愛しいひと

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愛しいひと

 私はしがないサラリーマン。佐々木浩介です。今年で定年退職を迎えます。  今は妻の秋江と二人暮らしです。  娘はとっくの昔に嫁ぎ、時々孫の顔を覗かせにやってきます。それが最近楽しみで仕方ありません。  退職したら妻とのんびり暮らそうと考えています。妻は昔、ミスコンで優勝する程のべっぴんさんで、私はそんな彼女のハートを射止め、今に至りました。  私もそこそこの顔で、互いに「秋さん」「浩ちゃん」とあだ名で呼び合っていたものですから、周囲からは【美人バカップル】なんて呼ばれていました。  あの頃は全てが輝いて見えました。勉強が難しくても、先生に叱られても、仕事で失敗しても、上司に怒鳴られても、色々なことに躓いても、隣には、いつも秋さんがいたからです……。  秋さんが私を支えてくれたから、今の私がいます。  秋さんには、とても感謝しています。  --数ヶ月後。  とうとう私は、退職しました。重い荷を下ろしたような、スッキリとした気分です。  私はその清々しい気持ちで、愛しい妻が待つ我が家へ足を運びました。 「ただいま」  いつも玄関で迎えてくれる出来た妻。しかし今日は玄関にいませんでした。  珍しいな……夕飯を作っていて気付かないのだろうか?  靴を脱ぎ、いつものようにリビングへと繋がる通路を歩いて行きました。 「秋さん、帰ったよ」  扉を開いてリビングへ。視線をキッチンに向けてもいません。  ふと視線を落とした、ら……。 「秋さんッ!?」  倒れていた妻を発見したのです。  一瞬、私の思考回路は停止した気がしました。それだけの衝撃で、信じられない光景でした。  それから短い時が経ち、妻は緊急搬送されました。  ここから、私と秋さんの第二の人生が始まりました……。 「貴方の奥様は、脳梗塞です」  そう……告げられました。頭の中が真っ白になりました。  駆けつけた娘は泣き崩れ、そんな娘を慰めることさえ出来ませんでした。  自分の意識を保つことが精一杯で。  幸い、妻は生きていました。  ですが………意識が戻りません。 「……このまま、息を引き取る可能性があります……。覚悟をしておいて下さい……」  医師の言葉は私の心を深く突き刺しました。細く長い針を何本も刺し貫くような……そんな痛みが、私を苦しめました……。  何日も、何週間も、何ヶ月も。  ああ……秋さん、貴女はいつ目覚めてくれますか……?  あの笑顔を……私に向けてはくれませんか……?  早く--……。 「……早く……っ、あ゛なたの声が、聞きだいっ……!」  ベッドに横たわる妻。その力なき手をぎゅっと握りしめました。  冷たい手。昔はあんなに温かかったのに、いつの間にか知らぬ間に、こんなに冷たくなっていたなんて。  妻の手を握ったのは何年振りでしょうか。思い返しても思い出せない位、長い月日が経っていました。  妻を愛している。そう心の中で思っているだけで、表現をすることは少なくなっていたことに、今気が付きました。  分かる時に、気持ちを表現していれば良かった。  恥ずかしがらず、面倒臭がらず、もっともっと、愛情を注いでいれば良かった。  どんなに握る手に力を込めても、握り返してくれることはありませんでした。  もう、手遅れなのでしょうか……?  妻の手を握り、私は久方振りの涙を流しました。  月日が過ぎていくのは遅いですね。昔は人生が楽しくて、時間が早く感じられて、一日がもっと長ければいいのにと思ったことがあります。ですが今は、もっと時が早く流れればいいと思うようになりました。楽しいと思うことが少なくなったからでしょうか。  これが、年を取る、ということなのでしょう。  秋さんのいない日々は楽しくありません。そんな日々が半年続きました。  貴女が生きている時は、貴女と一緒に孫の顔を見ることが私の楽しみでした。  貴女がいなくなり、私の楽しみはなくなってしまいました。  貴女がいない世の中で、私はどう生きたらいいのですか?  貴女は《いる》のに《いない》。  この遺憾、空虚を……どうしたら埋められますか……? 「秋さんっ……起きて、ぐだざいっ……!」  涙腺はすっかり弱まり、最近泣くことが増えました。  