秋色日和 33

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秋色日和 33

 宗吾から、今年も芽生の運動会に誘ってもらった。  芽生が小学生になってから毎年楽しみにしていたので、嬉しかった。  今まで子供の運動会は私には少しだけ縁遠く感じていたが、彩芽が生まれてからは身近になった。  近い将来、私もこの場に立つ日がやって来る。  そう思うと去年まではふらりと応援に立ち寄っただけだったが、今年は事前に全身緑色のジャージまで準備して、張り切ってしまった。  やり過ぎかとも案じたが、無駄ではなかった。  さっきのレースでは大汗をかいてしまった。もしもスーツのままだったら参加は不可能だったろう。傍観者のつもりが競技参加者となり、人生で一番長い時間、蛙跳びをする羽目になったが、最高に楽しかった。爽快な気分だった。  まだ太腿の内側が笑っているし、猛烈に空腹だ。 「美智、おにぎり、お代わりをしてもいいか」 「憲吾さん、今日はよく食べるのね」 「あぁ、運動したせいか腹が空いてな」  今日の私は、誰にも負けない程の大食いになっていた。  そんな様子を母が目を細めて見つめていた。 「憲吾、身体を思いっきり動かすとお腹が空くものでしょう」 「そうですね。運動をすることで血糖がエネルギーとして使われるので血糖値が下がり、その結果空腹感を感じたようです」 「まぁ、あなたはまたそんな難しいことを考えて」  確かに難しい言葉だったなよ苦笑した。その証拠に彩芽がまるで宇宙人を見るかのように、ポカンと口を開けて私を見上げていた。  どうも私は職業病なのか難しい言葉を使いがちだ。もっとシンプルな言葉でもちゃんと伝わるのに。  難しい言葉を羅列するより、短い言葉に表情や態度を添える方がずっと親近感が湧くだろう。 「ですね。運動したので腹ペコなんですよ。ほら、腹も鳴ってます」  グーグーと音が聞こえた。 「パパ、まってて、あーん」  すると彩芽が慌てた様子で、私の口にミニトマトを放り込んでくれた。  これは嬉しいな。  娘は特別な存在だ。  彩芽は2歳を過ぎておしゃべりするようになり、可愛さがアップした。  分かり合えるっていいな。 「もっとぉ?」 「あぁ、もっと欲しい」 「えへへ、パパ、あーん」  今度はウインナーだ。  まさかこの私が娘に食べさせてもらえる日がくるなんてな。  公衆の面前でデレデレし過ぎて、恥ずかしくなった。  だが誰も私を笑ってはいなかった。  ほほえましく、見守ってくれていた。 「あぁ、コホン……」 「兄さん、気にせず甘えてくださいよ。彩芽ちゃんはパパッ子みたいですね」 「そ、そうか」  パパッ子?  なんと尊い言葉なのだ。  ポーカーフェイスが崩れそうで美智に助けを求めると…… 「憲吾さん、思いっきり笑って! 私、あなたの笑顔が好きよ。以前は滅多に見られなかったから嬉しいの」  夫婦円満、家族円満の秘訣は、笑顔だ。  彩芽のお陰で、私の心はどんどん解れていくよ。  娘の笑顔を守るために、パパは頑張る!  そう誓った矢先だったのに、咄嗟の動きが出来なかった、  さっきから周囲を走ってふざけていた上級生の男子がいた。  流石に土埃が立つので注意しようかと思った矢先に、少年が持っていた水筒が、彩芽めがけて勢いよく飛んで来た。  まだ小さな彩芽にとって、それは硬い凶器だ。  助けなくては!  そう思ったのに瞬時に身体は動かず、情けないことに、もう駄目だと目を瞑ってしまった。  ゴツンっと派手な音がして、水筒が地ベタに転がる音がした。  彩芽!     だが、彩芽の泣き声も悲鳴も聞こえなかった、  目を開けると、なんと宗吾が身を挺して彩芽を守ってくれていた。  自分が濡れるのも厭わず、すっぽりと包みこんで……  私はカッとなってしまった。  