あたりで「バチン」という音が響いた。わからない。目はぼやけて見えないままで、音もぐちゃぐちゃで判別できない。わからなくていい。あいまいに感じ取れる、膨大な祝福と、喜びと、愛の気配。これがすべてわかってしまったら、きっと体がぺしゃんこになってしまう。でも、忘れてはいけないものがあった気がする。忘れたくなかった人や、思い出や、気持ちがあった気がする。わからない。もうわからない。何がわからなかったのか、何が悲しいのか、何もかもがわからずまっさらになって、私は「あああ、あああ」と声を上げて泣き続けるしかなかった。
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