夜に盲目

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夜に盲目

 その日、傘を忘れた。不運は帰り際になって雨が降り始めたこと。幸運は、大した雨量ではなかったこと。不幸は、いつものようにまっすぐ家路につく気になれなかったこと。  放課後になってまで同級生といられるタイプの人間じゃなかった。話すことはすぐに尽きるし、彼らも別に僕に大した興味は抱かない。そこにいることを容認こそされ、求められはしない。構うものかと思っているのは、強がりではないと信じたい。校門を出てすぐに第一ボタンを外し、校則ギリギリの前髪に当たる雫に眉を顰めた。多分、もう少し定期テストの点数が低ければ文句の一つもつけられる高校二年生。  人生のスタートダッシュは悪くなかった、と思う。両親は健在、年収は中の上。出来の良い兄が一人。多少の教育熱心さは僕が中学校を卒業するまではプラスに働いた。四肢も揃っているし、持病もない健康体。言うなれば文句のつけようのない環境に置かれて尚、僕は少し歪んでいた。  いつからだろうか、彼らの期待に応えないように努め始めたのは。癪だった。自分の努力が、自分の為ではないような気がして。だからワザと少しずつずらしていた──はずが、いつの間にかナチュラルに『まとも』から外れていた。  じわじわと湧き上がってくる雑念を消すために安物のイヤホンを耳に挿し込む。流行りの曲を聞かないのは、自分で自分につけた無意味なキャラクター性。僕も誰も得しないことなど分かり切っているのに。ただ、普通に埋もれ込むのが嫌で。その思考こそが如何にも凡俗染みていることからは目を逸らした。逸らしたつもりで、すぐに擡げてくるのだけど。  徒歩二十分程度の公立高校に通う十七歳は、考えれば考えるほどに安っぽい。雨に濡れてうろつく自分に少し酔いしれて、煙草の一本もあればもう少し格好もつくかなんて想像を巡らせる。大通りを外れ、帰路を大きく歪めて、薄暗い路地でかましていたその余裕は突如強くなった雨に遮られた。十一月の天水は冷たい。すっからかんのスクールバッグを頭に乗せて、架道橋の下まで駆け込む。暗く湿った空気の醸す特有の臭いが鼻孔を突き、顔を顰めた。  乱暴に引きずり出したタオルを頭に押し当てた拍子、イヤホンが外れる。瞬間、ダイレクトに流れ込んだ雑音の中に、非日常的な旋律が混じったのを聞き逃せなかった。その稚拙な音の羅列が記憶を掘り返し、無意識に歌詞と表題を導き出す。 『あめ あめ ふれ ふれ』  その呑気さに少しばかり腹が立ち、タオル越しに両耳を塞ぐ。生温い音色が、温もりが、苦手だった。そう言えば、幼いころもあまり歌うことは好きではなかった気がする。 『母さんが』  それでも懐う思考回路を止める為にイヤホンを探した手が、焦った。時代遅れの音楽プレイヤーがポケットから転がり落ち、濡れたアスファルトに跳ねる。その行先に目を向ければ、否応なしに見えてしまう人影があった。  壁に背を預け、暗闇に溶け込むように座る耳障りな童謡の発信源。『あめふり』の曲は止み、足の動かない僕を差し置いてそれは立ち上がる。ズボンの裾を引き摺り、汚れたグレーのパーカーの袖が地面を探る。拾い上げるまでにかなりの時間を要したにも関わらず、その間僕は石像の如く固まったまま。  怯えていた、のは間違いない。百五十センチに満たない華奢な体躯を前に、説明し難い本能的な恐怖が僕を包む。自分の指が僅かに震えていることに気付くのは、彼がプレイヤーを差し出した時。ぎこちなく会釈して摘まみ、慎重そうにプレイヤーから細い指が一本ずつ離れていくのを見ていた。纏う空気は決して攻撃的ではない。にも拘わらず僕はまだ、肌が泡立つ感触を捨てられず。  ありがとうございます、の一言が舌の奥に絡みついて息を止める。それは外に出る前に唾液に溶けて消えた。