夢から覚めても 2

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夢から覚めても 2

季節は6月、梅雨入り間近の曇り空だった。 「パパ、お兄ちゃん、いってきます!」 「芽生くん、いってらっしゃい」 「芽生、頑張って来いよ」 『ゆめの国』から覚めても、幸せな日々はちゃんと続いている。毎朝これが現実だと思うと嬉しくなる。  芽生くんのランドセル姿もすっかり板についてきたが、相変わらず重たそうだ。    洗濯物を干しながらマンションのエントランスを見つめていると、芽生くんたちが出てきた。  よし! ちゃんとひとりで降りられたね。    どうか今日も1日無事でありますように。    芽生くんにとって楽しいことが沢山ありますように。 「瑞樹、早くしないと遅刻するぞ」 「はい!」  チラッともう一度だけ芽生くんの後ろ姿を見ると、他の登校班の子達と合流して賑やかになっていた。どんどん小学校に馴染んで、お友だちも増えて楽しそうだね!『ゆめの国』では、僕とずっと手を繋いでくれていたので、少しだけ寂しくなってしまうが、これが見守るということなんだね。 「瑞樹、あと5分だぞ」 「あ、急ぎます!」 「朝食の片付け終わったから、俺も手伝うよ」 「じゃあ、これを」   宗吾さんに僕が握っていた洗濯物を何気なく手渡した。 「ええ、瑞樹ぃ~ ここ、これは! おーい、大胆だな」 「え?」 「朝から『瑞樹のパンツ』をいきなり渡すなんてさ」 「あ……あぁあああ」  しまった! しでかした!   「そういえば……このパンツを探した日もあったよなぁ」 「あ……もう!」    慌ててガバッと奪い取ると……名残惜しそうに今度は僕のヒップに手を伸ばしてきたので、サッとかわした。 「やっぱり駄目か」 「ベランダでは駄目です!」 「はは、ごめんごめん。しかし相変わらず可愛いなぁ」  僕らの惚気た会話は、毎朝お決まりだ。  それにしても宗吾さんは、僕のパンツにいつまで執着を?  でも宗吾さんらしいな。決める時は決めて外す時はとことん外す? であっているのかな?  宗吾さんとエレベーターに乗り込むと、ようやくリフォーム工事を終え、電光掲示板が『今日は何の日?』と教えてくれる最新型になっていた。  「あ、今日は『時の記念日』だそうですよ」 「そんな記念日あるのか。知らなかったな」  6月10日の時の記念日は、時間の大切さや時間を守ることを意識してもらうことを目的として、今から100年ほど前に制定された記念日だそうだ。 「時間を守るか。芽生にもこれからしっかり教えていかないとな」 「それって……僕たちにとっても大切なことですよね」 「そうだな、芽生とした約束はちゃんと守ってやりたいな」 「そう思っています」  仕事の都合で学童保育に迎えに行くのが、予定より遅くなることもあるが、そういう時は事前に連絡をしている。  僕は……五分でも十分でも……約束の時刻に約束した人が現れないのは、とても寂しいし怖いことを知っているから。  今の芽生くん位の頃の話だ。 ……  下校間際……突然ザーザー降りの雨が降った。  朝晴れていたので油断していて、誰も傘を持っていなかった。  やがて一人、二人と……お母さんが長靴と傘を持って迎えに来てくれる。  でも僕のお母さんはいつまで待っても来てくれない。  寂しかった。今日、お母さんと約束したわけではないので仕方がないのに、とても寂しかった。そしてお母さんに何かあったのではと怖くなった。  だから時間を決めた約束は、しっかり守りたい。  あの日……家に帰ると母に何度も謝られた。  夏樹が午前中から急に熱を出して吐いてしまったので、目が離せなくて迎えに行けなかったそうだ。そんな事情があったなんて、知らなかった。  母は濡れてしょんぼりと帰宅した僕をタオルで拭いて、ぎゅっと抱きしめてくれた。 『みーくん、ごめんね』  僕は母にくっついて小さく泣いてしまった。 『ママ……いなくなっちゃったらどうしよって……ぐすん……』 『みーくんをこわがらせてごめんね』 『ママぁ』    母はその日は久しぶりに一緒にお風呂に入ってくれた。  6歳の僕は、母の胸にもたれてほっとしていた。  …… 「宗吾さん、今日は雨降りませんよね?」 「どうだろう? そろそろ梅雨入りだから分からんな」 「あの……今日は早めに迎えに行ってもいいですか」 「うん? どうした」 「そういう気分なので」  宗吾さんは温かい笑みを浮かべてくれた。 「芽生はさ、1分1秒でも早く瑞樹が来てくれたら喜ぶよ」 「そうでしょうか」 「あぁ俺が保証する。そんで俺も二人が早く帰って来てくれるのが嬉しいのさ」 「はい! じゃあそうします」  学童保育は最長の19時。小さな芽生くんには負担になる時間だ。  だから少しでも早く迎えに行ってあげたい。雨が降っていなくても…… **** 「葉山、すごいスピードで仕事終わらせたな」 「菅野、悪い! これだけしまっておいてくれるか」 「ん、いいぜ、あれ? いつの間にか雨が……」 「本当だ!」  朝、雨の日の切ない気持ちを思いだしたせいか、早く迎えに行ってあげたかった。 「芽生坊、寂しいだろうな。雨の日は人恋しい気分になりやすいよな」 「そうなんだ。だから……少しでも早く迎えに行ってあげたくて」 「あ、じゃ、これ早速使ってくれよ」 「え?」  菅野から渡されたのは、水色の子供用の傘。 「俺からのお祝いだよ。開くと虹の絵が見えるんだぜ」 「え……」 「先月さ、芽生坊の誕生日だったろう……遅くなったから、梅雨入りにひっかけて傘にして正解だったな」 「あ、ありがとう!!」    僕は小さな水色の傘を持って、芽生くんの元に走った。  とても軽やかな気持ちで――  
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