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Episode3.宇宙飛行士とかぐや姫
美しいばかりの月の世は、独り故郷を失った宇宙飛行士には余りにも残酷だった。
「僕の記憶を消し去ってほしい」
もう酸素も必要ない──男は目の前に佇む壮麗な女に嘆願した。女は遙か遠い昔、かぐや姫と呼ばれ寵愛を欲しいままにした悲しきはぐれ者だった。長い黒髪と十二単のよく似合う、奥ゆかしく可憐であった彼女は、地球という愛の惑星を離れた途端に豊かな心の泉を失ってしまった。
「……人の、運命ですね」
その姿は相も変わらず目を奪う。薄氷のような怜悧な美しさは、無痛症を思わせる白い肌から花の香を放っている。
深海に染まった長く青い髪。全身には植物のように複雑に絡んだ真っ赤な紋が刻まれており、神話の女神を連想させるゆったりとした白いドレスが微風に揺れ、何かが壊れる予感のする空気を作り出していた。
「後悔はしませんか」
かぐや姫は、白雨の水溜まりのような瞳をゆっくりと閉じてそう言った。
「ああ」
宇宙飛行士は重々しく頷く。慈愛がこもった、しかしどこか人形じみた視線に彼は生への諦念を揺るがされた。夢にまで見た月世界への探訪。だがこのような形で叶うとは。
宇宙船と隕石が衝突して真空へ投げ出されると、目の前にあったのは魔術的な雰囲気を纏った女と大きな水晶玉、そして終わらない銀世界だった。彼女は、「この水晶玉は地球の現在を表している」──と彼に語った。そこには、それが悪夢であることを願うほどに凄惨に爛れた都市の姿があった。
「……記憶は時に人を苦しめます。その中に住み着いた無数の蝶は自由であるが故に鬼門へも羽ばたき、しかし、しかし同時に太陽の息吹が掛かる方角へも軽々と飛び立っていく」
「……君は、随分悲しい顔をして笑うんだね」
そう言う彼の方も、悲壮を湛えた表情を浮かべている。
「私は……少女の頃の記憶を持っていません。そのことで幾度も苦しみました。何も覚えていないのに、時としてどうしようもなく胸が切なくなるときがあるのです……だからいくら貴方が苦しみの渦中にあろうと、私にはそれはできない」
水晶玉の中の世界は切り替わる。隕石が衝突した後の荒廃した都市から一転し映し出されたのは、地上とは対照的に澄み切った青空だった。
壊れた宇宙服で冷たい地面に力なく座り込む自分の姿は、死んでしまったであろう仲間たちからすれば何と滑稽な姿だろうと男は自責した。身体を動かすことさえ億劫だった。
「……頼むよ、月のお姫様。哀れなぼくの願いを叶えてくれるんじゃないのか……?」
男は自分でそう言いながら、ひどく虚しい気持ちになった。かぐや姫の話によれば地球は自分の宇宙船と衝突した隕石群に命を奪われ、生存者はいないという。月世界の姫の特権である能力は、あらゆる惑星の生命の流れを透視し、“苦しみを排除する”ことだという。
「……私が貴方の希望を砕いてしまったのですか」
かぐや姫は悲しそうな顔で呟いた。言葉の語尾が線香花火のようにこぼれ落ちる。
多くの別れをその唇で呟いてきたのかもしれない、そう考えると男はひどく脳が痙攣していくのを感じた。
彼はしばらく沈黙したあと、やがて口を開いた。
「……いや、君のせいじゃないよ」
そう言っておもむろに首を振る。どうあがいても地球には戻れない。彼女が嘘を吐くとも思えないし、故郷は滅んでしまったが自分だけはのうのうと生きている、これだけが紛れもない真実だろう。
「ぼくはどのみち生きられないだろう。人間は、滅びる」
小さくなった背中に、彼女はそっと手を触れた。自分もかつては暮らしていた世界のことを追慕したのだ。「彼ら」のことは、終ぞ存命中に思い出すことはなかったが。
「……全てを背負ったまま生きるには、人の夜はあまりにも長くなりすぎました」
そう言われて男は故郷の都市を思った。深夜にこそ存在を放つネオンサインと疲弊した人々の行進、そして鳴り止まないサイレン、暴力の胎動。そうだ、ぼくはこれが嫌で宇宙を旅することを決めたのだった──男は今更ながらに初心に立ち戻った気持ちがした。「そうだね」と力なく返事をして、彼は皺のつき始めた手をゆっくりと白い空に掲げる。
「途方もない愛を、果たしたかったことがあるんだ」
「彼女は愛を信じていなかった……なぜならどれだけ色々な人間に愛されようと、心だけはずっと孤独だったからだ。ずっとずっと愛していたけれど、ぼくは──」
二人の間に沈黙が流れる。かぐや姫は掛ける言葉を探したが、生憎それは見つからなかった。男は何かを悟った様子で、「もう記憶のことはいい」と言った。
彼女は記憶を辿る。家来たちに連れられ戻った月世界で、涙が流せなくなるとは思いもしなかった。愛してくれた人々は自分にも確かにいたはずだった、けれど何も思い出せない、胸はもういっそ張り裂けたいと叫ぶのに、目は作り物のように冷淡な温度を保ったままだった。
そして今も、声を上げて悲しみたいのに、月の力が姫にそれを許さない。
──もう彼女の力で彼の傷を隠すのも、限界が近かった。
「最後に聞かせてくれ。……君は、君が生まれた世界を愛していたかい?」
「……私は」
言葉に詰った。ここでどんな言葉を言ったとしても、それは自分の言葉ではないように思ったのだ。だったらもう、何も言わないほうがいい。名も知らぬ哀れな宇宙飛行士には、ただせめて──苦しみの記憶を消し去るだけでいい。
「……はは、何も言わないのか」
笑うのにも疲れたという様子で、彼は涙を流し始めた。
「きみは、美しいね。L幾つになっても美しいままだ《・・・・・・・・・・・・・》」
「……え?」
彼が息を引き取る寸前。
かぐや姫は、確かにそこに懐かしい人間の匂いを感じた。
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