静々と元の場所に戻った彼は、左手に握っていたのだろうハーモニカに口を付ける。平静を取り戻しつつあった僕に合わせるかのように小さい肩が上下に揺れ、一拍ずつ音を紡いでいく。曲はまた、『あめふり』だった。何か言うべきか迷った僕は、結局プレイヤーにイヤホンを纏めてポケットにしまった。耳を塞がないことが、せめてもの礼儀のつもりだった。  彼は何も語ることなく淡々と吹き続けた。たどたどしい音、しかし止まることなく薄闇に反響する。耳の奥で転がる様に弾けながら、雨音とハーモニーを奏でる。決して華麗ではなく、珍しい曲でもないのに、妙に僕の中に響きかける音が僕の苛立ちと緊張を解していく。魔法の様な不可思議さで、心の内が澄んでいく。  いつまでそうしていたかは分からない。雨が弱まったことに気付いた時、僕は彼を置いて歩き出した。イヤホンを挿し、聞きなれた激しい曲をセレクトする。ここは、この薄闇は、悪くなかった。でも違う。ここに長くはいられないと分かっていた。長くいるべきではないと思った。悪くない時間、ただそれは短いからこそ価値があるもので。  バッグを肩に下げ、まだ俯いてハーモニカから口を離さない彼の目の前で立ち止まった。何を言うべきかと迷い、考え、奇妙な照れくささと掴み取れない距離感を持て余してすぐに歩き出す。『ありがとう』なんて似合う人間じゃなかった。その場しのぎの定型句で終わらせるには勿体ない時間だったのだから、と心の内に弁明してみる。どこに置いたか忘れた本心は、きっとそんな風には綴っていないだろうが。  湿った空気と冷ややかな風。今はまだ凍えるほどではないけれど、またすぐに冬が来る。毎年毎年、巷で騒がれる異常気象は今後何年続くのだろうか。それでも、そんな世界でも、何だかんだと生きていくのだろうと誰もが決め込んでいる。明日死ぬことを、明後日死ぬことを、今日の夜には世界が終わることを考えていたらやってられないから。  現実的な現実逃避、と茶化してみてもそれは言葉遊びに過ぎなくて。きっと今日出された英語の課題を解いているころには、自分もこんな思索を忘れている。それでいい。適度に色んなものから目を逸らすことだって、必要なスキルなのだ。きっと。多分。恐らく。そう信じなければ、やっていけないのだろうと笑う自分がいる。仕方ないと割り切る自分もいる。大丈夫。僕はその辺にいるような凡人だから。時々にこんなことを思いついたとして、すぐに忘れられる──。  覚えておかないといけないことが他に沢山あるのだ。英単語。公式。地形の名称。かつての偉人や暴君たち。少なくとも、この先数年間は詰め込んでおく必要のある知識が沢山。それらに本質的な意味を感じないのは、僕が若く愚かな所為だろうか。ただ、多くの大人がそう言うのだから間違いないと、納得させることで余計な思考を廃棄する。課せられていると表せばきっと叱られる。  僕は、それで納得できる人間ではない。しかし同時に強い反発を示せる人間でもない。中途半端に沸き起こる反抗心を臆病さで覆い隠して、至って『普通』であることを主張する。その実、自分がズレているような気はしているが、それもまた僕の自信過剰なのかもしれない。この程度の葛藤は誰もが軽々と飛び越えていけるものだとすれば、有り体に言って僕は欠陥品なのだろう。  欠陥品、だとしてそれは仕方ない。穴が開いたことに気付かなければ、靴下は履いていられるのだから。陳腐でシュールな比喩を数秒間自画自賛して、気づけば近づいていた我が家へと足を速める。無駄と言い切りたくはなくとも、時間をロスしたことは否めない。自分の時間に大した価値など感じないけれど、周りは皆今を大切にしろと言う。言うのだから、きっと、きっとそうなのだろう。信じておけばいい。そうしていれば、いつか後悔した日に傷つけたくなる他人ができるはずだから。自分を殴り続ける日々よりは、そちらの方が想像するに少しばかりマシだった。  