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18 ジョシュが、ひと息にモヒートを飲み干した。 氷が回って、澄んだ音がする。 俯いたわたしの視界の端で、ロングショットのグラスが、キラキラと虹色に光った。 テーブルにグラスを置き、ジョシュがスラリと立ち上がる。 ジョシュの視線を頭頂部に感じながら、わたしはテーブルの上の、自分のカットグラスを見つめていた。 きっと上から見たら、真っ直ぐな黒い髪が、幕みたいにわたしの顔を覆い隠しているはずだと思う。 「……『なんでそんなに意地を張るのか、僕にはまるで解らない』って、そうは言ったけどさ、ナナミ」 ジョシュの声が、上からパラリと降ってきた。 「解らないわけじゃない、本当は」 わたしは、かすかに顎を上げる。 ジョシュが続けた。 「昔のことを、君はいまだに引きずってるから、だから意固地になってるところがあるのさ。傷つきたくなくて」 ……ジョシュの言う「昔のこと」。 ユニフォーム時代に「関係」した口の軽い同僚のとのことを指しているのだと。それは直ぐに解った。 「でも、もういいだろう? いい加減に」 ……もう、いい? 「そりゃ、表面ではなんだかんだ言っていたって、分署の連中も、ナナミのオフィサーとしての優秀さは、皆、認めてる。自分でも解っているはずだ、もう、ユニフォームの頃とは違うって。経験を積んで、君はずっと強くなってる。だから……」 何かを言おうとして思い直したかのように、ジョシュは口をつぐんで、ひとつ溜息をついた。 静かに、テーブルを離れて行く気配。 そして、ジョシュは店を出て行った。 わたしはゆっくりと顔を上げる。 ハラリと頬に落ちかかった髪を、指先ですくって耳に掛けた。 ジョシュが、最後に飲み込んだ言葉。 声にはされなかったのに、わたしにはそれがなんだったか解るような気がした。なぜだか。 気にしない。 ……気にしていないと。 こだわりなく割り切ったようなことを言いながらも。 「男」か「女」かってことを。 誰よりも自分が一番、気にしていたのだと。 そんなことを、いまさらながら思い知らさられた気がしていた。 多分、昔から。 誰よりもそう思わされてきたのだ、きっと。 オフィサーが「男」の仕事だということを。 ――惜しいな、ナナミ。 ――お前が男だったら……。 低い声が、ふと耳に蘇る。 わたしを抱き上げる、ゴツゴツと硬い腕のあたたかさ。 ――男だったら、いい警官(オフィサー)になれただろうに。 今のこの世の中で、こんな言葉を言われて育つ子供なんて、そう多くはいないだろう。 仕事に性別なんて、全く関係ないのだ。 普通は。 だから、男の世界(こんなところ)にたったひとり、紛れ込んでしまったことに、本当はすこし、居心地悪く怯えていたのかもしれなくて。 だから、「あのこと」に。 わたしは、すごく傷ついた。 解らなくはないのだ。今にして思えば。 彼はただ、ほんのちょっと調子に乗ってしまっただけだったのだろうと。 けっして褒められるべきことじゃないし、あまりにも思慮が足りなすぎたとはいえ。 おそらく、ただ、うっかりと自慢してみたくなっただけで……同僚の制服警官(ユニフォーム)と、いい関係になったことを。 それも、たった一人の女の同僚とだ。 それは若い無邪気さの表れに過ぎず、もしかしたら、それほどの悪意もなくて、その無分別さが招く結果すら、予期できなかったのかもしれなくて……。 でもわたしには、男ども全員に、馬鹿にされて笑いものにされたように思えた。 それって、まるで世界が敵に回ったような気持ちですらあって。 ここにはわたしが気持ちを許せる味方など、ひとりもいないのだと感じるくらいに。 わたしが女だから……と。 あのことは。 