その後の三人『さらに……初々しい日々』10

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その後の三人『さらに……初々しい日々』10

 最寄りの駅からお母さんの家まで歩いていると、手元のフリージアが香ってきた。電車の中や雑踏では掻き消されてしまう香りも、今は春の夜風に乗って、僕を優しく包んでくれる。  それにしても、疲れた一日だった。  気分が上がったり下がったり大変だったな。  行きは重たかったお弁当箱は、今は空っぽだ。  本当はもっと気持ち良く帰りたかったのに……  僕は、しっかり……「また作って下さい」と言えるだろうか。  菅野も応援してくれたのだから、頑張りたいよ。  玄関前で一度深呼吸してから、インターホンを押した。    すぐに灯りがついて、芽生くんの明るい声が、扉が開く前から聞こえた。 「お帰りなさい、瑞樹」 「おにーちゃん、おかえりなさい」  ふたりの笑顔に出迎えられて、急にホッとした。 「あの……ただいま」  そうだ……まずは花を渡そう! 「あの、これ……」  差し出すと、お母さんは満面の笑みで香りを嗅いでくれた。 「良い香り」  黄色いお日様色が、お母さんの顔によく似合っていた。    やっぱり……お母さんって……いいな。  お母さんの存在が愛おしくて泣きそうだ。 「さぁ中に入りなさい。まずは洗面所で手洗いうがいよ」 「あ、はい」  今日は、お母さんが僕を小さな子供のように扱ってくれる。   『ここは甘えてもいい場所だから、大丈夫よ』    そう言って貰っているようで、安心感が半端ないよ。 「お弁当が口にあったのなら嬉しいわ。また作って欲しいものがあったら言ってね」  今だ! このタイミングで言わないと……    僕という人間は自分から何かが欲しいと、声を大にして言えない性格なんだ。会社では強がり、金森には帰り際に先輩ぶってクールに対応したが、本当は……あの卵焼きだけは譲れなかったのだ。  思い返すと、今でも泣きたくなる瞬間だった。金森が遠慮無く卵焼きを口にいれたシーンが思いだしてしまったので、それをバネに言葉を繋げた。    「あの……卵焼きを……また作って欲しいです」 同時に視界がじわりと滲んだ。   「お、お兄ちゃん、どうしたの?」  芽生くんが心配そうに、僕の顔を覗き込んでくれた。    ぽとり……  食卓のテーブルに落ちたのは、透明のしずく。 「ご、ごめん。あ、あれ? 涙が……」  泣くつもりなんてなかったのに……恥ずかしくて慌てて目を擦った。 「お兄ちゃん、だれかにいじめられたの?」  あぁ、参ったな。芽生くんの優しい問いかけに、踏ん張っていた涙腺が崩壊してしまうよ。   「ううん……違うよ。でもちょっと事情があって、お母さんの焼いてくれた卵焼き食べられなくて……残念だったなぁと思ったら……急に……うっ……」 「まぁ……もう馬鹿ね、瑞樹、泣くことないわ……またいくらでも作ってあげるわ!」  お母さんが、僕をふわりと抱きしめてくれて……もう駄目だ。 「あ……っ、うっ……」    自分でも卵焼き1個食べられた程度でこんなに泣くなんてと思うのに、止まらない。 「あらまぁ……よしよし、いい子ね、瑞樹……」 「お……かあさんっ」   僕はもう28歳のいい大人なのに、思いっきりお母さんに甘えてしまった。こんなことするの、初めてだ。 「嬉しいわ。そんなに食べたかったのね。あのね、ちょうど芽生からお土産に卵焼きを作って欲しいとリクエストがあったのよ」 「え……芽生くんが」 「お兄ちゃん。大切なものをとられたらかなしいよね。わかるよ」 「う……ごめんね。こんなに泣いて」 「ううん、お兄ちゃん、今はすっきりしたお顔してるよ。だからよかった。それにおばあちゃんの卵焼きはあまくておいしんだよ。だからいっぱいたべてほしいな」  お母さんが台所からお盆に乗せた卵焼きを持って来てくれると、甘い香りがふわりと漂った。 「ほら、瑞樹、食べてみて。まだ焼き立てだから温かいわよ」 「……はい」  一口頬張ると、ジューシーな甘さが口の中に広がり、こんがり焦げた部分は香ばしかった。 「わ、美味しいです」 「でしょう。何しろ二人の息子への愛情たっぷりだもの」 「あ……僕も?」 「そうよ。だからもう遠慮しないで、どんどん甘えて頂戴。