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貴女に“先生”と呼んでもらえるのも、きっと今日が最後なのだろう。
貴女は間も無く、海の向こうの遠い国へと嫁いでいく。
初めから分かっていたことだというのに、今さらながらに、貴女のいない明日に戸惑っている自分がいる。
思えば貴女は、数奇な運命を持つ方だ。
本来ならば旧王家の血を引く一公爵令嬢であったはずの貴女は、父君が革命により新王に即位したために、齢2才にしてこの国の王女となった。
けれどそれは果たして、貴女にとって幸福なことだったのだろうか。
貴女と初めて会った時、その小さな肩に負わされた運命を想い、思わず同情してしまったものだ。
祖国を守るための同盟の証として、海を隔てた異国の王太子との結婚を定められた王女。幼いうちから次期王妃としての教育を叩き込まれることを義務付けられた姫。
けれど貴女はそんな重い運命を知ってか知らずか、無邪気に私にこんなことを言ってきた。
「あなた、本当に私の先生なの?私、先生って、もっとお年を召した真っ白な髪のおじいさんだと思っていたのに」
まだ幼かった貴女は、見も知らぬ異国の言葉や文化を学ぶことを、退屈がっていた。
私はそんな貴女に少しでも興味を持ってもらえるよう、子どもの喜びそうな話の種を、思いつく限り語ったものだった。
英雄王と円卓の騎士の伝説に、妖精や幻獣の登場するお伽話、今ではもう何のために造られたのかも分からない不思議な円形列柱巨石の話……。
貴女は目を輝かせて私の話に聞き入っていた。そんな貴女をあの頃は、ただ素直で可愛らしい“子ども”だと、思っていられたのに……。
十代で嫁ぐことが当たり前の今の世の中で、きっと貴女も、あどけなさを残した少女のまま、嫁いでいくものと、あの頃の私は思っていた。
けれど貴女に用意された運命は、そんな単純で当たり前なものなどでは、決してなかった。
貴女が齢11となったその年、嫁ぎ先となるべき彼の国では、政変により王が処刑され、事実上の新王となった王太子も、国を追われて他国へ身を寄せることとなった。
それから実に十年以上、貴女の縁談は宙に浮いたままとなってしまった。
そんな中、いつしか貴女は幼いばかりの少女から、見る者の目を奪わずにはいられないほど美しい貴婦人へと変貌を遂げていた。
けれど、どれほど美しく咲き誇ろうと、貴女は他の令嬢たちのように宮廷での恋のさや当てを楽しむことはできない。どう転ぶかも分からない婚約に縛られたまま、律儀に身を慎むしかない日々……。
『誰からも手を触れられずに朽ちていくだけの花』『お可哀想なお姫様』――宮廷の陰で囁かれるそんな憐れみの声は、きっと貴女の耳にも届いていた。
けれど貴女は王女として、常に毅然と、堂々と、この国の淑女の模範のように振る舞っていた。
……だから、気づけなかった。一国の王女と言えど、まだ年も若い一人の乙女。未来の見えないこの状況に、不安を覚えずにいられるはずなどないのに……。
「ねぇ、先生。私の嫁ぐべき“国”は、もうなくなってしまったのでしょう?」
貴女がふいに、そんなことを口にしたのは、いつものように彼の国の歴史や文化を講義している最中のことだった。
「どれだけ知識を詰め込もうと、無駄なのではなくて?だって、私はもう嫁ぐべき王家を失ってしまったのですもの。どうせこのまま一生夫を持つこともなく、いずれは修道院にでも送られる身なのでしょう?」
それは初めて見る貴女の怒り、そして嘆きだった。一体、貴女はこれまでにどれほど、誰にも言えない鬱憤をその胸に溜め込んできたのだろう。
先生などと呼ばれながら、貴女の心を苛む気鬱や憤懣に気づくこともできなかった己の愚かさに、打ちのめされる思いだった。
「……そんなことはございません。彼の国では既に、新体制に不満を抱き、王政の復古を求める民の声が広がりつつあるとのことです。いずれは王家の復活も充分あり得ることかと……」
「そうかも知れませんね。でも、それは何年後のことなのですか?一年?五年?それとも十年、二十年先?その頃には私、結婚適齢期などとうに過ぎてしまっているでしょう」
そう言って哀しく笑う貴女を、衝動的に抱き締めたくなった。この胸に抱き込んで、その髪を撫でて、『泣かないで』と慰めたかった。
けれど、それは決して許されない行為。だから私は、貴女へ向けて無意識に伸びかける腕を、理性で必死に押し止めた。
