sunset

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目を覚ませば、そこは火の海だった。 鮮血のような濃密な赤が、ぐっしょりと体を濡らしている。 「起きたか」 ぼやけた視界で何かが呟く。やがて焦点が合えば、それが少年だということがわかった。銀色の髪を揺らした少年に手を差し伸べられ、戸惑いがちにそれを掴む。 体を起こして周囲を見渡してみれば、火の海だと思っていたのは夕焼けの色だった。空にぽっかりと浮かんだ赤は、手を伸ばせば火傷をしてしまうのではないかと思うほど轟々と燃え盛っている。それが世界の隅々まで照らしつけているものだから、まるで火の中にいるような錯覚を起こしたのだ。 「火事が起きたんだ」 少年は言う。 「お前も居て良かったよ。俺だけ焼け残ったのかと思っていたから」 「かじ」 幼子のように単語を口の中で転がす。何も覚えていなかった。焼け焦げた制服と火傷のある体を見て、ようやく火事に遭ったのだという実感が湧く。 「他にも焼け残りが居ないか、一緒に探しに行かないか。俺はギン。お前は?」 少年はこちらの混乱も無視して話を進める。何も覚えていないかと思っていたが、自分の名前だけははっきりとわかった。 「コノハ」 「良い名前だな。じゃあ、とりあえず」 少年━━ギンは背後を見やる。 「行こうか」 赤に染まった焼野原が、どこまでも広がっていた。 「酷い火事だったんだ。焼け残ったものもあるが、ほとんど駄目になった」 忙しなく揺れる銀髪を追い、森の中を進んでいく。 ここはどうやら山の上のようだった。炭の塊となった木が地面に転がり、無造作に絡み合って、思うように進めない。火が消えてからさほど時間が経っていないのだろう、試しに触れてみた地面はまだ熱かった。崩れた足場に足をとられて転びそうになれば、呆れた顔で手を貸される。 「何も思い出せないんだ」 「そのままでいい。思い出したって何も良いことは無い」 ギンが疎ましそうに顔を顰めたので、それ以上は何も言わずに黙り込む。 余程酷い火事だったのだろうか、見渡す限り辺りは炭ばかりで人の居る形跡は微塵も無い。炭に混じって生きていない人間が転がっている可能性はあったが、それは考えたくなかった。「本当に誰か居ると思うか」と問えば、「望みは薄いだろうがな」と冷めた答えが返ってくる。 「誰か残っているよう、神様にでも祈ってみるか」 それは空気の読めないジョークのつもりだった。しかしギンは立ち止まり、哀れむような目つきでこちらを睨み付ける。 「神は何もしてくれない。現に俺達は見捨てられたんだ」 苦々しく吐き捨てられた言葉に驚く。何が意外だったといえば、それがまるで神の存在を疑っていないような物言いだったからだ。 「神様を信じているのか」 「信じるも何も、神は実在するだろう。・・・・・・いや、この話はもうやめるか」 失言だったとばかりに口を押さえ、ギンはきびすを返して再び歩き始める。同い年くらいのくせに信心深いやつだと心の中で呟いて、大人しくその背中を追った。 山を彷徨ううちに、少しずつだが記憶が戻ってきた。自分が高校生だということ。今は学校行事でキャンプに来ていたこと。なら目の前の彼も同級生なのだろう。自分の首にぶら下がっているのと同じ柄のネクタイを、ギンは窮屈そうに緩める。 あれからどれくらい時間が経っただろうか。山の出口は一向に見付からないし、当然人も現れない。夕焼けの赤と焼け焦げた木の黒が入り混じってぐるぐると回っている。まだ熱を孕む地面を踏みしめるたびに汗が吹きだした。限界を感じて辛うじて焼け残った木の根元で休めば、こら、と呟いてギンが戻ってくる。 「お腹空いた。休みたい」 「もう少し頑張れ」 「人を探すよりも先に、街に下りないか。助けを呼びたい」 「駄目だ。人を探す方が先だ」 「もう諦めないか。俺達以外誰も居ないよ」 それはたわいのない弱音だった。少なくとも自分にとっては。だがギンが顔を歪めたのを見て、心臓が嫌な音を立てる。それはナイフを胸に突き立てられたかのような、今にも泣きだしそうな顔だった。痛々しい沈黙が二人の間に下り、余計なことを言ってしまったと後悔する。 「・・・・・・わかった、わかったよ。まだ付き合ってやる。でもその前に腹ごしらえをさせてくれ」 沈黙に耐え切れなくなりやけになって叫べば、力無く項垂れたまま頷かれる。 「・・・・・・俺が何か食べるものを探してくる。