ホットミルクはいかがですか?

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ホットミルクはいかがですか?

 外から差し込む日差しが、窓際の珈琲の木に注がれている。  木下陽介は、国旗が描かれたどこにでもあるマグカップを右手に持っていた。4月に新社会人となり、仕事にも慣れてきた6月の朝だった。4月に購入したばかりの新しい電子レンジで温められたた牛乳は、マグカップの中でまだ温かさを保っていた。陽介は、国旗のマグカップからホットミルクを一口くちにふくみため息をついた。  今日の予定を考えていたのだ。  まず、会社に入り、真直ぐ課長のところに行く、そしてひたすら謝るだけだ。もし、責任を取れと言われたらどうしよう。まさか、そこまで言われないよなあ。でも、もしそうなったら。責任って、何の責任だ?結婚とか?頭の中では、解決策も明るい兆しも見当たらない、もう二度と酒は飲まないと反省するだけだった。  濃い緑色の珈琲の葉に注がれた日差しが、今日の8時間労働に明るい未来があると言っているのだろうが、陽介には、そんな励ましは何の役にも立たない。陽介は、もう一口、ホットミルクを口に含み、マグカップの中の残りのホットミルクをいっきに飲み干した。  いい一日なんて、来るはずはない、今日はきっと俺に審判が下る日だからだ。  覚悟はしている。はずだ。それでも、気は重い。  陽介は、声に出さない呟きを頭の中で巡らし、溝落ちのあたりに左手をあて、きりきりと痛む内臓を感じていた。  例えるならば、陽介の中にあるどす黒い黒雲が心臓を充満し、その黒雲から放たれた稲妻が内臓に落ちたのだ。さらに今にも全身に回りそうな勢いで黒雲が動き出しているといったところだった。 「よし、行くか。」  陽介は、誰に宣言するわけでもなく、ありったけの気合を込めて呟いた。そう、呟いたのだ。どんなに気合を入れても、今の陽介にはそれだけの声しか出なかった。  玄関のドアノブに手をかけた陽介は、両手で頬を叩いた。自分を慰めながら、励ましながら、会社まで辿り着かなければいけない自分を知っていた。  今にも陽介の喉元から吐き気と涙があふれ、こぼれそうだった。 「しかたがない、辞めろと言われたら、そうしよう」  なんとも覇気のない自分への励ましの言葉だった。  陽介は、青の淡いストライプが入ったスーツに、黒カバンをもち、会社のエレベータ前まで辿り着いた。  青の淡いストライプのスーツは三か月前の入社式に来たスーツだ。陽介なりにけじめをつけるためにこのスーツを選んだのだ。エレベータのドアが開いた。陽介は、誰にも気づかれないように、下を向きながら、深呼吸した。 「よっ、陽ちゃん、おはよう」  陽介の背後から、なんとも威勢のいい声だった。きっと、陽介に足りないものはそれなのだろうが、陽介は気づいていない。声の主は、浅田大輔、4月に入社した同期だ。浅田は、根っからの体育会系で、生まれてから一度も落ち込んだことがないのではないかと思うくらい、毎日元気がいい。そして、毎朝、このエレベータ前で陽介に、声をかけてくれる。 「陽ちゃん、なんだか背中から黒い気が見えるぞ?」 この浅田という男は、体育会系で能天気なくせに、感が鋭い。前に、上司に怒鳴られて落ち込んでいた俺に、自動販売機のホットミルクを奢ってくれた。普通は、珈琲じゃないのかと思ったけど、あの時も僕は自分のことで精いっぱいだったから、なぜホットミルクなのか聞きそびれていた。今日だってそうだ、朝の満員電車なみのエレベータ前で、その才能を発揮させなくてもいいだろうに。周りの視線が痛い。 陽介は、周りの視線がつらくなり、エレベータとは反対側のフロアの隅にあるベンチに向きを代えた。歩きながら、浅田に返事を返すのを忘れたと気づいたけれど、こんな恥ずかしい状況を作った浅田への仕返しということにしようと、くだらないことを考えながら、ベンチに座った。 「ほい、これ飲めよ。