イヤホンを外し、風の音を聞いた。聞こえるはずのない幼稚なハーモニカの音が聞こえた気がして、ふっと首が曲がる。もちろん背中に伸びる道には誰もいない。頭一つ分小さいあの少年は、今どこで何をしているのだろう。玄関のドアを開けるまでの数秒間、僕はその無意味な想像を膨らませていた。  また、日常に戻る。髪の薄い教師のねちっこい視線から逃れる為に、もとい自分の将来の為に課題をこなしていく。誰かに臭いと言われない為に風呂に入る。明日も普通の人間として歩く為に食事を摂る。それらは、僕の遠くの誰かからしたら酷く贅沢だとよく知っている。知っている、だけだけれど。  幸運なはずなのだ。食事があり、清潔な水があり、学業に専念でき、柔らかい布団の上で眠れることは。ここじゃないどこかには、それらの一つも持たない人がいることを僕は存じ上げている。そんな彼らが『幸せ』になれるように御高尚な活動をしている人がいることを、知っている。僕らは頻繁に言われた、境遇に感謝しろと。世の中にはもっと大変な人がいると。だから僕らは自分が恵まれていることなど承知の上、のはずなのに。  それでも僕は、自分が幸福だと言えない。こういうところが、僕が欠陥品たる所以なのかもしれない。 ※  校門付近で教師に呼び止められる。いつの間にか外れていた第一ボタンを掛けなおし、十秒程度の小言に目を合わせない。ワザとではなかった。ただ偶然外れていて、偶然面倒な相手に見つかった。ついていないと言えばそれまでの話。それでも、少しばかり精彩を欠いた小テストの解答も相まって僕を重くさせる。  気にしないことが正解、そう繰り返す度に脳裏に蘇るつまらないミス。そして、イヤホンの左耳からは音が聞こえなかった。二千五百円程度の代物に贅沢は言えない。しかし、気になる物は気になる。両側から流れ込むはずの音楽から重みが失われ、体が浮く様に落ち着かない。嫌なことは重なる。精一杯、苦さ溢れても構わないから笑おうとして、笑えない。  真っすぐ、できるだけ早く帰るべきだと思っていた。大学受験、という関門から目を逸らせる時期は終わりが近い。あなたの将来の為に、あなたの幸福の為に、あなたの生活の為に、色々な言葉が僕を納得させようと迫り、どれもが体の中心に沁み込むことなく風に溶けていく。昨日よりも少し寒くなった路に、自分の足音が煩い。  どこにも行きたくなどなかった。現実が見えてしまう。この足で逃げ出そうには広すぎて、安息地を見出すには狭すぎる世界。それもまた、僕が出来損ないであることの裏付けか。何故か、誰もが自然とこの背景の上に立っているのだから。  道の真ん中で立ち止まることは不自然だと知っていた。誤った道から引き返す時ですら僅かに人の眼を気にしてしまう僕は、目的地が定まらずともどこかへ向かっているフリをせずにはいられない。近寄り過ぎず離れ過ぎず、歩いている皆の中で浮かないように。それは詰まらない、と言える人間がいる。そんなに意識しなくても、と言える人間がいる。僕は、彼らとは違う。酷く損な話だけれど、そうなれないのだから。  幾つかの道を曲がり、人の眼を避けるように進む。進んで、いるのだろうか? ゴール無き迷路、ハムスターの滑車、足踏みするだけのルームランナー、幾つもの例えが浮かんで消える。不意に足が止まり、息を弾ませていたことに気付いた。急ぎ足になっていたつもりはなかったのに。見上げた目の前を、轟音を立てて列車が過ぎる。もしあの真下に体を投げ入れることでもできれば、僕はゴールに辿り着けるかもしれない。その想像から顔を背けた先は、つい昨日潜り込んだ架道橋だった。  急激に遠のいた息遣いの代わりに流れ込んでくる音は、稚拙なハーモニカ。薄闇の真ん中あたり、昨日と同じ姿勢で壁に寄りかかっていたのはあの少年だった。