年寄りの生き甲斐になるわ。この歳になってのお弁当作り、楽しかったのよ。あなたたちの喜ぶ顔が見たくて、だからまたリクエストしてちょうだいね」  嬉しい……これはずっと夢見ていた会話だ。    するとまたインターホンが鳴った。 「あらまぁ、お客さんが多いこと。はいはい」  玄関から賑やかな声がする。 「あら宗吾、今日は遅いのではなかったの?」 「仕事が思ったより早く終わってな。瑞樹たちまだいる?」 「いるわよ。今おやつを食べているわ」 「へぇ~ 俺も腹、減ったー」 「ふふ、まずは手を洗ってらっしゃい」  宗吾さんも子供みたいだ。しかも僕と同じように洗面所に誘導されたのがおかしくて、クスっと笑ってしまった。 「あ、お兄ちゃん、やっと、わらったね。わらったほうがかわいいよー」 「そ、そうかな」  にっこり笑う芽生くんの顔を可愛くて、今度は僕が芽生くんを抱きしめてしまった。 「芽生くん、さっきは沢山はげましてくれてありがとう。たまご焼きも頼んでくれてありがとう!」  ギュッとすると、芽生くんも小さな手を伸ばしてギュッとしてくれた。 「あらまぁ、可愛いこと」 「お! お、お前たち~またイチャイチャと」  宗吾さんが快活に笑いながら食卓についた。 「おー、うまそうな卵焼きだな。瑞樹は食ったか」 「はい、今……」 「母さん、弁当ありがとうな。美味しかったよ」 「あ……僕も言い忘れてしました。お弁当ご馳走さまでした。美味しかったです」 「ふふ、どういたしまして! またたまに作ってあげるから、朝、寄りなさい」 「やった! よかったな~ 瑞樹」 「はい、とても嬉しいです。僕……本当に」  ところが僕を見つめた宗吾さんが、少し険しい顔になった。 「瑞樹? 君……泣いたな。なんでだ?」 「あ……それは、その……」  わわわ、今更卵焼きを後輩に取られて泣いたなんて説明するのも恥ずかしくて、たじたじになっていると、芽生くんがフォローしてくれた。 「パパ、あのね……こそこそ」  耳元でそっと伝えてくれたようだ。 「すみません。ここに帰ってきたら急にホッとしてしまいました」 「まったく! どうせまたあの後輩の仕業だろ! 油断も隙も無いな。母さん今度から卵焼きは2個入れてくれ! 保険が必要だ!」 「そうね、人のおかずを断りもなく取るなんて……そうしましょうね」  僕は、もう孤独ではない。    卵焼き一つに、こんなに真剣に向き合ってくれる家族がいるのが嬉しくて、今度は嬉し涙が出てしまった。 「瑞樹……」 「すみません。嬉しくて……今度は」 「母さん、瑞樹は、知れば知るほど可愛いだろう?」 「まぁ私にも惚気? でも私も今日は彼の可愛いところ沢山見ちゃったわ」 「なぬ!」 「もうパパってば、おばあちゃんにまでヤキモチ?」  その後、そのまま夕食までご馳走になり、芽生くんがお母さんとお風呂に入ったので、僕と宗吾さんは一緒に皿洗いをした。 「あ、弁当箱も洗わないとな」 「あ、僕も……会社でざっと洗いましたが、もう一度」  宗吾さんのお弁当箱をちらっと見ると、あちこちぶつけたのか凸凹していた。 「あ……それ」 「これ? 俺が中高で使っていたヤツ……かなり雑な扱いしていたみたいだな」 「じゃあ僕のは、もしかして憲吾さんの使っていた物ですか」 「そう! 兄さんは几帳面だからどこも凹んでないだろう?」 「ふふ。性格が出ていますね。でも凸凹なの……好きです」 「お? 愛の告白か」 「え?」  いきなり腰を抱かれ、宗吾さんの顔が近づいてくる。  僕の手はスポンジを握りしめ、泡だらけだから動けない。  そのまま顎をすくわれ、覗き込まれた。  キスされる? と思ったら、目元を優しく舐められた。 「俺さ……瑞樹の涙に弱いんだ」 「あ……すみません」 「いや、今日は君がひとりで泣かないでよかった。母さんや芽生がいてくれてよかった」 「あの……会社では我慢していたんですが、あまりにここが温かくて、つい泣いてしまいました」 「いいんだよ。瑞樹に甘えられる場所が出来たな。それが俺の実家だなんて嬉しいよ」  宗吾さんの言葉は、いつも温かい。 「はい」    最後は、やっぱり、ちゅっと唇を奪われてしまった。  ほんのり甘く……美味しい味のキスだった。
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