「大丈夫です。たとえ十年経とうと、二十年経とうと、貴女はきっとお美しいままですから。幾つになろうと色あせることのないそのお姿を目にすれば、ご夫君となられる国王陛下も、国民たちも、きっと歓喜の声で貴女を迎えることでしょう。貴女はそれだけの魅力を持った、愛すべき姫君です。何も心配することなどありませんよ」
それは、心の底から自然と湧き上がってきた言葉だった。
きっと、十年後も二十年後も、貴女より美しい女性は現れない。――それは、自分自身さえ、それまで意識することのなかった、紛れもない私の本心だった。
私の中にはとうの昔から、貴女以上に美しいと思える女性など存在しない。
ふいに自覚させられたその恋心は、だが、ただ苦いだけのものでしかなかった。
これは、叶えるどころか想いを明かすことさえ許されぬ恋。気づいたところで、再び胸の奥深くに封じ込めて、見て見ぬフリをするしかない恋だ。
せめて、貴女に待ち受けているものが、ただ幸せなばかりの婚姻であったなら、少しは気持ちの整理がつけられたのだろうが……。
貴女との最後の授業は、授業と言うよりも、ただの茶飲み話になっていた。
思いがけず長くなった貴女との師弟関係の中で、彼の国の王妃として必要な知識は、もう充分過ぎるほどに渡してあったから。
お気に入りの茶を優雅に口に運ぶ貴女を見て、ふと私は、まだ話すべきことがあったのを思い出す。
「彼の国では、こういった“お茶”はあまり飲まれていないようです。あちらでもお茶を召し上がりたいなら、茶葉を船便で送れるよう、手配なさっておくのがよろしいかと存じます」
貴女は手を止め、きょとんとした顔で私を見る。
「まぁ。お茶を飲まないと言うなら、彼の国では普段、何を飲んでいるのでしょう?」
深窓に育った王女らしい世間知らずな物言いに、思わず笑いが零れそうになる。
そもそも、この茶という飲み物自体、貿易により財をなしたこの国の王女だからこそ許される贅沢品で、他の国では王侯貴族と言えどそうそう入手できるものではないのだが……。
「あちらで飲み物と言えば、専らワインやエールなどの酒類を指すそうです。あちらで飲み物をご所望の際には、くれぐれもお気をつけください。ただ『何か飲み物を』と仰るだけでは、昼からでも酒を供されるでしょうから」
言葉も文化も習慣も、宗教や食べる物まで違う異国で、少しでも貴女が苦労せずに過ごしていければいい。儚い望みと知りながら、せめてもの忠告を口にすると、貴女はその手に持ったティーカップにそっと視線を落とした。
「そうですね。あちらへ嫁ぐ際には、お茶の葉も持って行くことにしましょう。何もかもが違う異国の宮廷で一人戦うことになっても、馴染んだこのお茶の香りを嗅げば、きっと心が慰められるでしょうから」
「『戦う』……?一体、何と戦うと仰るのですか?」
「女の戦い、ですわ。先生もご存知でしょう?彼の国の伯爵夫人の噂は」
さらりと告げられたその言葉に、心がずしりと重くなるのを感じた。
貴女の嫁ぐ異国の王には、既に幾人もの愛人がいる。中でも伯爵夫人の称号を与えられた女性は気が強くプライドも高く、新国王夫妻の暮らすことになる宮殿に自らも住むと言って聞かないらしい。
「私の夫となる方は、私より八つ年上ですものね。私が嫁げずにいた十年余りの間に他に好い方ができても仕方がないのかも知れません。けれど私も祖国の命運を担って嫁ぐ以上、黙ってお飾りになり下がるわけにはいきませんから」
戦いへの意思を込めた毅い眼差しで、貴女は言う。元より政略のための結婚、そこに愛など求めてはいない――そう言外に告げるように。けれどその頬や唇には、どうしようもない寂しさや諦めのようなものも見て取れた。
……そうだ。寂しくないわけなどない。辛くないわけなどない。物心ついた時から唯一の伴侶と定められていた相手が、自分一人のものではないという残酷な現実に……。
慰めの言葉も思いつけずに口を閉ざしていると、ふいに貴女はティーカップを置き、これまでに見たこともないほど真剣な目を向けてきた。
「I love you.」
唐突に告げられた言葉と、真っ直ぐ向けられた眼差しに、息が止まるかと思った。
――それは、私が貴女に教えた彼の国の言葉。ごくごく単純な、愛の告白の言葉。まさか貴女も私と同じに、口にできない想いを胸に秘めてきたと言うのだろうか?
