北国のぬくもり 1

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北国のぬくもり 1

 函館―― 「みっちゃん、今日は検診だろう。送っていくよ」 「ありがとう、もういよいよだね」 「あぁ、いつ生まれても大丈夫だな」  俺とみっちゃんは退院後すぐに赤ちゃんのお世話ができるように、ベッドやおむつ替えの場所をセットし、1週間後の予定日に向けて準備万端だった。    先週の診察でも赤ちゃんは正常で元気いっぱいだったので、いつもの調子で、待合室で待っていた。 「葉山さんの旦那さんですか」 「はい?」 「先生からお話がありますので、お入り下さい」  看護師さんの顔が真剣だったので、何事かと心配になった。  みっちゃんもお腹に手をあてて青ざめている。  ひやりとしてしまう。 「みっちゃん、どうした?」 「どうしよう。ヒロくん……」 「まさか……赤ん坊に何かあったのか」 「そ、それが……」  先生の話のよると、胎児がお腹の中で成長しすぎて、みっちゃんの骨盤を通れなくなったので、帝王切開で出産になるとのことだ。 「なるほど、そういう事情で帝王切開ですか。でも赤ちゃんが無事産まれてくるのなら、もちろんお願いします」  取りあえずお腹の赤ちゃんが無事でよかったと、二つ返事で手術に同意し、そのままの流れで、入院予約まで入れることになった。  手術はもともとの予定日、6月28日、土曜日の午前中決まった。  みっちゃんは黙々と書類に記入し入院説明を聞いていたので、俺も気に留めていなかったが、会計を済まし助手席に座らせた途端、肩を震わせた。 「うっ……ぐすっ……」  みっちゃんが泣くなんて滅多にないので、オロオロしてしまうよ。 「どうした?」 「ヒロくん、私……帝王切開なんてイヤっ!」 「なんて事を言うんだ! 赤ちゃんのためにそうしないとって……先生が」 「だって痛いって聞くし、すぐにお店にも立てないし……何より、怖い」  怖い――  どう励ませばいいのか分からなかった。帝王切開ってよく聞くけれども、実際にはどの位の痛みがあって、どの位傷が塞がるのに時間がかかるのか、俺は何も知らなかった。 「とにかく店に戻ろう」 「ん……ぐすっ、ごめんね、赤ちゃん。ママ……怖がりで」  ここまで順調過ぎる程だったので、俺もみっちゃんも自然分娩が当たり前だと勝手に思っていたことを反省した。  お産は何があるか分からない。命を懸けて臨むものなのだ。 「産後も暫くお店に立てないわ。どうしよう」 「母さんもいるし、なんとかなるよ。今までだってそうやって来たんだ」 「ごめんね。ヒロくん……私、心の整理がまだ。突然手術と言われて動揺しているの。赤ちゃんを産むためだって分かっているのに……意気地なしで」  みっちゃんとは高校時代からの付き合いだが、俺の知らない部分を垣間見た気分だった。  寄り添おう! 瑞樹がいつもそうしているように、俺もみっちゃんの気持ちにとことん付いていく。  ところが……運の悪いことが続く。  店に戻ると、母さんが花屋の店先で蹲っていた。 「イタタ……」 「母さんどうした?」 「あぁ広樹、良かったわ……腰が痛くて、立てなくて」 「えぇっ?」  みっちゃんと引き換えに、今度は母さんを車に乗せて、整形外科まで連れて行った。 「あー『急性腰痛症』つまり『ぎっくり腰』ですね。しばらくは安静にして下さい。重たい荷物を持ったりするのは厳禁ですよ」 「はぁ……」  困ったぞ、本気で困った。  我が家に母さんを抱えるように連れ帰り、布団に寝かせ、みっちゃんの話をした。 「私も帝王切開であなたと潤を産んだのよ」 「知らなかったよ」 「あら、何度も話したわよ。お腹から産まれたって」 「それはそうだが……」 「私がみっちゃんと話すわ。