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男のすぐ近くには獄卒がいた。
牢の外で番をしていたのだろう獄卒は瓦礫に埋もれて倒れていた。
男は淡々と訊ねた。
「……徒花を殺したのはあなたたちなのか?」
「違う。あれは黒眚だった」
「黒眚?」
「何者かが徒花とおまえたちの命を狙った。おまえたちは誰に狙われていてもおかしくなかった。おまえが逃げればそれに我らも加わる」
「それでも徒花が俺の幸せを望んだんだ……俺は逃げる」
「後悔するぞ」
その声には怯えも冷たさも含まれてはいなかった。ただ心のそこからの真実を語っているような声だった。
「後悔ならもうしている」
男は苦しい胸を押さえながらそう答えた。
灯りを持った一団が大きな建物の方から近付いてくるのが見えた。
男はそれを避けるために逆方向へと歩き出した。
しばらく行くと崖に突き当たった。
高い崖だ。下が暗くて見えない。
他に行ける場所を探して左右前後そして足元から頭上を見て男は天空に灯りが浮かんでいるのを見つけた。
青白く光る灯り。男はしばしそれに見入った。
「月を見るのは初めてか」
冷たい声が、彼の背に呼び掛けた。
獄卒の無関心とも、徒花の親しみとも違う。
突き刺さるような感情をその兵は発していた。
それは男が徒花の死に対して感じたものと同じだった。
純白の鎧に身を包んだ男がいた。
細身の刀を構えている。
「報告には「右の牢」が襲撃されたとあった。若い男、見たところ貴様は「左の牢」の囚人だな」
「アンタは誰で……俺は誰なんだ……」
男の問いは切実だった。
「お前の名前は抹消された。その問いの答えは地上にないと知れ」
白色の剣士は淡々と続けた。
「そして私の名前など死に行くお前に必要はないが……冥土の土産に教えてやる私の名は明星院和水だ」
ずいぶんと長い名前だと男は思った。
闇夜に月の光を浴びて輝く明星院は剣を構えた。
その動作は獄卒たちの無骨なものとも、徒花の華美なものとも違う颯爽とした動きであった。
明星院の剣の刀身には龍がきらめいていた。
「徒花を殺したのはあなたなのか」
「殺してやりたかったさ、お前もあの女も。しかし、私にそんな権限はない」
その言葉をどこまで信じていいのか男には見当がつかなかった。しかし明星院の声は真に迫っている響きがあった。
「俺達がどんな思いで貴様らごとき簒奪者を生かしていたか。まったくもって腹立たしい」
明星院は語りながら距離を詰めてくる。
「勝手に死にやがって。無駄骨にもほどがある」
ああ、こいつが憎らしい。
こんなふうに徒花の死をなじる男が許せない。
男は心の底からの怒りを覚えた。
男にはもう明星院が下手人かどうか関係なかった。
一矢を報いてやりたかった。
明星院はそんな男の気持ちなど知ってか知らずか淡々と告げた。
「起きろ、明星院の龍よ」
男にその言葉の意味は分からなかった。
刀が鈍く光った。
明星院が光る刀を振るうと水流が刃となって男に向かって飛んできた。
男は間一髪で避けた。
これは徒花に聞いたことがある。
龍の力を纒った刀。
王家に伝わる龍との契約をした刀。
「お前は……王家の人間なのか?」
「明星院はあくまで王家に連なる血縁に過ぎん。ああ本当に無知なのだな貴様は。それも腹立たしい……」
明星院は刀を再び振るう。
刀身から水の刃が振るわれる。
男はまた避けた。
その応酬を続けているうちに男はすぐに疲れ果ててしまった。牢の中では歩くどころか立っていることすらまれであった。
明星院はそれを見逃さない。
刀が高く振り上げられる。
死んでしまう。殺される。終わってしまう。せっかく外に出られたのに。
徒花がよろこんでくれるのに。
「下は川だ! 降りろ! ヒトヤサ!」
男はそれを自分に向けられたものだとは思わなかった。
ヒトヤサという名に覚えはなかった。
しかし明星院に向けられたものでもなかった。
明星院の顔に焦りの色が浮かぶ。
男はその隙をついて崖の近くまで近付いた。
下は川。信じがたかった。崖の下はあまりに暗く何も見えない。
それでも明星院が近くに迫っている今、逃げ場はそこにしかない。
「矢倉!」
明星院が叫んだ。
風を切る音がした。
男の肩に何かが刺さった。
明星院自身も走って距離を詰めてきていた。
もう迷っている暇はなかった。
男はよろけるように崖の下に飛び込んだ。
永遠にも感じられる長い落下時間の間、男はただ徒花の顔を思い出していた。
そして男は落ちた。水の上に。鈍い音とともに沈んでいく。
男はもちろん泳いだことなどなかった。
落下の衝撃と水の冷たさに急激に意識を失った。
気付くと男は船の上にいた。
「死ぬなよ、しっかりしろ、ヒトヤサ」
強くこちらに呼びかけるその顔は、なぜか失ったはずの徒花に見えた。
何かを言おうと口を開いたが、声になる前に男はまた気を失った。
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