自分では、とっくに割り切ったつもりだったけど。結局、そうじゃなくて。 なんだろうね……彼らを半ば馬鹿にして拒絶して、ガチガチに気持ちを鎧っていただけだったのかな。 あら、まあ?! すごい。 わたしったら、なんて冷静な自己分析。 なまじ三回も、行動分析の講義を受けに行ってないよね。そのうち、二回は成績トップだったし。 うん、わたしって優秀じゃん? ジョシュの言う通り。 なんて。 心の中でふざけてみせながら、わたしはオンザロックのグラスを取る。 氷は随分解けてしまっていて、スコッチは薄くなっていたから、わたしは、それをゴクゴクと飲み干した。 「……帰ろ」 呟いて、わたしは立ち上がる。 と、目の前に、なんか巨大なものが現れた。 ジーンズのポケットに突っ込まれた左手。 手首に巻かれた腕時計に、わたしの目が留まる。 見覚えのあるミリタリー仕様のごつい黒い強化ゴム製のベルト……。 その岩壁めいた障害物をよけて、わたしはバーテンダーに「引き落とし許可」のシグナルを送って勘定を済ませる。 そして、古風なスウィングドアを押し開け、表へ出た。 大きなものが後をついてくる気配がする。 苛立たしげに溜息をついて、わたしは振り返った。 「……だから。あんた、なんでこんなとこにいるのよ、ミュル」 そうだよ。こいつ最近、神出鬼没すぎでしょ。 ふと、わたしの脳裏に、マコーネルと待ち合わせていたダイナーで鉢合わせしたときのことが浮かぶ。 「なんで……って、その」 ミュルバッハは、なんともきまり悪げに俯いた。 「いや、だからさ、さっき、クレイトンから電話あって」 ……電話、ジョシュが? 「なんか…スカしてて、いまいちよく解んねえ感じだったけどよ、その……お前があの店にいるからって」 「ふうん、あ、そ?」 とだけ言い置いて、わたしはまた踵を返して歩き出す。 ミュルが曲芸熊みたいにノソノソと、後をついてきた。 二ブロックほど歩いただろうか。 いい加減にしろよ! と、わたしは足を止めて、また振り返る。 「なんでついてくんの?! ミュル」 ミュルバッハは、相変わらずポケットに両手を突っ込んだままニヤケ笑いを浮かべ、ちいさく両肩をすくめた。 街灯の光に照らされて、くせっ毛の毛先が金色に透けている。 と、どうしたのかニヤついていたミュルの表情が変わった。 そして、「おい、ナナミ?」と言いながら、近づいてくる。 ミュルの太い指が、わたしへと伸びてきて、頬に乱れかかっている髪の毛を払いのけた。 「お前……泣いてたのかよ?」 焦げ茶の目をまんまるに見開いて、じっとわたしを見つめるミュルに、もうどうしようもなく腹が立った。 「だったら何?! あんたに関係ないし」と言って、わたしは一歩後ずさる。 そしてミュルバッハに背を向けると、早足で歩き出した。 何歩か歩いたところで、ちいさな段差につま先をとられ、足がもつれる。 あ、ヤバい、と思った瞬間、わたしはド派手にすっころんでいた。 助け起こそうと伸びてきたミュルの手を、とっさに振り払う。 ノロノロと立ち上がり、わたしは足を引きずりながら、また歩き出した。 左足首は、昔から捻挫癖がある。 もう靭帯が伸びきってしまっているから、捻挫の直後はすこし痛むけど、そう腫れ上がったりもせずに落ち着くはずだった。 トロくさく歩いて行くわたしの後を、ミュルがまたついてくる。 その気配を背中で感じながら、タクシーでも拾おうかどうしようかと、わたしはそんなことをグルグル考えていた。 家まではあと一ブロックほどで、タクシーを探す間に、歩いて行った方が早く帰りつきそうな、何とも微妙な距離だった。 腕を伸ばしてもギリギリ届かないくらいの距離を保ったまま、ミュルはわたしの後ろを、どこまでもどこまでもついてきた。 とうとう、家の前までたどり着く。 そりゃ、わたしとて安月給の身だから。 