それより広樹、手術の日は絶対にみっちゃんに付き添うのよ。不安で溜らないのだから」 「分かった。でも……店はどうするんだ?」 「臨時休業にしたらいいじゃない」 「だが……その日は」  カレンダーを見ると、地元のレストランからウェディングの装花の依頼があったばかりで、引き受けてしまった。 「あの、仕事ね。困ったわね。そうだわ、瑞樹か潤に手伝ってもらえないかしら?」 「あ、そうか」  どうだろう? 瑞樹は絶対に駆けつけると言ってくれていたが、あいつも仕事を抱えているから、そんなに簡単には休めないだろう。潤だってまだ下っ端で、急な休みは無理だろう。   「とにかく、連絡をしてみて」 「分かった」    瑞樹に連絡して事情を話すと、少しの迷いもなく応じてくれたのには驚いた。潤の方は上司に聞かないと、イベントスケジュールがあるので分からないという返事だった。 「兄さん、大丈夫だよ。もともと予定日の週末は仕事を入れていなかったから。それより母さんは大丈夫なの?」 「そうだな、10日くらい安静にしていればいいそうだから、瑞樹が週末店番してくれたら嬉しい」 「分かった。僕がやる! 僕が行く!」  瑞樹の力強い声に感動した。儚く寂しかった瑞樹が、こんなにも変化出来たのは、宗吾と芽生くんのお陰だな。  俺は守ってやるのに精一杯だったのに……本当に良かった。  瑞樹が駆けつけてくれると聞いたら、俄然元気が出たぞ。  そして母さんにその旨を告げると、涙ぐんでいた。  母さんも歳を取ったな。それは俺もか。 「広樹……瑞樹はお母さん想いのいい子ね」 「あぁ、兄想いのいい子でもあるぜ」    ****  東京―― 「お兄ちゃん~ みて! みて!」  芽生くんと一緒に帰宅すると、すぐにランドセルからテスト用紙を出して、見せてくれた。 「わぁ、100点だ!」 「そうなんだ。ここね、また9を6って書いちゃったんだけど、さいごに見直ししたら気づけたんだ」 「すごい! 偉いね」 「んふふ」  今日は、芽生くんの初めての100点記念日だ。 僕まで天に昇るような気持ちになっていくよ。 「瑞樹、実家から電話だぞ~」 「あ、はい!」  広樹兄さんかな? もしかしてお産が? ドキドキと電話に出ると、その内容は少し違った。 「そうなんだね。みっちゃんは急に帝王切開に変更に……そうか、大変だね」 「そうなんだ。それで手術の日はどうしても俺、立ち会いたくて」 「うん。分かるよ。その方がいいよ」 「しかも……実は母さんが……」  手が震えてしまった。いつも元気いっぱいで寝込むこともなかったお母さんが、ぎっくり腰だなんて。 お母さんに早く会いたい。  僕をこの世で、北の国から応援してくれるお母さんに会いたい。  広樹兄さんの手助けをしたい。  みっちゃんの出産を応援したい。  もう今すぐにでも飛び立ちたい気持ちで満ちていた。 「僕がやる……僕が行く!」  条件反射のように、電話口で強く希望していた。  だからなのか、電話を切ると宗吾さんが嬉しそうに歩み寄ってくれた。 「瑞樹、行くか」 「はい、金曜日の夜でいいですか」 「もちろんさ! 飛行機や宿の手配は俺に任せておけ」 「あ……はい、助かります」 「いよいよ瑞樹の出番だな。そんな君を応援出来て嬉しいよ」  宗吾さんが僕の肩に手をのせて、勇気づけてくれる。 「宗吾さん、僕……とても不思議な心地です。こんなにも帰省したくなるなんて……今までにない感情です」 「それはきっと、今の君が幸せだからさ」  僕の意思で行く。  家族の役に立ちたくて……僕が行く。  本当はずっと……幸せに臆病なくせに、幸せに憧れていたんだ。  そのことを最近素直に認められるようになっていた。  だから動いてみよう。
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