第1話 牢の隣に

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 その日は突然訪れた。  いつものように男が朝食をとっていると、徒花の来訪を知らせる鐘の音が牢に響いた。  徒花の来訪は男の唯一の楽しみだったので掻き込むように朝食を食べ終えた。  牢の入り口は男の檻より高い場所にありいつも徒花はそこから階段を下りてこちらへとやってきた。  その日も入り口が金属のこすれ軋む音を立てながら開いた。  牢の中に風が吹き込み、空気を少しきれいにする。  牢へと入ってきた徒花は男と視線を合わせた。  しかし徒花がそこから階段を下りてくることはなかった。  徒花はその場で崩れ落ちた。  何事かと男は戸惑い檻の鉄棒に手をかけた。  次の瞬間、大きな音が耳を襲った。  戸が軋む音とは比較にならない音に男は檻から手を離し、耳をふさぐ。  その程度では音を遮断することはできなかった。  続いて足の下から脳天までを突き上げるような衝撃が降りかかり、男は体の均衡を失い倒れた。  地面がうごめき、天井が落ちてきた。  牢が壊れる。  男に向かって牢のすべてがのしかかってきた。  男が気付いたときには世界が一変していた。  男を囲っていたすべてが消え失せた。  横を見れば、瓦礫の山。  下を見れば、平らなところが一つもない。  上を見れば、何もなかった。  天井が高い。  果てがない。  これが空か。  男は新鮮な世界に我を忘れた。 「徒花」  ふと自分を取り戻すと、男は、徒花のことを探し始めた。  倒れてしまった徒花。  どこに行ったのだろう。瓦礫の中だろうか。  あわてて瓦礫を手でかき分ける。  手に瓦礫が刺さって血がにじむ。  痛みはあるが、それどころではない。  あの衝撃で牢は壊れた。  堅牢そのものの牢が壊れるくらいの衝撃だから、徒花が倒れるのも無理はない。  しかし本当にそうだろうか、と男は妙なことに気付く。  徒花が倒れたのは、衝撃がくるより少し前ではなかったか。  疑問を持ちながら必死に瓦礫をかき分けると、徒花の艶やかな着物の端が見えてきた。  そこを重点的にかき分けると、徒花の顔が見えてきた。  徒花の顔は青白く、その目は固く閉じられていた。 「徒花」  声をかけると徒花は小さく口を動かし、聞こえないくらい小さな声で何かをこちらにつぶやいた。  瓦礫の中から男は徒花を救い出した。  手は自分の血で真っ赤に染まっていた。  そんなことは気にならなかった。  それよりひどい血の海が徒花の体に滲んでいた。 「ごめんよ、坊や。私はどうしようもない」 「しっかりして、どうすればいい。この血を止めたいんだ。血が流れすぎるといけないんだろう。教えてくれたよな」  徒花は男に生き方を教えてくれた。 「うん、いけない。だけど、もう私はどうしようもない」 「そんなこと言わないで、どうにかするから」  徒花は小さく首を横に振り彼女自身の背面を示した。  男は彼女の背面を確かめた。  首より下、体の真ん中あたりに何かがふかぶかと刺さっていた。  これはなんだろう。  見覚えがある。 「坊や、私は死ぬ。死ぬってことについて教えてたかな? 死ぬっていうのは眠りにつくってことだ。ただし、ずっと目覚めない。死んだ肉体はやがてその形をとどめなくなる。もう私はここにいれない」 「徒花の言っている意味、分からないよ」 「あと少しすれば分かる。そうでなくともいつかは分かる」  徒花の声はとても優しかった。 「君には今、選択肢がふたつある。一つは、このまま私の体のそばにいて、そのうち来る兵たちにあの牢と大差ない場所にまた押し込められること」  徒花はもう息も絶え絶えだった。  男の呼吸も苦しかった。 「もう一つは、ここから逃げ出すこと、どこか遠くに行って、今まで見れなかったものを見て自由になること」  遠くとはどこだろう。  ここ以外の場所にいる自分など、男には想像もできない。 「どちらがいいなんて私には分からない。君にも分からないだろう。変わるべきか、変わらないべきか。それでも君は今、はじめて選べる。最初からあの牢に押し込められていた君の人生を、君が選ぶときが来たんだ」 「そのどちらを選べば」  徒花の顔はもうずいぶんと白くなっていた。  声もか細い。男が必死に耳を澄ませなければ聞こえない。 「徒花はいる?」 「君が選ぶ方であるなら、私はどちらにでもいる」 「徒花ならどちらを選ぶ?」 「私は選べなかった」 「徒花はどちらがうれしい?」 「君が幸せな方がうれしい」 「徒花は幸せなの?」 「君といれて幸せだった」 「徒花は死ぬのに?」 「うん、殺されても幸せと言える。私は幸せだ。ありがとう」  男の怪我は大したことがない。  それなのにどうしてこんなにも全身が痛いのだろう。  どうして男はふるえているのだろう。  徒花はもう身震い一つしないのに。  男はどこにも行きたくなかった。  徒花の傍にいたかった。  だけどそれはできなかった。ここに徒花はもういないから。  徒花はもう死んでしまったのだから。  徒花は幸せになれと言った。男はここにいることで幸せなときなどなかった。  だから男はゆっくり立ち上がった。  幸せになれる場所はここでない。それならここから去るしかないのだ。  男は徒花の背中を確かめた。刺さっていたのは剣だった。獄卒が腰から下げているものと同じ柄だった。
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