小さい体から零れ落ちてくる音階は、否応なしにノスタルジーを誘う『夕焼け小焼け』 『ゆうやけこやけで ひがくれて』 『おててつないで みなかえろ』  口ずさみかけ、大仰な咳で誤魔化した。歌うことなど好きじゃないはずなのに。まして子供じみた童謡など。小刻みに震える唇を噛み、周りに人影がないことを確認する。そして、その行為こそが自分が嫌う自分の最たる所だと確信した。  日陰に溶け込んでいくように、一歩ずつ少年に近づく。流れ続けている童謡が僕の足を重くさせる。ようやくその正面に立った時、彼はハーモニカから口を離した。お互い、言葉は出ない。唾を飲み込み、文面を頭の中で作り上げようとする度に自分の中の何かがそれを否定する。違う、と。 「昨日の、人?」  予想よりも少し大人びた声が、静かに響く。 「そう……です」  返した言葉はぎこちなく、取って付けたような丁寧語に酷く違和感があった。 「変わった人だね」  そっくりそのまま返したくなるような人物評は、しかし素直に胸に落ちていく。それは僕の中の欠けたパーツだったかのように、するりと心の内を繕った。言葉を考えているうちに、彼はまたハーモニカを咥える。気の抜けたような、優しい音がゆっくりと流れ始める。『赤とんぼ』と気づくのに時間はかからなかった。今までに聞いた二曲に比べれば少し滑らかに奏でられるメロディーは、言葉を探すことに手間取っていた僕の口を塞がせた。  その単純な節を何度か繰り返し、彼は大きく息を吐く。途端に訪れた静けさが耳に痛い。何時の間にか随分と傾いていた太陽が、僕を焦らせる。少年は止まっていた。息をしているのかどうかも分からないほどに、固まっていた。 「あの」  静寂に耐えきれなくなり、飛び出した感動詞はもう戻せない。ゆらりと持ち上げられた顔を見下ろす形になったが、その眼は伸び散らかった前髪に隠され覗き込めない。 「まだ、いたんだ」  微かな驚きと喜びを孕んだトーンで、少年は囁く。 「帰ったと思った、あんまり音がしないから」  拒絶されていない、気がするのは僕の願望か。 「でも、もう暗くなるよ。また明日」  また、明日。幼い日に何度となく言った、フレーズ。気軽にそれを言える相手を見失ったのは、一体いつだろう。いつから、僕はこうなったろう。 「……また」  明日、が口の外に出ないまま僕はふらふらと歩き出す。背中を押すように、ぎこちない『夕焼け小焼け』が鳴る。 『からすといっしょに かえりましょう』  とうに聞こえない距離に届いて尚、僕の耳から離れないハーモニカの音調。  名前も、年齢も、住所も、僕は彼の何も知らない。聞けなかった。恐ろしかった。何もかもを見透かされているような。僕の中にある、全てを。汚さ、弱さ、愚かさ、傲慢さ、数え上げれば切りがない嫌悪の対象。誰の所為にも出来ない僕の欠陥。  一見して何も持っていない少年は、しかし汚れたハーモニカ一つで僕を揺るがした。家も学生服も教科書も持っている僕は、一体何ができた? 何もできやしない。それは、それは絶望染みた棘となり僕を貫く。お前は、お前は何なのだと。何もできないお前は、その呼吸は、許されるのかと。死ぬことも想像しかできない臆病者が。  分かったような口をきいて、要領良いつもりでそれなりにこなして、その実僕に何があるかと問われれば、何もない。無いのだ。手のひらは人並みに大きくなれど、何一つ掴んでいない。生きている、ただそれだけの健康体など。こうして自分を責めていることさえ、ある種の防衛本能に従っているだけのファッションで。  徐々に早まっていく足が、遂に走り出す。おかしくなりそうだった。いや、疾うにおかしくなっていたのかもしれない。それとも、おかしいことが僕にとっての正常だったのか。分かりたくなかった。自分がただの凡人であると認めたくないから、凡人未満であることを知りたくないから。僕は僕の中で奇妙に言葉を弄繰り回して玩んで、『皆』よりも優れていると思い込もうと。  