紫陽花の咲く道 17-1

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紫陽花の咲く道 17-1

「ほら、行くぞ」  流さんは以前と変わらず、少し長めの黒髪を後ろで無造作に束ね、作務衣からは厚い胸板がちらりと見えていた。  夏の海でも、秋に会った時も思ったが、本当に鍛えられた逞しい躰の持ち主だ。  その胸板……ちょっと羨ましいな。 「くくっ瑞樹くん、何見てんの? 」 「えっいえっ、何でもありません!」 「おいおい瑞樹、もう、よそ見するなよ」 「あっはい」  危ない、宗吾さんにどこを見ていたか気づかれたら、また大変だ! 「それにしても宗吾の荷物は随分重そうだな。ほらっ貸せよ」 「悪いな」  流さんが宗吾さんの抱えていた荷物を軽々と持ち上げ、中をちらっと覗いて、ほくそ笑む。 「おっ地ビールか。いいな」 「うん、今晩の差し入れだ」 「いいな。皆、喜ぶよ」  僕たちは流さんに続き、寺の山門へ続く長い石段をゆっくり上った。 「瑞樹、雨で滑りやすくなっているから、気をつけろよ」 「あっはい」  宗吾さんがそっと僕を気遣うように、腰に手をまわしてくれた。    宗吾さんも思い出してしまったのだろう。あの日……七五三の参拝の後、高い石段から転がり落ちた僕と芽生くんの姿を。 「宗吾さん、大丈夫ですよ。僕はもう落ちたりしません」 「あぁそうだな、あぁいうのは、もう二度とごめんだからな」 「はい」 「しかし、いい触り心地だなぁ、もっと下も」 「ちょっと!」  宗吾さんが腰に触れていた手をヒップまで降ろして来たので、困惑してしまった。  場を必要以上にしんみりさせないように、わざとだとは分かっている。でも僕の方はさっき触れ合った時のようにドキドキしてしまう。 「駄目か」 「……駄目に決まっています」  山門を潜ると広大な中庭が広がっていて、しっとり雨に濡れた新緑の景色は、秋に訪れた時とはまた違った趣を醸し出していた。  見上げれば裏山が近くまで迫るようにそびえ立ち、手前には竹林と碧い池もある。 「以前とはまた趣が違いますね……あぁ本当に色が違います」 「あぁ、そうか君はフラワーアーティストだから、花や庭に詳しいんだったな」 「あっ……花や樹木が好きなので、つい」  流さんが庭を指さして、目を細めた。 「新緑の季節もいいだろう。見渡す限り翡翠色や翠色で……俺はこの季節が大好きだ」  確かに……山も庭も、見事なまでに翠色に染まっている。  翠色(すいしょく)とは、樹木の、みどりいろ。  ……住職の翠さんと同じ名を持つ色だ。  母屋の玄関に立つと、渡り廊下から静かな足音が近づいてきた。  「いらっしゃい」  月影寺の住職、袈裟姿の翠さんの登場だ。  あれ? 横に小さな影がくっついている?  よく見るとそれは芽生くんだった。  芽生くんは翠さんが手を繋がれていた。  ん? なんか黒い……  何故か顔を泥だらけにしていた。  いやいや顔だけでない。洋服も泥んこじゃないか。  芽生くんの着替え……多めに持ってきて良かった。   「パパたち~もぉ~遅いよぉ」 「すみません。先にお邪魔してしまって。芽生くんもしかしてそれ、転んじゃったの?」 「ちがうよぉ。カエルさんをつかまえようと思ったら、そこの水たまりに」  芽生くんが指さした場所には大きな水たまりがあった。泥水が濁っている。  やっぱり転んだのか。 「わぁぁそれは大変だ! 怪我しなかった」 「うん! 」 「ごめんね。息子が連れまわして」  翠さんは、申し訳なさそうに肩を竦めていた。 「いえ、こちらこそ。薙くんに任せてしまって」 「でも子供らしくていいね。着いたそうそう悪いけど、お風呂に入った方がいいと思って」  翠さんも苦笑していた。  僕といる時の芽生くんは、お絵描きが大好きな大人しい子供の印象だが、こんな風にやんちゃな一面を垣間見られて、実はホッとした。 「ふーん、芽生はだんだん俺の小さい時に似て来たかもな」 「実はそんな気がしました」 「ははっ、いつも泥んこで母に怒られたよ」 「やっぱり!」  芽生くんは宗吾さんに似ている。  芽生くんは出会った時は大人しく可愛らしい顔だったが、最近男の子らしさが増した。それなのに……いつも大人の中にばかりいるので、年相応のやんちゃな部分を出せず我慢させてしまっているのかもと心配していた。 「お風呂どうぞ」 「あっじゃあ僕が入れます」 「いや、実は……薙も泥んこなので、ふたりで入らせてもいいかな」 「あっはい」  ちょうど薙くんの声が、廊下の奥からした。 「おーい、チビスケ、風呂ー!」 「わっ! オヤブンによばれた! ぱぱ、おにーちゃんまたね!」 「あっうん」  親分って、もしかして薙くんのこと?  翠さん似の美少年(見た目だけのようだが)に、オヤブンってアンバランスもいい所だ。でも、なんだか面白いな。  今日は……芽生くんのまた違った表情が見える。  この先どんな風に成長するのか。その成長を妨げないように、見守りたい。
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