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第1話 牢の隣に
物心ついたときにはすでに男は牢にいた。
硬い床、冷たい石壁。近い天井、黒い檻。
それらで構成された牢の檻の中、男はひとり過ごしていた。
牢には男が入っているのとは別にもうひとつ檻があった。
その檻の中にも囚人が入っている。
男はその檻の中を見たことはない。
隣り合う檻同士は限界まで前面に出ても、中が見えないよう厚い壁で区切られていた。
隣の囚人は男に息遣いすら漏らすことはなかった。
時たま男は隣の檻に声をかけてみたが、やはり返事はなかった。
没交渉。
それでも男が隣に囚人がいることを確信できるのは、徒花がいたからだ。
徒花は数日に一度、牢を訪ねてきた女だった。
朝昼夜、男に食事を運んでくる獄卒とはまったく異なるかっこうをした、殺風景な牢には似つかわしくないあでやかな女だった。
徒花が何者だったのか、男は知らない。
隣の囚人が何者か知らないように。
それでも徒花が隣の囚人を訪ねてきているのは知っている。
徒花が隣の囚人を訪ねるついでに男とも話をしていくからだ。
徒花が隣の囚人を訪ねるときも、隣の囚人は無言を貫いている。
徒花曰く、大昔に隣の囚人は正気を失ったのだと言う。
何故失ったのかは男は知らない。
正気を失った囚人に、なぜ徒花が会いに来るのかも知らない。
ただいつの頃からか、徒花は隣の囚人に割くよりも多くの時間を、男に割くようになった。
徒花は時間を割いて、男にたくさんの話をした。
男が目にすることのできない外の世界について、徒花は多くのことを男に話してくれた。
ときに徒花は本を差し入れて、男に読み書きを教えてくれた。
徒花と話をするたびに、男は外の世界の鮮明さに心躍らせ、それと同時に自分の知らない世界の広がりに恐怖した。
徒花はいろいろなことを教えてくれた。
男はこの世のすべてを徒花から教えてもらったようなものだった。
しかし男は自分についてなにも知らなかった。名前さえも分からなかった。
昔の王様についてはまるでその場にいたかのような鮮明さで語ってくれるというのに、男のことも隣の囚人のことも徒花自身のことも、彼女は何一つ深く教えてくれようとはしなかった。
自分は何者なのか。
徒花に問うて拒絶されることが怖くて、尋ねられなかったことを、獄卒に尋ねたことがあった。
何人かの獄卒と徒花、そして隣の牢の囚人。
それだけが男の接触できる他人だった。
選ぶ獄卒は誰でもよかった。
徒花と違い、いつでも冷え冷えとした感情をこちらに向けてくる獄卒は誰を選ぼうと同じことだった。
男が問いかけをしたとき、獄卒の顔に初めて感情が走った。
怯えと苦渋の混じった顔だった。
「お前が何者か、それは抹消された」
短く言って、獄卒は食事の盆を男に差し出した。
男が食事を終える頃、獄卒は戻ってきた。
「俺にはとうてい答えることができない。徒花が教えないということは、教えられないことなのだと、覚えておけ」
そういって獄卒は男が空にした器を回収していった。
男が二度と誰かにそれを問うことはなかった。
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