それが、その目を逸らす為の必死の努力が、ちっぽけなフレーズに塗り潰されて掻き消された。稚拙なハーモニカの調べに、絞め殺された。弾む息が、足音が、滲みだす汗が、しつこく弁明しようとする思考が、自分から発信される全てに、絶対的な憎悪を抱く。唾棄すべき僕が、僕から離れない。僕を追いかけて逃がさない。怺えられない嫌厭を自覚して僕は、憎んだ。自分と、こんな悪夢を呼び起こした彼を憎んだ。  心得ているつもりだった。自分が大した人間ではないこと。素直でないこと。善人でないこと。価値が高くないこと。そして、予防線を張って必死に脆い自分を守ろうとしていたこと。されど、他人の無意識に突き付けられた真実は痛い。なまくらな知性と曖昧に健全な肉体、それを持ち合わせても生きる価値のない人間。誰かの為に、生きられない人間。認めることで前に進めるとしても、僕にもう前などない。  夢だと思いたい。あの少年の存在も、昨日今日の体験も、あの音色も、可能なことなら僕の存在そのものまで。必死に辿り着いた自室のドアを乱暴に閉めて、床に倒れ込む。無くなれ、と念じた。僕よ無くなれと。死ね、消えろ、無かったことになれ。こんな醜い姿を、魂を、残すことなく消え去ってしまえば。できないことは知っていた。明日が来ることも知っていた。きっと、その後も続くのだろう。唐突に訪れるこの生の終わりまで、僕は生きることに呪われ続ける。 ※  朝は当然のように来て、僕は学生服に袖を通す。第一ボタンを慎重に留めれば、締められる感触が酷く強かった。音を立てて降る雨に、怯えるように傘を差す。どこへ行くかは決まっていた。目的地を漸く見つけた、喜びの欠片も覚えられないけれど。重い足を必死に運ぶ。雫を跳ねさせ、肩を濡らして、僕は吐き気さえ感じさせる音に辿り着く。 「来たんだ」  優しささえ感じる声が、僕を迎える。 「名前、教えろよ」  自分でも信じられないほどに乱暴に、僕は告げる。分かっている、これは恐怖の裏返しだ。僕はこの、痩せ細った何も持たない少年に酷く怯えている。僕自身の弱さを突きつけられることが、怖くて堪らないまま命令している。 「ヨル」  その名は、雨音に掻き消されない強さを孕んでいた。 「本名とかは分からないけど。僕はヨル」  怖気づいていた。彼が、自分と同じたった一人の人間であることが一秒ごとにリアリティを増して僕を詰る。同じ種、同じ性別、近い年齢、そして何も持たないまま生きてきた彼。物にも環境にもそれなり以上に恵まれてきた自分。その差は、歴然としていた。もちろん、僕にとって最悪な意味で。  まともな名前さえ持たない少年に、僕は、どうしようもなく劣っている。 「気づいたらこうして生きていて、この目は見えなくて、ハーモニカを握ってた」  要領を得ない説明、訳の分からなさが加速して、僕の憤りを大きくしていく。息を荒げ、その音が自分自身の神経を逆撫でする。僕は、僕を赦すまい。他の誰が僕の存在を認め許し、愛を込めて頭を撫でようと、僕は僕の喉笛を食い千切らずにはいられない。 「君は?」  踏み込んだ問いに言葉を切れず、座り込んでいた彼の襟首を掴んで引き上げる。軽かった。人間一人とは思えないその軽さに、僕の体が泳ぐ。立たせてみれば大したことは無い、頭一つ分小さなその体つき。それでも、僕は怯えていた。 「なんで、こんなモノ吹いてるんだよ」  細い指先から乱暴に奪い取ったハーモニカを握り締めて、僕は語気を強める。でもきっと、その語尾は震えているだろう。 「持ってたのは、それだけだから」  少しの怯みもなく、淡々と答えるヨル。その堂々たる姿勢が、僕を更に苛立たせる。冷たいコンクリートの壁に、彼の体を乱暴に押し付ける。僅かに漏れた呻き声が、どうしようもなく快感だった。  そうだ、彼は持っている。何故か僕の心に響く音を出せる、持っている人間だ。僕は何も持っていない。