これも、秋さん……貴女の影響ですよ。  貴女に依存して生きてきた私。貴女がいないと、私は駄目なんです。  秋さん……、また……貴女と話がしたいです!  ぴく……。 「……っ!」  今微かに動いたような……? 「秋さん! 秋さん!」  ………ぴくっ。 「……う、動いた……!」  手の震えが止まりません。言い表せない嬉しさが込み上げ、只、妻の手を握るばかりでした。 「秋さん、聞こえますか!?」 「………」 「私です! 浩介です!」  ………ぴくっ。  また動いた! 「佐々木さん、どうかしましたか?」  廊下から看護師さんの声が聞こえ、私は涙で崩れた顔を上げました。 「つ、妻がっ……!」  足りない言葉でも、看護師さんはしっかり読み取って下さりました。  医師を呼んで頂き、診察を終え、私は帰宅しました。  秋さん、元気になって下さい。そう想いながら……。  プルルルル……。  まだ朝早い時間帯に、我が家の電話が鳴り出しました。 「はい、佐々木です」  その電話は、妻が入院している病院からでした。  もしかしたら--。  私の中で淡い期待が芽生えました。看護師さんが話し出すまでの時間が異様に長く感じたのです。その間、私の期待は膨らむばかりで、急かす様に看護師さんに聞いていました。 「あの、何のご用でしょうか?」  看護師さんは《朝早くから……》と申し訳なさそうに短く謝り、単刀直入にこう言いました。 「奥様の意識が戻られましたよ」  その言葉は、私が待ち望んでいた言葉でした。私は電話越しに何度も頭を下げ、御礼を言いました。  しかし、看護師さんの語調が妙に静かなのは気のせいでしょうか?  看護師さんは続けて言いました。妻は意識が混濁している、詳しくは医師せんせいから説明を受けて欲しい、という内容でした。  電話を切り、すぐに出掛ける用意を始めました。  病院に着き、真っ先に妻のいる病室に駆け込みました。 「秋さん!」 「?」  目の前の光景はずっと望んでいた光景。妻が、秋さんが起き上がっている。私は嬉しくて、秋さんに駆け寄り、抱きしめました。 「あ゛ーッああっ!」 「あ、秋さん……?」  奇声。 「あああ゛ーッ!」  秋さんは奇声を上げて私を拒みました。 「秋さん……?」  混乱しています。私を突き飛ばした人は、確かに妻。目の前で暴れているのは、確かに秋さん。思い通りにならないから駄々をこねる、まるで幼児のよう。  私は逃げるようにして病室から飛び出しました。廊下を走り、後から来た医師せんせいに問いました。妻に何が起こったのか、と。  医師は意を決したような顔をしていました。「場所を移しましょう」と提案され、閑散とした診察室へ案内されました。  ゆっくりと椅子に腰を下ろし、医師の言葉を待ちます。その場は妙に静かで、大きな病院である筈なのに誰もいないような、そんな感覚に陥りました。  医師は深呼吸をして、話し出しました。 「佐々木さん、奥様の病気は先日、脳梗塞とお伝えしましたね。奥様はこの数ヶ月の間に、症状が悪化してしまいました」 「……悪化とは……ど、どうなったんですかっ!?」 「……右半身が……麻痺、しています……」 「麻痺……」  では…秋さんの右手は、右足は、もう……動かないと……? 「う、動くようになりますよねっ!?」  私は良い答えが返ってくると信じていました。しかしその期待は儚く崩れました。 「……残念ながら」  そう言って医師は首を横に振りました。そして、続けて更に深刻なことを話し出しました。 「奥様は言葉を上手く発していませんでしたね。あの症状は--」  医師の話は晦渋でした。私には難しい単語で説明されても分かりません。 「----」 「え……」  何を……言っているんですか……?  私でも理解出来るよう、簡潔に説明して下さいました。しかし信じたくない現実でした。 「奥様の左脳……つまり、左側の脳が……ありません」 「な、無い、とは……どういうこと、ですか……」 「そのままの意味です」  本当に、秋さんの脳が……片側の脳が……無い……?  医師は左側の脳が無くなることによって起こる症状を簡単に説明して下さりました。左側の脳は、【言葉を作る働き】をするようです。無くなると、というより、脳梗塞の症状は、上手く言葉を話せなくなるそうです。