住んでいるのは玄関だけは生体認証と暗号キーがついているけど、あとは二百年前のまんまっていう古いテラスハウスだ。 これがまた前時代的に、歩道と玄関との間には、しっかりと階段十段分の段差がついているシロモノ。 手すりを握って、わたしは玄関への階段を上り始める。 歩道に立って、じっとわたしを見つめているミュルの視線が、背中に痛くて熱かった。 ああ、もう……無性に泣きたくなって仕方ないのは、なんでなんだろ? 喉の奥のひりつきを飲み下すように、わたしはくちびるを噛みしめる。 すると、わたしの身体が、ふわり宙に持ち上がった。 荷物を肩に担ぎ上げるみたいにして、ミュルが片腕で、わたしの腰を抱えていた。 ミュルのねこっ毛に、頬をふわふわとくすぐられる。 「下ろせ」と騒ぐ暇もなかった。 ミュルバッハは、わたしを抱えてすばやく階段を駆け上ると、「ほら、ロック開けろよ、ナナミ」と言って、ドアの前で立ち止まる。 ミュルに抱えられたまま、わたしは玄関の施錠を解除した。 ずかずかと、ミュルが部屋の中に入っていく。 「……(せめ)ぇ部屋だな、それにしても」と、ミュルが呟く。 「ドールハウスだ、まるきり」 アホっぽく大きな声が、触れ合う部分を伝って、わたしの内側に響いてきた。 まあ、ミュルに言われるまでもなく、ホントに、この部屋は狭い。 いわゆる「スタジオ」と呼ばれる古い作りて、ベッドと本棚を置いたらいっぱいになってしまうような、ちっぽけなワンルームだ。 作り付けのダイニングカウンターと、ろくな料理も作れそうにないちいさなキッチン。 バスタブがついているのだけが、唯一のマトモな点と言うよりほかない部屋。 わたしは小柄な人間だから、このくらいの広さの部屋でも、別に問題ないけど。 まあ、ミュルぐらいの大きな男には窮屈すぎて暮らせないだろうし、セクサロイドを置くなんて、絶対無理だ。 ミュルがわたしを肩から下ろし、ベッドの上に載せた。 そして、 「足、見せてみろ」と言いながら、床にしゃがみこむ。 「いいから、放っておいてってば、ミュル」 っていうか、なにコイツ、勝手に部屋に上がり込んでるワケ? ミュルバッハが、わたしの踵を掴んで持ち上げる。 つりそうなほどに冷え切っていたわたしの足は、ミュルの大きな温かい掌にスッポリと包まれた。 「捻ったのか? すこし腫れてんな」 足首を指先で触れながら、ミュルが言った。 別に……たいしたことない。 と、言い返す声に、どうにも力が入らなくて、わたしは自分自身にイライラし始める。 「ていうか、もう、さっさと帰ってくれない?!」 気合を入れなおし、わたしはミュルを、こうどやしつけた。 でもミュルバッハは、それを完全無視って感じで、棚やら引き出しやら、あちこちを勝手に物色し始める。 「ちょっと、なにしての、止めてよ、アホバッハ!」 とかなんとか罵倒してみるけど、さらに無視された。 そして、ミュルはどこかからかサージカルテープとハサミを取り出してくる。 「お前の家、何もねえな……」 独りごちるように言いながら、ミュルはまた、わたしの前にしゃがみ込んだ。 「テーピングには、サージカル(これ)じゃちょっと役不足だが、ま、なんもしないよりゃ良いだろうさ」 ミュルバッハが、わたしのジーンズの裾を引き上げる。 余計なことしないでよ、と怒鳴りつけたかったけど、なぜかそうできなくて。 わたしは黙ってしまう。 ミュルのテーピングは、なかなか手馴れていた。あっという間に、足首が固定される。 ありがと……と。 ミュルバッハに、そう礼を言おうと思った瞬間だった。 わたしのつま先が高く持ちあげられ、足の甲に、ミュルバッハのくちびるが押し当てられたのは。
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