紫陽花の咲く道 15-1

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紫陽花の咲く道 15-1

「どの絵本かな」 「これなの!」  芽生くんが、嬉しそうに絵本を抱えて戻ってきた。  絵本を読むのは久しぶりだ。  大沼の子供部屋には絵本が溢れていて、よく母に読んでもらったし、夏樹にも読み聞かせていた。でも函館の家ではあまり読む機会がなかった。そもそも絵本が殆どなかったのだ。もう小学生になっていたので、まさか買って欲しいとも言えなかった。  だから……いつか自分で稼げるようになったら、子供の頃気に入っていた絵本を買おうと抱いた夢は、今の今まで……忘れていた。  大人になると、こうやって色んなことを忘れてしまうものだな。 「わぁとても綺麗な表紙だね」  表紙は北海道を思わせる大草原に、オオカミと少年が手を繋いで立っていたる絵だった。この美術館を建てた絵本作家さんが自ら描いた、優しい情景が広がっている。 「へぇ、オオカミが主人公なの?」 「そうなの。ボク、オオカミさんって、もっとこわいと思っていたけど、このおはなしではちがうんだよ」  絵本は※『トカプチ』という不思議なタイトルだった。  そういえば『トカプチ』って、確か…… 「瑞樹、『トカプチ』って、どういう意味だ?」 「これは北海道の十勝地方のことですよ。十勝はアイヌ語だと『トカプチ』と言います。『乳』を意味する言葉が語源で……」 「へぇ、そうなのか。この絵本、せっかくだから座って読んでみようか」 「はい」  試し読み出来るようなので、僕たちは再びベージュのソファに戻った。  僕を中央に左に宗吾さん、右に芽生くんが座った。  幸い僕たち以外の人がいないので、小さな声で朗読してあげた。 「むかしむかしある所に……」  オオカミと人間の少年が、ある日出逢う。  オーロラ色に躰が輝くひとりぼっちのオオカミは、全身が凍ってしまう難しい病に冒されていた。でも凍えるオオカミと出会った人間の少年が、やさしく抱きしめて温めてやると、氷が融けて……オオカミの病と孤独は救われ、ふたりはいつまでも草原で仲良く暮らしたという内容だった。  絵本は爽やかな風が吹き抜ける風景の中で、オオカミと少年が四つ葉のクローバーを交換している絵で締めくくられていた。  なんと読了感の良い絵本だろう!  オオカミと人間という全く違う個性を持つ者同士が尊重しあい、思いやりあう姿が心地いい。大地を、自然を愛おしむ気持ちの溢れる優しい水彩画だった。 「瑞樹、いい内容だな。何だか俺たちにも当てはまるよな、この関係って」 「ですね」  僕と宗吾さん、同性同士の恋。  僕の凍った心は宗吾さんと出逢い、彼と触れ合う度に融けていく。  宗吾さんは……後ろ向きな僕をいつだって引き上げてくれる人だ。  さっきだって…… 「芽生くん、この絵本を買ってあげるね」 「うれしい! おにいちゃんだーいすき!」  芽生くんとレジに持って行くと、ちょうど絵本作家の先生が来館したので直接サインを入れてもらえるとのことだった。どうやら土日の特別サービスらしい。  そこにあたるとは幸運だ。 「瑞樹、ついてるな。俺たちも並んでみよう」 「はい、そうしましょう」  僕たちは素直に幸運を受け取り、絵本作家の先生に、サインをいただくことにした。まさかこんな機会に恵まれるとは思っていなかったので、僕まで緊張してしまうよ。
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