又、秩序が欠け、自分のことが分からなくなり、おかしな反応や行動をするとも聞きました。他にも色々な症状の可能性を聞きました。  ただもう、何もかもが絶望的で、忘れたくなり、頭に情報が入ってきません。  医師の話を聞いた後、再び秋さんのいる病室へ足を運びました。  廊下から見れば、ベッドに横たわるのは、私が知っている秋さんの姿。しかし病室に入ると、私に気付いた《その人》は嫌悪の顔で奇声を上げました。  私は……怖くなりました。  私の妻。優しく私を支えてくれた、愛しい秋さん。  病気は、私の大事な人を連れていってしまった。  私の目の前にいる、秋さんの姿をした《この人》は誰ですか?  このままでは私までおかしくなりそうで、看護師さんに任せて帰宅しました。  ヒドく疲れたのか、私は高熱で寝込んでしまいました。  その間は娘夫婦が看病に来て、そして《あの人》の見舞いに行っています。  娘は……喜んでいました。 「お母さんが目を覚ましてくれたっ……!」  そう言って泣いて喜びました。  私とは全く違う反応を示したんです。  どんなことがあっても、どんな姿になっても、お母さんはお母さんだと娘は言いました。  その後、孫を抱かせてもらいました。  孫はニッコリと私に微笑みかけてくれました。  その笑顔は輝いていて、眩しくて、寂しくて、私は涙を流しました。 「秋さ、ん……っ! また、いっ……しょにっ……」  また一緒に暮らしたいです……!   また一緒に孫の顔を見たいです……!  嗚咽を漏らし、途切れ途切れに言葉を紡ぎます。  私の震える肩に、優しい手が置かれました。その手は娘の夫、義息子の手でした。 「お義父さん……。熱が下がりましたら、一緒に行きましょう。お義母さんがいる病院へ」  義息子の手の上に、娘の手が重なりました。 「私達家族は、ずっと一緒よ」  温かな言葉。私は温かさに満たされ、大きく、ゆっくりと頷きました。  ふと視線を落とすと、安らかな、幸せそうな顔をした孫が、私の腕の中で眠っていました。  熱が下がり、私は娘夫婦と一緒に秋さんがいる病院へ向かいました。病室へ入ると、既に秋さんは起きていました。 「お母さん、お父さんがお見舞いに来たよ」 「………」  首を傾げる秋さん。この前とは違い、神妙な態度でした。 「……秋さん……」  ゆっくり、ゆっくりと歩み寄って行きました。 「秋さん………浩介です。貴女の夫の……」 「………」 「《浩ちゃん》です」 「っ!」  反応がありました。  私の服の裾を左手で掴みました。そして-- 「あっあー……」  気のせいだったかもしれません。ほんの少しだけ、秋さんが笑ったような気がしました。  あれから娘夫婦の付き添いなく、秋さんの見舞いに来るようになりました。 「あー……」  いつもこんな風にしか話すことが出来ませんが、分かったことがあります。  それは、意味なく声を出しているわけではないということ。 「あー……」  これは安心している時の声。 「あっあー」  これは何かを欲しがっている時の声。  人は関わっていくことで、色々なことが分かってきます。恐れていては、先には進めないんですね。  --月日は流れ、3年後。  私は元気に暮らしています。変わったことと言えば、娘夫婦と一緒に暮らすことになりました。娘も義息子も良い暮らしをさせてくれます。  孫は成長し、私のことを《じぃじ》と呼んで、膝の上で絵本を読み聞かせてくれます。  みんな、私を大事にしてくれます。  私もそうです。私も、家族みんなを大事にしています。  そう……、秋さんも。  毎日病院へ見舞いに行って、秋さんの好きな果物や本を持っていったり、一緒に歌ったり、テレビを観たり、思い出の詰まったアルバムを広げたりしました。  私は泣き虫で、家族に気付かれないように時々泣いていましたが、もう心配ありません。  私の側には大事な家族が、生涯愛する妻がいる。だから、孤独じゃありません。  また泣いてしまう日が来るでしょう。その時は、一緒に泣いてほしい。  家族の誰かが悲しくなったら、その時は一緒に泣きたい。悲しさを分かち合いたい。  それが、家族というものではないでしょうか?  END
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