だけど人並みに健常なこの肉体は、盲目で栄養失調の少年を痛めつけるには十分なのだ。  繊維が千切れ始める音を境に、僕はパーカーの襟から彼の細い首へと手の位置をずらす。確かな熱が指に伝わり、壁に押し付けながらゆっくりと絞めていく。声にならない音を漏らしながら、ヨルの手が僕を押し退けようと必死にあがくのが堪らなく気持ちよかった。左手に持ったハーモニカを投げ捨て、両手でじわじわと痩せた躰を押し潰していく。 「やめ……」  これまで変わらなかった彼の表情が大きく変わったその時、両手の指から一瞬で力を抜く。その場に崩れ落ち、中身のない嘔吐を繰り返す彼を僕はただ見ていた。 「お前が悪いんだよ」  僕を、傷つけるから。 「お前が、変な音を立てなければ」  僕を、気づかせるから。 「あの日、雨さえ降らなければ」  僕はずっと盲目でいられたのに。 ──お前が 「僕はね」  二人の頭の上を、電車が通過する。 「気に入ってくれたかと思ったんだ」  聞こえるはずのない、か細い声。それが確かに聞こえた。喘鳴の間から、頭上の轟音に掻き消されることもなく、僕の耳に届いた。聞きたくなどなかったのに。 「ずっと流れていく足音ばかり聞いていた。だから、あの日君の音が止んだ時、きっともうとっくに帰ったと思ってた」  帰ればよかった。こんな湿気た場所で童謡なんて聞かずに、多少濡れながらでも走っていれば。何故、に答える人は誰もいない。二人だけの世界で、僕は自分も分からず立ち尽くす。どうしたい、どうすべき、どうにもならない。聞くな、彼は持っている人間なのだから。僕に彼の言葉は理解できない。してはならない。空っぽの僕に、それは劇毒。 「だけど、君はいた」 「ああ、いなけりゃよかったよ」  噛みつく様に、重ねて吐き捨てる。手のひらに食い込んだ自分の爪が刺々しい。 「そう『させた』のはお前だ」  だけど、そう『した』のは僕だ。自分自身が、ゼロ秒で説く正論。誰の所為にも出来ないことなど、知っている。自分の体は自分で動かしている。僕は僕の意志と本能で息をする。本質的にどれだけ否定されようと。少なくとも、死に方は知っているのだから。理由を他人に押し付けようと必死になりながら、僕は気づいている。  蹲った目の前の少年は、無力だ。その眼に光なく、へし折れそうに細い腕を力なく垂れ下げて壁に凭れて。僕は彼を殺せる。僕は僕を殺せる。僕は誰も殺さないでもいられる。今この刹那、選択は僕次第で。 「だったら、最悪の偶然だったんだ」  そう言って、彼は笑った。力なく、力強く、不気味に、爽やかに。 「君は殺したい相手ができて、僕は殺しに来る相手ができた」  口を塞ぎ、縊ればいいものを。僕の手は動かない。せめてもの『普通』だったはずの肉体が、意識の管轄から逃れていくような錯覚が僕を脅かす。 「僕は死にたくなんかないし君は殺したくなんてないのに、ね」  ヨルはふらりと立ち上がり、僕の胸に拳を当てる。走る微かな衝撃は、痛みに遠く及ばない。あやすか、励ますかのように、僕の屈辱を煽った。今すぐにこの小さな顔を苦悶と絶望に塗り潰すことができれば、どれほど救われることか。そしてどれだけ後悔することか。選択肢を天秤にかけて、僕は所詮僕でしかない、という現実に程なくして辿り着く。  精々、普通を装う程度しかない人間なのだから。 「ハーモニカ、取ってくれる?」  黙って半歩下がり、投げ捨てた手のひらサイズの楽器を拾い上げる。金属製の冷たさが、掌中に籠っていた熱を否応なしに自覚させて煩い。そのまま地面に叩きつけたい衝動を荒い息と一緒に吐き出し、警戒もなく差し出された手に乗せる。 「何かある、聞きたいのとか」  数分前に自分を殺しかけた人間に対するには平淡過ぎる問いかけに、面食らった。 「難しいのは無理だけどね。僕は天才じゃないから」  迷った。いつもいつもイヤホンを耳に挿しておいて、実のところ何も聞いていない僕。