紫陽花の咲く道 10-2

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紫陽花の咲く道 10-2

**** 「宗吾さん、僕……六月の北鎌倉にはずっと来てみたかったので嬉しいです。本当に今日はありがとうございます」  小さな駅の細長いホームに降りると、開口一番に感謝されてしまった。  嬉しい気持ちを、細かく伝えてくれる君の癖……いいよな。  些細な事なのに、その些細な事が嬉しい。  前の結婚生活では、お互いに些細な事への感謝を忘れていたのだ。 「ほら荷物を寄こせ」 「えっ、大丈夫ですよ? 自分で持てます」 「いや、君は芽生と手をつないでやってくれ」 「あっ……そうですね。はい」  観光シーズンの土曜の午前中だ。小さな駅にも人がごった返していて、まだ小さな芽生をひとりで歩かせるわけにはいかない。 「では、すみませんが。芽生くん僕と手をつないで内側を歩こうね」 「うん!」  受け取った瑞樹の荷物は、とても軽かった。必要最低限の荷物しか持ち歩かないのは、君の悲しい癖なのか。  今はもうその蟠りも取れたが、たった10歳で親兄弟と死別した君にとって、生きていくのは旅のようだと感じた時もあったのだろう。  いつでも去れるように……幼い子供が、そんな気持ちを抱いていた日々があったと思うと切なくなるよ。 「なんだ? 随分軽いな……君は相変わらずだな」  つい思ったことを口にすると、瑞樹は意外そうな顔をした。 「今日は……わざと軽くしたんですよ」 「なんでだ?」 「その……家に帰ってからも旅の余韻に浸れるように、美味しいお菓子やお土産を沢山買おうと思って」  驚いた。瑞樹の口から出た台詞だとは思えなかった。 「瑞樹?」 「宗吾さん、もうっそんな顔しないで下さい……変ですか。でも僕だって普通の男子ですよ。旅先で美味しい物を食べたり土産も買ってみたくて、その分スペースを空けました。先日の大沼への帰省はともかく、こんな風に家族で……旅らしい旅をした思い出がないので、正直興奮しています」  照れくさそうに瑞樹が呟く。  これは……ツボに嵌まってしまった!  俺は旅行と言えばその地をじっくり観光し、土産物を買うのが大好きだが、世俗的かと瑞樹の前では控えていた。静かな瑞樹には……ひたすらに静かな寺が似合うと思っていた。 「君からそんな台詞を聞けるとは意外だな」 「クスッ確かにそうかもしれませんね。以前の僕だったら静かな場所でひっそりしたいと願ったででしょう。でも今は違うみたいです。もちろんそういう場所も好きですが、それは月影寺で堪能できますので……今は普通に北鎌倉を観光してみたいです。宗吾さんと芽生くんと一緒に」  あーもう駄目だ。  君は……なんて俺好みに成長してくれるのか。 「よしっ分かった。月影寺には夕方行くと伝えてあるから、それまでは王道、定番コースで北鎌倉を観光するぞ」 「はい。案内お願いします」 「パパーファイト!」  芽生もガッツポーズで応援してくれる。  さぁ、いよいよ俺たちだけの家族旅行のスタートだ。   「まずはこの季節ならではの、あじさい寺に行こう!」 「わぁいいですね! 流石(僕の)宗吾さんです」  瑞樹は少しあどけない雰囲気で、嬉しそうに小首を傾げながら、甘く微笑んでくれた。  今さ、絶対『僕の宗吾さん』って言ってくれただろう?  ちゃんと聴こえたぞ!   君の心の声!  公衆の面前でデレデレするわけにいかないが、自然と頬が緩んでいくよ! 「ちょうど紫陽花が見頃だろう」 「そうですね、楽しみです」  空は相変わらずの梅雨空で、既に小雨も降っているが、紫陽花を引き立てるエッセンスだと思えば、足取りも軽くなる。  いい季節だ。  雨によって、俺たちの絆がしっとりと絡み合い……ますます深くなっていくような心地だ。  いい旅にしよう!      
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