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分署の自席に着いたのは、いつもよりも随分遅い時刻になってからだった。
わたしと向い合わせの席に座る高級スーツの貴公子が、ゆっくりと優雅に足を組み替えて、アイスブルーの目をふいと細める。
ああ、まっずい……。
王子様は、超不機嫌だ。
「ナナミ、今日は朝一で、百十二番街の強盗傷害の被害者宅に聴収に行く予定のはずだ」
そしてゆっくり顔を上げると、ジョシュは、わたしをまじまじと見た。
「もうすでに十分遅刻だが、あと五分待つ。ともかく、その髪、何とかしてきてくれないか」
髪……。
生乾きのまま、思い切り走って来たから、多分、もつれてるとは思ってたけど。うん。
そうだよね。
オフィサーがだらしない恰好で現れて、被害者さんの信頼を失う訳にはいきませんよね。
ハイ、私服警官は身だしなみも大事なお仕事です。
+++
ジョシュがさっさか運転席に乗り込んでしまったから、しょうがなく、わたしは助手席に潜りこむ。
……あーあ。
今日はきっと、ハンドル譲ってくれる気ないだろうなぁ、ジョシュ。
車を発進させると、ジョシュは無言のまま、また冷たい視線をよこした。
「わかってる、ジョシュ、お願いだからさ……何も言わないでよ」
しかし貴公子は、引き続き冷淡な溜息でわたしを責める。
だってさ。
ミュルに、朝からまた一回イカされた上にさ。
その後も、なんかアホなこと言い出すから、シャワー借してもらう気にもなんなくて、結局、家にとんぼ返りで。
時間ぜんぜん、足りなくなっちゃったんだよ。これでも必死に急いで来たんだから。
……という言い訳など、もちろん口に出せるわけもなくて。
今朝のダメ押しセックスのせいで、もう、身体中ミシミシで、だるくってしょうがないし。
サイドミラーに映る顔は、自分で見てもヒドいもんで、ちょっと正視に堪えない。
目は充血してて、瞼は赤くなってる。
くちびるは、噛みしめてたせいか、うっ血しちゃって、ぷっくり腫れ上がってるし……声もすこし、かすれてるかもしれない。
ムスッと黙り込んだままだったジョシュが、とうとう口を開いた。
「……たしかに、僕は言ったよ。『スカッとしてくれば?』ってね。でも、ナナミ」
「ジョシュ、解ってるってば」
「『欲求不満』じゃなければ、今度は『色ボケ』かい?」
「だーかーらー。ジョシュ」
「君もね、すこしは限度ってものをわきまえて……」
「だからそんなの、ミュルに言ってよってば!!」
そして。
ちょっとひとまず、ここで気持ちを落ちつけようと、わたしとジョシュは、互いに口をつぐんだ。
沈黙は、それなりに気まずい。
けど、われわれもつきあいの長いバディ同士だ。
別にこんなのは、たまにあることで。
しばらくすれば、自分たちの気持ちの棘が、段々に取れてきてる様子すらも、空気を通じて、互いに感じ取れた。
車が高級住宅地域に入っていく。
被害者のフラットが近づいてきた。
「……なんかさ、たぶん、合わないんだよ? 究極的には」
わたしがこう口すると、ジョシュは怪訝そうに、綺麗な形の眉をひそめた。
「うん、そう、合わない、総合的に見て」
「何が?」
「ミュルとだよ。そうなんだよ、きっと気が合わないんだよ、わたしとミュルって」
ジョシュは「ふうん」と気の抜けた相槌を打つと、ハンドルを左に切る。
ほんのちょっとだけど、そのタイミングは遅くて、微妙に急ハンドルになっていた。
まあ……合う合わないっていっても。
今までミュルのこと、身体の相性以外に考えたことって、正直あんまりなかった。
というか。
あんまりに「セックスが良すぎた」から 結構、他のこととかどうでもいいって思っちゃってたのかもで……。
だからさ、わたしとしては。
お互い身体だけでも、すごく楽しく過ごせれば、「それはそれでいいんじゃないの?」って思ってたわけなんだけど。でも……。
やっぱり、ミュルは、「そう」じゃなかったってことなんだよね。
これ以上は、なんだか、こじれるばっかりなのかな……。
ちょっと、せつない気もするけど。
「うん、やっぱり。すっきりさっぱり、ミュルのことは切る。あいつとはもうおしまいにするよ。ジョシュ、ごめんね、今朝は迷惑かけてさ」
そうだよ、「スカッとする」云々っていうより、なんかかえって、仕事に支障が出ちゃったわけだし。
ミュルだって、キレイに気持ち切り替えてさ。
他の誰かをあたって、またハッピーになってほしいし。
「あ、そういえばさ、ジョシュ」
わたしはふと思い出す。
「アホバッハってば、なんか『すっとこどっこい』なこと言ってた。わたしと『あんた』が『寝てる』んじゃないか? だって」
ジョシュは黙ったまま、カチリとウインカーを出した。
でも、ちゃんと話は聴いてるって解ってるから、わたしは構わず続ける。
「まあでも……それって、あんたがゲイって、全然バレてないってことだし、ある意味良かったよねってことでさ」
涼しいような小馬鹿にしたような、溜息みたいなちいさな笑い声をひとつ、ジョシュが発する。
そして、「当然さ。バレるだなんて、あるはずがない」とでも言うように、肩をすくめて見せた。
被害者の家の前の道は、ずらりと縦列駐車で埋まっていて、ジョシュはハンドルを切り返し切り返し、なかなかに苦労しながら、わずかしかない隙間に車両を押し込んでいく。
うん、別にジョシュの腕前も、そう悪くはないんだよ、でもね。
悪いけど、運転に関しては、わたしの方がずっと上なんだよね……。
そんな自慢げなモノローグをするわたしの心の中でも読んだのか、ジョシュが、かすかに顔を顰めた。
そして、「あのね、ナナミ」と、わたしに呼びかける。
なに? と応じると、ジョシュはハンドルから片手を離して、軽く口もとに当てた。
「とりあえず、君、被害者の事情聴取をするには、ちょっとその……『あまりにあまりな』顔してるんだけど」
あまりにあまり、って。
……なんなんだ?
「つまり、ナナミ……僕が言いたいのは」
少し言いよどんでから、ジョシュは続ける。
「こう……見るからに、『今ちょっと、一発ヤってきました』みたいな、そのエロい顔。何とかなんないの? ってこと」
何とかなんないの? ってさ。
…………なるかよ!?
わたしは相棒へと、ずっさりツッコミを入れた。
もちろん、ココロの中で。
っておっしゃいますが、ジョシュ。
そうだよ。
だってさ。
「一発ヤって」来たんだもん?
「今ちょっと」ね。
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