曲など知らない。聞きたい音楽を知らない。彼に伝えられるタイトルを持ち合わせていない。ただじっと待つその顔の表情は読めず、細い指が手慰みにハーモニカを弄ぶ。僕が決めるのを待っている。僕が、救いようのない他人頼みで僕の想いを伝えることを受け入れようと、立っている。  だから嫌いだった。それが当然かのように『持っている者』は振舞う。事実彼らにとっては当然なのだけど、僕にとっては異次元じみた行為を何の気なしにやってしまう。理解できない、認められない、分かれない。分からない僕を認めたくないから。目の前の少年だけではない。自然体で人と話せる者、『好き』の感情だけで一心不乱に進んでいく者、必死の努力が報われなかった日にまた前を向ける者、どこにでもいるようで僕ではない誰かたち。  そんな他人を見て時々笑っていたら、いつの間にか自分だけが何もなかった。 「……一番、ヘタクソな曲を」  そんなリクエストは、黙ったまま彼に受け入れられた。口付けられたハーモニカから、ばらばらに音が落ちる。時に割れて、時に上ずり、とぎれとぎれに奏でられているのは『ねこふんじゃった』  確かに、酷い。知っている限りのその歌詞も、そして彼の演奏も、まともな感性の持ち主ならきっと顔を背ける。だけれど、その音は紛れもなく彼のもの。僕がきっと求めてやまない、唯一価値のあるもの。結局、どうもがいたって僕には否定できないのだ。 「これでいい?」 「ああ、聞くに堪えなかった」  冷ややかなアスファルトに、腰を下ろす。聞くに堪えない散々なパフォーマンスでも、それは確かに音楽だった。この世界に二つとない、彼の奏でた曲だった。 「ありがとう」  この謝礼に、値打はない。僕から発せられた精々五文字の日本語に、意味は備われど価値はない。  コンクリートの天井を拝み、大きく息を吐いて仰向けに寝そべった。学生服が汚れることを思いついて、どうでもいいかと音にならない言葉を漏らす。この路も、この服も、誰かが生きる為に作り上げた物。僕ではない誰かが。きっと、生きている意味のある誰かたちが。  多分、程々に見せかけていた僕だから。誰かが慰めてくれることもあるだろう。お前は疲れてるだけと、周りだってそんなに立派な奴ばかりじゃないと、君にもちゃんと価値はあると、貴方がいなくなれば悲しいと、言ってくれる人がいたかもしれない。今でも、もしかしたらいるのかもしれない。だけどそれはもう、僕にとってはあまり意味がない。言ってくれればいいのだ。もしそれで励ましている自分を好きになれるなら、僕を使ってくれて構わない。そんな言葉を語れるあなたは優しい人だと評することも、僕は差し支えない。そしてこんな風にしか他人を見られない僕を詰り蔑んでくれるのもいい。  ただ、僕は救われない。理由は一つ、今ここで救われたらもう誰も救ってくれないことを知っているから。僕は墜ちて行く。家庭、学歴、才能、友人、恩師、僕を正常な人間として形作っていた要素を剥がし、果てない自虐にのめり込んでいく。嫌だった。お前は恵まれているんだ、と真実を突きつけられることが。それは僕から弁明を奪う。他人の所為にしてはいけない、という焼き付けられた正義が僕の喉を絞め続けていた。楽なのだ。誰にも期待されず、誰にも望まれず、誰にも求められず、誰にも認められず、自分で自分を傷つけ続けるだけの生は。少なくとも擦れ違い様に切り裂かれる恐怖を忘れられる程度には。 「なぁ、ありがとう……」  彼からの反応はない。僕が伝えられることも無い。脈動する己が首筋に、指を這わせた。ゆっくりと、じっくりと、呼吸を奪う。もっと早く気づいていれば。折れた首を折ろうとする人はいないのだから。  目を閉じれば、安堵が全身に回っていく。これでよかった。よかったのだ、ろう。
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