ある思い出に

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ある思い出に

 彼女の家が中学校までの通学路の通りにあり、その家の二階の窓が夕方になるといつも赤く光っていたのを今もハッキリと覚えている。あれはなんだったのだろう。赤いカーテンのせいなのか、暗い部屋に照らされたその部分が私には血の色を思わせたものだった。しかしそれは今だからそう思えるのかもしれなくて、当時は別の印象を持っていたのかもしれない。覚えているといっても記憶というものは自分の都合のいいように容易く改変できてしまうものだからだ。そこが彼女の部屋であったかどうかはわからないし、今となっては聞くすべもない。いや、当時でさえ、聞く事などなかったのだ。なぜなら彼女とは滅多に口をきかなかったのだから。彼女の家族構成すら知らず、私の知っている事はその家に彼女が住んでいたということだけだ。  病気がちだが、性格の明るい彼女は、無口で性格の暗い私と見事なまでに正反対だった。そして席が隣であるにも関わらず彼女と私はお互いを避けていた。私にとってはそうした方が波風が立たなくて済むかからという自己防衛からであり、彼女にとっては教室の隅っこの汚れのような私の存在がただただ不快であったからだろう。  休憩時間になって彼女の周りに人が集まると私は邪魔にならないように廊下に出て行った。無口であり人と喋るのが苦手な私は一人でいる方がよかった。休憩時間は大抵は裏口へと降りる滅多に誰も来ない階段に座っていた。たまに教室に帰るのが遅れた私が慌てて教室へ戻るといつも教室の軽いお小言とみんなの冷笑ですらない乾いた笑いが待っていた。彼女は私を笑いすらせず、私の存在など初めからなかったが如く表情を変えずに授業を受けていた。  それからしばらく経った頃だろうか。彼女がだんだん学校休みがちになり、そして完全に来なくなったのは。彼女の友達は彼女の話ばかりしていた。重い病気であるそうだ。お母さんがトイレで泣いてたみたい。ひょっとしたらもう学校には来れないかも。私はそれらの報告を聞いて自分が健康であることに感謝し、そして彼女に対する薄気味悪い優越感を感じたものの。それはすぐに自己嫌悪にとって変わった。  彼女が病に倒れてから、私はあの部屋を見まいとしていた。自分の醜悪さがあからさまに表出されるのが恐ろしかったのである。今や彼女の家はあらゆる不幸の塊であった。心なしか皆彼女の家を避けているようだった。なぜなら今まで喋っていた人間が彼女の家を通る時は急に無口になり足早に過ぎさって行くからだ。しかしある日私は部屋を見てしまったのだった。おそらく自分の中の良心が心の中にどす黒く渦巻いていた醜悪な好奇心に負けたのであろう。もともと自分の良心というものがどれほどのものなのかわからないが。  私がその部屋を見た時は明かりはついていなかった。しばらくすると明かりがつき私にはお馴染みとなったあの画面が現れる。しかしそれはすぐ消え、そしてまた現れる。恐らく誰かが点けたり消したりしているのであろう。明かりは目まぐるしく点滅したのちやがて窓は真っ暗な闇となった。  彼女が死んだと聞かされたのはそれから一ヶ月後の事である。教師が朝礼でそれを報告した際教室中にどよめきが起こった。クラスの女子は一斉に泣き出した。私は隣の席を見て在りし日の彼女を思い浮かべながら、唖然としたものだった。仲は良くなかったが彼女の明るさに憧れてた部分はあった。いつも彼女はクラスの中心でみんなの人気者だった。そんな彼女がもういない。  休憩時間中に彼女の友達が彼女について涙交じりに話をしていた。今日彼女に会いに行くとか、告別式には参加しなきゃとか、やがて興奮した一人が私を見ると声を荒げてこう叫んだ。 「ねえ、何でアンタが死ななかったの?何で彼女が死んだのよ!アンタが死ねばよかったのに!」  みんなが一斉に私を見た。  結局私は彼女の葬式に行かなかった。葬式中は彼女の家を避けて通った。その間中私の頭の中でこの間言われた言葉が延々と繰り返されていた。 「アンタが死ねばよかったのに!」  当たり前の事だがみんなに必要とされていたのは彼女であり、私ではなかったのである。みんなが必要としている人間が死に、必要ともされずどうでもよい人間がこうして生きている。人間の生死を私が決められるわけはないのだから、いくら不条理だからといっても仕方のない事ではないか。ご覧の通り世界はいらないものばかりで溢れているのだから。  その後、彼女の家族は引っ越しをしたのか、その家はいつの間に取り壊され更地になっていた。私は彼女の家が取り壊される前に一度だけあの部屋を見た事がある。  部屋いつものように窓がぼんやり赤く照らされていた。私の記憶が正しければ、それは血のようでもあり、また死んだ彼女の涙で濡れた赤い目かもしれなかった。  完    
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