秋色日和 25

1/1
前へ
/1909ページ
次へ

秋色日和 25

「そういえば、いっくんは今まであまり転ばなかったのに、今日は派手に転んだので、ママ、びっくりしちゃった」 「ママぁ、あのね、しってる? ころぶとね、だっこしてもらえるんだよ。よしよしって、とってもやさしくね。いっくんもしょうだったよ」  いっくんがすみれを見上げて、あどけない表情で小首を傾げてニコッと笑う。  すみれはその言葉にハッとし、くしゃっと泣きそうになった。 「……そっか……そうだね」 「いっくんね、きょうはゆっくりゆっくりじゃなくて、おもいっきりはしれたの、びゅーんってね」 「……そうね、おもいっきりするのは大事なことよ。いっくん、えらかったね」  すみれといっくんの会話に、ほろりとした。  もしかして――   いっくんはママと二人の時は転ばないように、意識してゆっくり歩いていたのか。  さっき保育園の先生も、似たようなことを言っていた。 …… 「いっくんはですね、実は園内でほとんど走らなかったんです。私達は、もしかしたら発育に問題があるのではと心配したことも……だから今日のかけっこで思いっきり走る姿を見て驚きましたが、心からほっとしたんですよ」 ……  俺と出会ってからのいっくんは、嬉しそうに走り回っては転んで、オレが駆け寄って抱っこしての繰り返しだったので、意外な話だった。  だが先生といっくんとすみれの話を合わせれば、その理由が見えてきた。  転ぶと、仕事で疲れて家事で忙しいママを困らせてしまう。泣くと余計な手間をかけてしまう。  運動会で転んでも、いっくんを抱き上げて慰めてくれる人は……誰もいない。  だから転ばないように、ゆっくりゆっくり慎重に……だったのか。  そういうことなのか!  いっくんはまだあどけないので、無意識のうちに本能のままに、そうしていたのかもしれない。  いずれにせよ、そうだとしたら本当に切ないよ!  いっくんは、君は……まだたった4歳だ。  なのに、これまでどれだけの悲しみと寂しさを背負って生きてきたのか。  そしてすみれも、そこまで追い詰められていたのか。  生活にも心にもゆとりがない日々は辛い。  生きているのも辛いと思ったことが何度もあったのでは?  あぁ、オレは本当にこの二人と巡り会えて良かった。  急に涙が込み上げてきたので、慌てて上を向いた。  オレが泣いてどうする?    青空の向こうにいる、いっくんのお空のお父さん!   もしかして、あなたが巡り合わせてくれたのですか。    あまりに二人が心配で見ていられなくて、でも何も出来なくてもどかしく、口惜しかったから。  オレに託してくれたのですか。  聞いて下さい! オレの父もそこにいるんです。もしかして会ったのですか。オレの生き方を心配して引き合わせてくれたのですか。  きっとそうだ! そうだと思う。  何故なら、オレたちはあまりに足りない部分を補い合える存在だから。  すみれさんと出会う直前のオレは、兄さんにしでかしたことの重大さから、懺悔の日々を送ってた。もしも、もう一度人生をやり直せるのなら、大切な人の役に立てる人間になりたい。もしもオレを必要としてくれる人がいたら、その時は全力で守りたい。  そう誓いを立てていた。  兄さんは宗吾さんに守られ愛され、芽生坊に慕われ、どんどん幸せになっていた。広樹兄も結婚して落ち着いて、宙ぶらりんなのはオレだけで……居場所がなく寂しかった。  オレの寂しさを埋めてくれる存在が欲しい。  もしもそんな人と出会えたら、オレは生涯かけてその人を愛す。  そう願った矢先に、オレの生きてきた人生が無駄にならない人と出会った。  すみれといっくんと巡り逢った。  感謝――  今もこの先も、この気持ちで一杯だ。    結局いっくんは午前中は園児席には戻らず、ずっとすみれにくっついていた。  誰も咎めるものはいなかった。  しかも今日の槙は奇跡的に2時間以上ぐっすり眠っている。母さんが腕が疲れたからと父さんに委託しても起きなかった。  おかげで、いっくんはママをずっと独占できた。  久しぶりのふたりの時間だった。  生まれて初めてパパとママのいる運動会。0歳児から保育園生活をしてきたいっくんにとって、こんな嬉しいことはない。  今日はスペシャルご褒美だな。  オレもすみれも、幸せそうに微笑むいっくんを見るのが大好きだ。  だから誰もが幸せな気持ちでポカポカしていた。 「いっくん、そろそろ弁当にしようか」 「うん! あ、あのね、おじーちゃんはここ、おばーちゃんはおとなり。パパぁはいっくんのおとなりだよ。ママもおとなり。まきくん、まだねんね?」  いっくんが指定してくれた場所に座ると、まあるい円となっていた。 「そうね、もう少し眠っているみたい。さぁお弁当を広げてみて」 「いっくんのおべんとうばこ、たからものだよ」  いっくんはお弁当箱に頬をすりすりした。  いっくんなりの愛情表現なのだのか。よく大好きな物や大事な物にこの仕草をする。オレの胸元で顔をすりよせスリスリしてくれるのが最高に可愛いだよな。 「いただきまーしゅ。わぁぁ、おいちー ママぁ、これしゅごくおいちいよぅ」  ペンギンのソーセージも卵焼きも唐揚げも、全部丁寧に作られていて本当に美味しかった。すみれがずっとしたかったことがギュッと詰まった愛情一杯の弁当だった。    「みんなでたべるとおいしいねぇ」 「いっくん、かけっこかっこ良かったな」 「おじーちゃん、ありがとう」 「おばあちゃんね、いっくんがあまりに可愛いおまごちゃんだから、おやつこんなにもってきちゃった」 「わぁわぁ、これいっくんのおやつなの?」 「そうよ。何が好きか分からなくて、いっぱい」 「しゅごい。いっくんのおやつだ」  いっくんの目がキラキラ輝く。    いい顔してるな。    最高の笑顔だ。 「いっくん、げんきになったよぅ」 「そうか、よかったよ」 「ママぁ、ありがとう。いっくんがんばってくるから、まきちゃんにもおひるごはんあげてね」  いっくんがそう言った途端、槙がパチっと目覚めて大泣きだった。 「えへへ、まきくーん、おにいちゃんをみててね。がんばってくるよ」  いっくんが明るい笑顔を振りまいて走り出す。    園児席に向かって元気に――
/1909ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7957人が本棚に入れています
本棚に追加