お前はそこで待ってろ」 素っ気なく吐き捨て、ギンは返事も待たずに一人森の奥に突き進んでいく。 その背中はどこか寂しげで、込み上げてきた苦々しさに俯くしかなかった。 ギンが再び戻ってきた時、その両手には焼けた魚が抱えられていた。 「わざわざ焼いてきてくれたのか」と問えば、「まさか」とかぶりを振られる。 「最初から焼けてたんだ。黒焦げじゃないのを選んできた」 「最初から?」 「ああ。川も干上がってた」 「いくら山火事でもそこまでなるかね」 「そんなことより、食え」 無理矢理口の中に突っ込まれて悲鳴が出る。皮こそ焦げ臭かったが、身は程良く焼きあがっていた。塩が欲しいな、と思う。もう先程のことは怒っていないのか、ギンは無言で隣に腰掛けてくれた。 世界は相変わらず赤に染まっていて、その鮮やかさに眩暈がするようだった。そういえばもうかなりの時間が経ったはずなのに、一向に日が落ちる様子が無い。もう夜になっていてもおかしくないはずなのに。疑問が顔に出たのだろう、豪快に魚の腹に齧りついていたギンが口を開く。 「もうずっとこのままなんだ」 「このまま?」 「ああ。延々と夕焼けが続いている。夜も来なければ朝も来ない」 「ずっとって・・・・・・。お前、いつからここに居るんだ?」 ギンは黙り込む。つくづく秘密の好きな奴だ。 「これを食い終わったら寝るか」 「ここでか? 熊でも出たらどうする」 「休みたいと言ったのはお前だろ。熊なんか出るもんか。どうせここは俺達以外居ないですよ」 こいつ、根に持ってやがる。 ジロリと睨みつけてやったが、ギンはどこまでも涼しい顔だ。おまけにあっという間に魚を平らげ、焼け焦げた地面の上にごろりと転がった。それを見て、慌てて魚を口の中に詰め込んで隣に転がる。 寝転んでみたのはいいものの、焦げ臭さに鼻が曲がりそうになった。体は痛いわ地面は熱いわで寝心地は最悪だが、本当にこんなので眠れるのだろうか。 「なあ、何で神様は俺達を見捨てたんだと思う」 落ち着かなさにそんなくだらないことを尋ねる。無視されるかと思ったが、意外にも答えが返ってきた。 「もう手がつけられないと諦めたんだろうさ。俺達は所詮その程度の存在だったんだ」 「お前、神様のことが嫌いなのか」 「昔は好きだったよ。今は、」 ギンの言葉はそこで途切れる。続きを想像しようとして、結局はやめた。 刺すような日差しが眩しい。まだ火の中に居るようだ。何かを思い出せそうな気がするのに、赤がそれを邪魔する。 なあ、ギン、お前は何者なんだ。 そして俺は誰なんだ。 問いかける勇気もなく目を閉ざせば、瞼の裏までも赤く染まっていた。 再び目を開いた時、世界は相変わらず燃えていた。 いつの間にか眠っていたらしい。頭がすっきりしているから一晩は経っているのだろう。ずっと夕焼けのままだから確証は持てないが。 地面で寝たから流石にあちこちが痛い。悲鳴を上げる体を起こして隣を見れば、ギンはまだ眠っていた。赤く染まっているせいかその横顔は死体のようにも見える。試しに口元に手を添えてみれば、そこに当たる息に安堵する。 余程深く寝入っているのか、ギンが起きる気配は無かった。ずっと一人で人を探していたのだから疲れているのだろう。 そこでふと気付く。ギンは、一体いつから一人だったのだろう? どれほどの長い時間を、一人ぼっちで彷徨っていたのだろう? 問いかけてみても、眠っているギンは答えない。ただ、ずっと寂しかったのではないかと思った。脳裏をよぎるのは、誰も居ないと言った時のギンの傷付いた顔で。 「・・・・・・よし! 俺が朝飯でも用意してやるか!」 ギンを起こさない程度の声量で決意して、意気揚々と立ち上がる。この寂しがり屋な同級生の為に、早く他の人を見付けようと思った。そうすれば、もうあの顔をさせることもないだろう。その為には、まずはしっかり食べなければ。 ギンを置いて、鼻息も荒く炭の転がる森を突き進んでいく。昨日ギンが見付けた川━━だったもの━━の場所は聞きそびれたが、まあなんとかなるだろうという甘い考えがあった。 一晩経ったというのに、地面はまだ熱を孕んでいた。やはりここはどこかおかしい。しかし今は全てがどうでも良かった。わけのわからない高揚感に包まれている。そうして木々を掻き分け、赴くまま足を動かし続けた先に見付けたものに眉を顰める。 最初は空中に奇妙な模様でも浮かんでいるのかと思った。顔を近付けてみれば、微かに焦げ臭いような気がする。 これはもしや模様ではなくて、焼け焦げた跡なのではないだろうか。それに気付いた瞬間、一気に嫌な汗が噴き出た。 