弟と娘を傷つけたと……怒りが湧いてしまった。  その小学生に厳重に注意するために立ち上がろうとすると、美智が手を引っ張って制止した。 「憲吾さん。ここは宗吾さんに任せましょう」 「だが……」 「パパぁー」  びっくり顔の彩芽が、私の胸に飛び込んで来た。  そうだ、怒るよりまずは娘のケアだ。 「大丈夫だったか、怖かったな」 「んーん、そーくんいたいいたい? そーくんだいじょーぶ」 「あぁ、きっと大丈夫だ。助けてくれたんだな」 「えへへ、そーくん、しゅき」 「パパも好きだ」  こんな風に弟を好きだと素直に言える日がくるなんて。  しかし彩芽は可愛いなぁ。  こんな時なのに彩芽の言葉で、気持ちがどんどん凪いでいく。  宗吾もこの場を険悪な雰囲気にはしたくはないようで、「今度から気をつけろ」と注意に留めていた。  上級生の顔には安堵の色と反省の色が混ざっていた。  弟のおおらかさが、こういう時、役立つようだ。  以前の私だったら頭ごなしに叱り飛ばして、反抗されたら法の力をひけらかしてしまったかもしれない。彩芽や芽生の前で、大人気ないことをせずに済んだ。  私がすべきことは別にある。  着ていたシャツが台無しになってしまった弟に、このジャージを貸すことだ。 「宗吾、着替えに行くぞ」 「えーっと、兄さん、その格好で歩くんですか」 「はは、イケてるか」 「うっ……瑞樹ぃ、ちょっとヘルプ」  瑞樹がニコニコ近づいて、何故か一緒に歩いてくれた。 「憲吾さん、僕に隠れて歩けば大丈夫ですよ。影になりますから」  こっちも可愛いなぁ。  体格差がありすぎて瑞樹に隠れるのは無理だが、その気持ちも嬉しくて、またデレデレだ。 「ちょっと兄さん、顔にしまりがないですよ」 「そうか、お前ほどじゃないが」 「え? それを言われると自覚があるからなぁ」  そこに母さんがやってきて大笑いされる。 「宗吾も憲吾も似た者兄弟になったわね。あなたたち、ちょっとヘンよ」 「え? 母さんって結構厳しいのですね」 「ふふ、可愛い瑞樹と比べると、長男次男のヘンさが目立つわ」 「お母さん、僕はそんな可愛くなんて」 「瑞樹は年の離れた子供だから、可愛いのよ」 「参ったな」 「兄さんこうなったら長男次男で仲良くしようぜ」 「あぁ」  本当にどうでもいい会話だが、猛烈に楽しい。  ずっと意味もない会話をするのが嫌いで、時間の無駄だと思っていた。  だが全部間違いだった。  こういうとりとめもない会話に、日常のありふれた幸せが詰まっているのだな。  私はスーツ、宗吾は全身緑マンになって戻ると、瑞樹が一眼レフを構えて真剣な眼差しを浮かべていた。  瑞樹は爽やかな風だ。  君の周りには爽やかな風が吹いている。  何もかも洗い流してくれる清らかな風だ。  宗吾と君が、この世界で出逢ってくれて良かった。  私と宗吾の蟠りを洗い流してくれたのは、君だよ。  家族や子供が愛おしいという感情を教えてくれたのも、君だ。  私を幸せにしてくれてありがとう。  美智とやり直すきっかけを改めてありがとう。 「瑞樹、待たせたな」 「わぁ、宗吾さん、よくお似合いですよ。憲吾さんのスーツはすごくカッコいいです。次はいよいよ芽生くんのダンスです。みんなで応援しましょう」 「あぁ、そうしよう」  やっぱり、君は可愛いな。  さぁ、運動会も宴たけなわだ。    次は、3年生によるダンス『ハロウィンかぼちゃと真っ黒おばけの対決』だ。  オレンジ色のトレーナーを着た芽生が、生き生きとした笑顔で登場した。  目の前に広がる光景が眩しく感じ、思わず眼鏡を取って目を擦ってしまった。  日だまりのようにポカポカな世界が広がっている。  それは皆が歩み寄って作り上げた優しい世界のことだ。
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