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市井の噂
クォンタムの街に、夕闇が迫る。
街外れに佇む、その小さなレストランは『樫の木の店』と呼ばれていた。闘技場からは、歩いて30分ほどであろうか。
普段は近くで働く職人達が集まる店だが……。
「……いや、まだ飲めるだろ?片付けちまいな。さっきは世話になったしよ」
店の片隅で背の高い職人風の男が、相方に酒を勧めている。
「へへ。済まねぇな。じゃぁお言葉に甘えてさせて貰うよ」
相方の色黒な男が酒瓶を手元に引き寄せる。
「……ところでな。聞いたか?」
背の高い男が顔をテーブルに寄せて、声をひそめる。
「『あの御方』が、クォンタムに戻って来てるらしいってよ……」
「ああ……ワシも聞いたよ。6年前に行方不明となった『第二王子』だろ? 何でも『それらしい人影がフェリーから降りて来るのを見た』ってぇ噂だぜ……」
色黒男が、ニンマリと相好を崩す。
「第二王子は公式には『突然の失踪』って話になっちゃぁいるけれど、やれ『デルガネードが国外に追い出した』だの『実はすでに殺されて地面の下』だの色んな噂が飛び交ったものよ。だが、『生きて姿を現した』ってぇ事になると……」
長身の男が、グラスを握る無骨な手に力を込める。
「ああ……国外に逃げていたのは間違いあるまい。そして、この王位を決める大会に出てきた以上、カイザーの王位継承に待ったを掛けるおつもりだろうて! 何しろ、追い出された怨みもあるからな……」
「楽しみなこったぜ、まったく! 第一王子のヤツぁ、尋常じゃぁねぇ馬鹿力の持ち主だって有名だけどよ。でも『レザナンス遣い』じゃ無ぇらしいし。今でも乱暴なだけの第一王子より、『将来は優れたレザナンス遣いになるだろう』と期待されていた第二王子に戻ってきて欲しいと願ってる国民は多いからな……思いっきりブチのめして欲しいもんだ!」
「おぅともよ。何しろ第二王子は血統が違うからな……。レザナンス能力のないカイザーなんざ、足元にも及ぶまいて。ついでにあの、憎たらしいデルガネードも宮殿から追い出してくれる事を期待しちまうがな……!」
最初はヒソヒソ声だった会話も、少しづつボリュームが上がる。
……酒の勢いでウサを晴らすこの会話に、店の反対側でじっと聞き耳を立てている一団が居た。
親衛隊のメンバーである。その中には、リーエの姿もあった。
……なるほど。『情報操作』は上手く行っているようだな。
リーエは、男達の反応を伺っていた。
カイザーからは「適度に噂をバラ撒け」と命じられている。抑え過ぎず、自由にし過ぎず……
さて、そろそろか……。
リーエは頃合いを見計らい、ガタン……と椅子から立ち上がった。
モスグリーンの防寒をバサリと脱ぐと、中から特徴的な親衛隊の白い軍服が姿を現す。
濃いブラウンの、腰まで届く長い髪が顕になる。
「おっ……お、おい、あれはっ!」
親衛隊の存在に気づいた店内に異様な緊張が走った。
リーエは客達の注目を一身に浴びながら、悠々と軍帽を深く被り直す。
そして、腰に手を当て軍帽の鍔からジロリ……と男達を睨み付けた。
「おい……そこの者! 今……何の話をしていた?」
店の空気が、瞬時にして氷点下にまで急落したかのように凍りつく。
リーエの後ろには親衛隊の男達が数人、周囲に睨みを効かせている。
「ひ……っ! し、親衛隊だ……!」
『お喋り』をしていた男達から酔いの気が一気に引き、血の気が失せていった。
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