空中に焼け焦げた跡があるなんてありえない。こんな、紙が燃やされたような跡が残ることなんて。しかし、何度目を凝らしてみても目の前の現実は変わらなくて。 「・・・・・・なんだこれ、」 呟いたところで返事は返ってこない。恐る恐る触れてみれば、カサカサとした感触が指に伝わった。指の腹についた煤を制服で拭い去って、森の奥まで続くそれを追う。何故か、痛いほどに心臓が高鳴っていた。 焼け焦げ跡は次第に大きくなり、網目のように縦横無尽に広がっていた。ところどころに開いた穴の向こうは闇に満ちている。手を突っ込んでみようとして、その濃密さに怖気づいて手を引っ込めた。 焼け焦げ跡はやがて完全に道を断った。跡を境界線にして、崖のように道が欠落している。いいや、正しくは、世界そのものが欠落していた。まるで強引に切り取ったかのように、一寸先が闇で覆われていたのだ。 目の前に広がる闇に足がすくむ。どれだけ目を凝らしてみても道はおろか景色さえ見えない。かつて大昔の人々が唱えた地球平面説のように、世界の終わりがそこにあった。 眩暈を覚えて後ずさると、何かを踏んだ感触が足に伝わった。驚いて足元を見れば、焼け焦げた紙の切れ端が地面にへばりついている。 心臓が悲鳴を挙げている。紙片を抓み上げた手は震えていた。ボロボロになった紙片には、かろうじて読めるほどの汚い文字が書かれている。 嫌だ。読みたくない。読んだら何かが終わってしまう。何かが壊れてしまう。言いようのない不安と恐怖が波のように襲ってくる。それなのに、目は勝手に文字を読み上げて、 瞬間、世界が弾けた。 「赤い、」 火の海が目の前に迫っていた。轟々と燃え盛るそれは、巨大な怪物となって世界を侵略する。 ああ、世界が終わるのだと思った。 「熱い、」 世界が燃えていく。赤く染め上げていく。道が、森が、空が、全てが呑み込まれていく。次第に崩れ落ちていく地面が恐ろしくて、必死に逃げ出した。 「皆、」 尊敬していたあの教師は生徒を庇って灰となった。手を引いていたはずの友人は火に呑まれて何も残らなかった。想いを寄せていたあの子は腕を燃やされて泣いていた。 「誰か、」 あまりにも呆気なく世界は燃やされていく。全てが灰となっていく。大好きだった人々も、眩いほどの太陽も、地面を彩っていた花々も、全部、全部、台無しになる。鮮やかだったはずの世界が赤一色に染まり、そして次第に灰色へ変わっていく。あまりにも簡単に、失われていく。 振り返った先には、もう誰も居なかった。 「━━ギン、」 「ここに居る」 苦しげな声が耳を擽る。 崩れ落ちた体を支えるように、ギンがそこに立っていた。その手に温度が無いことに気付いて、衝動のままに振り払う。ギンは傷付いたように顔をしかめて、しかし再び触れてこようとはしなかった。 「ギン、」 「何も思い出すな」 「もう遅い。俺は思い出したんだ」 「駄目だ。言葉にしてはいけない」 「ギンの言うとおりだ。神様は実在する。だって俺たちは、かみさまにつくられたんだから」 「やめろ。言葉にしたら終わってしまう。頼むからやめてくれよ」 「もうおしまいだよ。このせかいはおわったんだ。もやされて、はいになって、あとはくちていくだけだ」 「コノハ!」 それは悲鳴のような怒声だった。今にも泣きだしそうな顔をしているくせに、それでもギンは涙を流さない。ぐしゃぐしゃになった顔がなんだか可笑しくて、思わず笑みが零れる。 「なあ、ギン、」 「これは、紙上の物語だったんだな」 それを口にした瞬間、花開くように体が火を噴いた。 「あ」 熱い。 ギンが大きく目を見開く。こちらに伸ばされた手が見えたが、もうどうにもならないことは自分が一番良くわかっていた。だって、この赤はそうやってあっという間に世界を滅ぼしたのだから。 何故か恐怖は無い。自分でも不思議なほど穏やかにその時を待っていた。しかしそれが道理なのだと思う。神様に見捨てられたただの文字は、静かに終わりを迎えるほうが賢明だ。きっとこの物語は、ここで終わりを迎えるのが運命だったのだろう。 ただ一つ、心残りなのは。 こちらに伸ばされた手を、まだ燃やされてない腕で振り払う。真実を思い出して灰になるのは自分だけで十分だった。 ギンが名前を叫ぶ。涙は流していなくとも、泣いているのだと思った。泣き虫だと笑ってやりたくて、しかし声が出せないまま、やがて、燃えた。
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