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いつまでも
女性というのは一度怒らせるとなかなか機嫌を直してくれない。いつまでもいつまでも怒っている。今の妻がまさにそれだ。それにしても結婚してもう五十年、はや半世紀が経とうとしているがこんなに長く機嫌が悪いのは初めてだ。
僕がそんなことを考えていると、それが伝わったのか突然妻がぶつぶつと呟き始めた。
「本当にあなたってば、私を怒らせるようなことばかりして!」
(何だろう?)
「まず、何度言っても脱いだ靴下をその辺に放置するでしょ?」
(ご、ごめんなさい)
「好きなおかずばかり食べて嫌いなものは残すし。せっかく栄養バランスを考えて作ってるのに意味がないじゃない」
(おっしゃる通りで)
「そうそう、ゴミの分別もテキトーよね。いつも後から私が分けてるの知ってる?」
(はい、知っていました……)
「だいたいプロポーズのときだって、花束を持って街中で盛大に転ぶなんて!」
(おいおい、どんな昔の話だよ)
すると妻は小さく微笑んだ。
「あのときのあなたの顔ったら」
(お、機嫌なおしてくれたかな?)
そう思って妻の表情を窺う。だが妻の顔は再び曇ってしまった。
「でも一番許せないのは……」
(は、はい、なんでしょう?)
「私を置いて先に逝ってしまったこと」
妻は私の遺影をじっと見つめていた。
「まだまだしてあげたいことがたくさんあったのに。毎日でも病院に通えるようにって自転車だって新調したのよ? もっともっと、いつまでも一緒にいられると思ったのに……いつまでも……」
最後の方は言葉にならない。私はいつものように妻の右隣に立った。二人で歩くときは私が右側と決まっている。嗚咽する妻の隣で私は自分の遺影を見つめた。そしてふと思いつき妻の肩にそっと左手を置く。気付くはずもないと知りながら。だが妻は突然ハッとしたように顔を上げ、左手を自分の右肩に置いた。まるで私の手をそっと握り締めるように。
「あなた?」
妻はゆっくりと顔をこちらに向け泣きながら微笑みを浮かべる。そしてそのままずっと私の立つ何もない空間を見つめていた。
いつまでも、いつまでも。
了
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