驚きのあまり動けずにいる私に、貴女は吹き出すように小さく笑った。
「彼の国で愛を告げるには、こう言えばよろしいのですよね?先生」
先刻までの真剣な表情が嘘のように悪戯っぽく微笑まれ、私は貴女にからかわれたことを知る。
「……まったく、貴女という御方は……」
最後の最後に子どもじみた悪戯を仕掛けてきた貴女に、先生らしくお説教でもしようかと口を開きかけ……だが私は寸前でその唇を閉じた。
貴女は今もまだ悪戯っぽい笑みを口元に刻んでいる。だが、その瞳はひたむきに、どこか熱さえ帯びて、じっと私に向けられていた。その瞳の奥に宿るものは、何だろう。これは、本当に、ただの悪戯なのか……?
「……先生。私、貴女に教えてもらったこと、絶対に忘れません。何も知らない異国の王妃と馬鹿になんてさせません。貴女に教えてもらったこの知識を武器に、私はこの国を背負う王女として、彼の国の王妃として、堂々と戦ってみせます」
貴女の悲壮なまでの決意と覚悟を目の当たりにして、私は悟る。たとえ貴女の真意が何であれ、今はそれを確かめることなどできないのだろう、と。
「ねぇ、先生。『異国へ嫁ぐ女は、もう二度と祖国の土を踏めないことを覚悟しなければならない』と言われましたけど……いつか、王妃としての役割が終わった頃に、たった一度でも帰れる機会があることを夢見るくらいは、許されるでしょうか?」
少女のようにあどけない顔で、貴女はそんな“夢”を口にする。
「その時は、またこうして私と一緒にお茶を飲んでくださる?その頃にはもう、貴方も私も、真っ白な髪のおじいさん、おばあさんでしょうけど」
それは夢見がちで、ささやかな……けれど、とても心惹かれる“夢”だった。望みの薄い“夢”と知っていても、それでも胸の奥底で密かに夢見続けたくなるような、そんな“夢”だった。
もしも、いつか本当にそんな機会が来ると言うなら……その時ならば、訊くことを許されるだろうか。今の貴女の、本当の気持ちを……。
古来より、家同士や国同士の結びつきには政略結婚がつきものだった。
口や書面のみでの約束では信用ができないと言わんばかりに、必ずと言って良いほど、そこに血の交わりが求められてきた。
そうやって紡がれてきた歴史の中で、人類はこれまでに、どれほどの数の恋を犠牲にしてきたのだろう。どれほどの人間の、夢や人生や幸福を犠牲にしてきたのだろう。
貴女と出逢って十七年。ずっと貴女だけを見てきた。
果樹温室の果実を育てるように、宝石の玉を磨くように、慎重に、楽しみに、貴女の成長を見守ってきた。
貴女のこれまでの努力も、その心の気高さも、他の誰も知らない涙も、全てこの目で見てきた。
そんな貴女を、苦労が待ち受けていると分かりきっている場所へ、嫁がせたくなどない。
けれど、隣国の脅威に晒され続けるこの国には、彼の国との同盟がどうしても必要だということも、痛いほどに分かっている。きっと貴女もそれを理解し、それゆえに覚悟を決めているのだろう。
私にできるのはもう、貴女の幸福を祈り続けることくらいしかないのだ。
王妃となるにふさわしい洗練された仕草で、貴女は茶に唇をつける。
もはや日常の一部と言って良いほどに見慣れて馴染んだその姿を、明日からは見ることも叶わなくなる。
けれど、これが初めから定められていた、私と貴女の運命なのだ。そもそも貴女にこの縁談がもたらされなければ、私が貴女の教育係として宮殿へ上がることもなかったのだから……。
今日で見納めになるかも知れないその姿を、じっくりと目に灼きつけながら……私は、触れることを許されない貴女の代わりに口づけるように、そっと茶に唇をつけた。
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