見守って 16

1/1
前へ
/1899ページ
次へ

見守って 16

「もしもし?」 「あ、宗吾っ?」 「母さん、どうした? もしかして美智さんが産気付いたのか」 「ううん、それがね、さっき破水しちゃったのよ」 「破水?」  破水って何だったか。芽生が生まれる時、玲子と参加した両親学級で出産について色々習った。それは確か……。  必死に記憶の糸を手繰り寄せていく。  そうだ! あれだ……胎児を包んでいる卵膜が破れて、中の羊水が外へ流れ出てしまうことだ。 「陣痛が始まったのか」 「まだなのよ。夕食の最中に突然だったのよ。とにかく病院に電話したら、今から来てくれって……あぁ困ったわ。タクシーを呼んで……あとは……」  母さんも少なからず動揺しているようだった。 「俺が病院まで連れて行くよ!」 「本当? 助かるわ! 宗吾、お酒は飲んでいないわよね?」 「あぁ、瑞樹に止められて正解だったな。すぐに車で向かうよ」 「助かるわ。憲吾に電話しておくわね。あの子……出産に間に合うのかしら」  急に、忙しくなってきたぞ。 「宗吾さん。あの……どうしたんですか」  電話を切ると、不安そうに様子を窺っていた瑞樹がやってきた。   「美智さん、先に破水してしまって、今から入院だそうだ」 「え……そうなんですか。あの……破水って?」 「先に羊水が漏れ出しちゃうことさ」  瑞樹が途端に心配そうな顔になる。 「あの……僕は知識がないのですが……出産って普通、陣痛が先ですよね。破水が先だなんて、本当に大丈夫なんですか」 「よくあることだよ。ただ、赤ちゃんと外の世界がつながってしまうから感染を防ぐため 入院して処置をしてもらわないといけないんだ」  瑞樹に話しながら思い出していた。  俺も芽生が生まれる前、真剣に勉強した。両親学級で妊婦さんのお腹の重さを体感するために、重たいベストを着たりもしたよな。  6年前の懐かしい思い出だ。  俺だって、玲子の腹の中の……赤ん坊の……父親になるのを待ち望んでいた。  玲子は里帰り出産で、俺も仕事が多忙で、立ち会い出産は出来なかったが、心の中で、ずっとずっと応援していた。 『芽生頑張れ! 芽生ファイト!』    赤ん坊の名前は、生まれる前から決めていた。  万が一女の子でも通る名前でメイと。  5月の薫風に乗ってやってくる子供は、芽生だ。  そう決めていた。   「瑞樹、俺、病院まで付き添ってくるから、君は芽生と留守番を頼むよ」 「あ……はい」 「カレー食べて」 「宗吾さんは?」 「帰ったら食べるよ」 「……気をつけて行って来て下さい」 「あぁ病院に送ったら、ここにすぐに戻ってくるよ」  玄関先で瑞樹がまだ不安そうな顔をしていたので、ギュッと抱きしめてやった。 「大丈夫だよ。心配するな」 「すみません、僕……経験がないので……何のお役にも立てなくて不甲斐ないですよね」 「何言ってるんだ? こんな時、君がいなかったら芽生をあちこち連れ回すことになって大変だった。だから助かるよ。しっかり留守番を頼む」 「分かりました」 「君を頼りにしているよ」  瑞樹の柔らかな髪に指を絡めながら耳元で囁くと、彼は頬を染めていた。 頼りにしている……自然と出てきた言葉だ。 いつの間にか、ただひたすらに守って、支えて、引き上げてやりたくて溜まらなかった瑞樹が、頼れる存在に変わっていた。  あの軽井沢、白馬へのスキー旅行と、由布院への幸せな復讐を経て、瑞樹はぐんと強くなった。 「分かりました。家のことは心配しないで下さい」  最後は柔らかな笑顔を浮かべてくれたので、胸を撫で下ろした。    **** 「お兄ちゃん~ 赤ちゃんいつ生まれるの? 今日、明日?」 「うーん、僕もよく分からないんだ」 「そっか、神さまが決めることだもんね」  芽生くんとカレーを食べながら、落ち着かない気分だった。 「お兄ちゃん、しんぱいだね」 「……憲吾さんが間に合うといいなと思って」 「うん、やっぱりいてくれたらうれしいだろうな。おばさんとおじさん、なかよしだもんね」 「そうだよね」  いつの間にか、芽生くんは僕の立派な相談相手になっていた。  僕が心配なのは、美智さんと憲吾さんのこと。  二人は前回の出産で……死産を経験しているので、いざ出産が目の前に迫って来て、きっと美智さんは怖がっている。  その気持ちがひしひしと胸に届くから。  心を分かち合える父親になる憲吾さんに、傍に居て欲しい。  僕たちはサポートは出来ても、美智さんが一番会いたい人にはなれない。 「ただいま」 「あ、パパだ!」 「お帰りなさい。どうでした?」 「うん、破水したが、まだ陣痛が全く起きていないので、今晩は様子を見ることになったよ。取りあえず今日は母さんがついている」  良かった、やはりお母さんが一番頼りになるはずだ。  女同士だし、出産経験者だから。 「じゃあ、すぐに出産という訳ではないのですね」 「いや、破水しているから、早く赤ちゃんを出さないといけないらしくて、明日の朝から陣痛促進剤を使うようだ。だからおそらく明日中には生まれそうだ」 「えぇ? 間に合いますか……憲吾さんの戻りって、明後日の午前中でしたよね」 「うーん、そうなんだよ。兄さんに電話したが、まだ裁判所にいるらしく連絡が付いていなくて……全くこんな時に……兄さんも大変な仕事だな。とにかく事情を知らせないと」  そうだ! こんな時頼りになるのは…… 「あ、あの! 僕、函館の広樹兄さんに電話してみます! 憲吾さんと今晩会うと言っていたので」 「おぅ! 広樹なら頼りになりそうだ。頼む!」  出産のことは、正直、僕にはよく分からない。  分かるのは……シンプルなことだけ。  美智さんが憲吾さんを待っている。  憲吾さんも函館で美智さんのことを想っている。  二人の強い想いで、赤ちゃんをこの世に無事に産んで欲しい。    **** 「怖い、怖いわ。どうしよう……お義母さん」  「大丈夫よ、美智さん。落ち着いて」 「でも……破水からしちゃうなんて、赤ちゃんが死んじゃったらどうしよう」 「しっかりしなさい。あなたがそんな弱気でどうするの?」 「憲吾さん……憲吾さん……帰って来て欲しい……」  困ったわ。やっぱり死産したことを思い出してしまったのね。  こんな時、わかり合える憲吾が傍にいてくれたら。  憲吾、早く帰ってらっしゃい。  仕事を片付けて東京に、美智さんの元に。  一生に一度の体験をしに――
/1899ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7918人が本棚に入れています
本棚に追加