元気出るぞ」 思わず陽介が顔をあげた、その先には、浅田がいた。しまった。着いてきていたことも気づかなかったんだ。 「あ、ありがと。気にしないでいいよ。浅田まで遅刻することないよ」 「ああ、それは気にするな。今日からサマータイムらしいぞ。それより、お前どうした?顔は真っ青だし、背中は暗いし。」  浅田は、陽介の横に座りなおした。 「なあ、浅田。おれさあ、お前と同期でよかったよ。」  陽介は、いくら能天気で、場の空気を読まない浅田でも、2度もホットミルクをくれた礼を言わずにいなくなるのは、社会人の礼儀に反すると思った。 「あらたまって、なんだよ。陽ちゃんは、何を深刻に悩んでるんだい?」  浅田は、相変わらず、能天気な声だった。  陽介は、あったかいホットミルクを一口飲んで、話す決心をした。でも、さすがに、浅田と目が合うのを避けたかった、床を食い入るように見ながら、できるだけ平静を装って陽介は話し出した。 「昨日、課長と飲んだんだよ。プロジェクトが無事に成功して嬉しっくてさあ。いつもより飲んじゃったんだ。俺も浮かれてたけど、課長も結構テンション高かったんだと思う、かなり酔っぱらってさあ、突然キスしてきたんだよ、それもディープなやつ!俺、気持ち悪くて、思わず・・・」 「思わず?」 「うん。平手打ちしたさ。あー、もう、だから、終わりなんだよ」  陽介は、昨日の唇の感触を思い出して、さらに溝落ちのあたりが痛くなるのを感じ、ホットミルクをごくりと飲んだ。 「浅田に話したら、少し落ち着いたわ~。でもさあ、上司だからさあ。今日で終わりなんだ、きっとどこかに飛ばされるかも。ホットミルクありがとな。」 「おい、待てよ!お前、キスされたのか?なんでだよ!俺だって我慢してるのに」 「はあ?心配するとこって、そこじゃないだろ!普通は俺の左遷かくびを心配するだろ。え?はあ?お前が我慢って、何?どういうこと?」  陽介は、浅田の言葉の意味が分からず、顔をあげた。浅田が隣に座っていたことを忘れていた。顔をあげた瞬間、目の前に浅田の唇が近づいてきた。 「ちかっ。ちょっと、浅田、顔近いって」  浅田は、陽介の肩をつかみ、突然キスをしてきた。それも、濃厚なディープだ。陽介は昨日のキスとは何かが違うことに気づいてしまった。昨日の課長のキスは気持ち悪くて吐きそうだったのに、浅田のそれは、甘くて、やさしいキス、ホットミルクの味がした。陽介は、徐々に体が火照っていくのを感じ、浅田の行動を制することを忘れていた。  数秒?数十秒?陽介は、我に返って、浅田から離れ立ち上がった。 「っちょっと、なんだよ。これ、なんだよ。俺?おい、ここは会社だぞ」  陽介は、もう何をどう考えていいのかわからず、うろたえてしまった。  浅田は、陽介の手を引っ張り、ベンチに座らせた。 「今は俺とお前しかいないだろ」 「そういうことじゃなくて」  陽介は、今まで見たことのない浅田の震えた声に驚いた。 「俺、お前のことが好きなんだ。ずっと、我慢してたのに。酔った勢いだって言われても、ほかの奴にお前を取られるなんて我慢できないんだよ」 浅田の手が震えていた。陽介は、いつもの体育会系の勢いとは違う浅田を見て、思わず笑ってしまった。 「なんだよ、笑うなよ。俺、真剣なんだぞ、今だって、結構、緊張して・・・」  陽介は、まだ笑っていた。浅田とのキスが、思ったほど嫌じゃなかったことに驚いていたけれど、真っ赤になった浅田を見ていたら、陽介は、笑いが止まらなかった。 「なんだか、昨日のことで悩んでた自分が馬鹿らしく思えてきた。ちゃんと、上司に話してみるよ。会社を辞めることになってもな。お前、俺のそばに居てくれるんだよな?」  浅田の顔が、また赤くなった。今まで見たことのない浅田の顔をみて、陽介は、残りのホットミルクを飲み干した。さっきの浅田のキスの味がした。
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