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第九章 未練なきもの
紙織は手紙を書いていた。ありとあらゆる人脈を使い、東西南北、伝あるところに手紙を書いては便りを待った。
夢幻の街にも冬が訪れた。こちらに来ると決めたとはいえ、花美がやってくる前に出来ることなら緋楽を見つけ出したかった。
だが、緋楽の足跡は辿れない。華胥と別れたのが最後となる。妖にとっては二年前などつい昨日のようなことなのだが、実際二年という月日はそれなりに何でもできるしどこへも行ける。有力な情報が得られないまま、紙織は手紙屋で頭を抱えていた。
「紙織、お茶淹れたけど飲む?」
「ああ、ありがとう。そこに置いてくれる?」
糸桜の方を見ずに言うと、カタ、という音がした。紙織は音のした方に手を伸ばし、そこにあるだろう湯のみを掴もうとしたが、手は空を掴むだけだった。
「ほぉ、なかなか美味いじゃないか。良い茶葉を使っておるのか、はたまた坊主の腕がいいのか、それともその両方かな」
聞き慣れない声がすぐ隣からして、紙織はバッと頭を上げた。
「じじ様!」
「久しいの、紙織。達者で暮らしておったか?」
音もなく現れたその妖に糸桜はぎょっとした。後頭部がやたらと大きな年老いたその妖は、存在感があるくせに全く気配がなかった。一瞬、糸桜は身構えたが、紙織の知り合いらしいとわかり、ホッと息を吐いた。
「じじ様、いつも現れるのが突然なんだよ。糸桜が驚いているじゃないか」
「馬鹿者め。のらりくらりといつの間にか現れ、いつの間にか去るのが儂という妖じゃ。それをやめろと言われれば、儂のアイデンティティが死ぬぞ」
「古い妖の口からアイデンティティなんて言葉聞くと思わなかったよ」
「お前こそなんじゃ、まだそんな格好しておったのか」
学ラン姿の紙織を指摘し、年老いた妖はそう言った。
「結構気に入ってるんだよ、この格好」
「風の噂でお主と夢妖の若造との婚約が正式に決まったと聞いたもんでな。まだそんな格好しておるとは思わんかったよ」
「性別を変えられるのは便利なんだ。だから今更方針を変える気はないよ」
はぁ、と紙織は大袈裟にため息を吐いた。
「糸桜、ごめんね。聞いたことないかな? ぬらりひょんという妖を。それがこの人なんだ。人間たちに何故か『妖怪の総大将』と呼ばれている御方だよ」
「ぬらりひょん…」
変な名前だな、と糸桜が思っていると、見透かしたように彼は言った。
「『ぬらりひょん』というのはお主で言うところの『雀』という種族の総称じゃ。儂自身の名は曉倖という。まぁ此奴にはじじ様などと呼ばれておるから、お主も好きに呼ぶがいい」
「じゃあ、僕もじじ様って呼びます」
おお良いぞ、と人の良さそうな笑顔で曉倖は言った。
「それより、じじ様一体何しに来たの?」
「何しに来たとは、つれない小娘じゃのぉ。便りをよこしたのはお主じゃろうに」
「来るなら先に言っといてくれよ。僕だっていつでも店にいるわけじゃないんだから」
「なに、お主のことなぞどこにおってもすぐに見つけられるわい。総大将を舐めるでない」
「そうだった。この人凄い妖だった。で、便りに応えてくれたということは、緋楽について何か知ってるってことなんだよね?」
紙織は手紙屋と書かれた鞄から筆と帳面を取り出し、話を聞く姿勢をとった。
「最近儂のテリトリーで妙な話を聞くんじゃ」
「テリトリー」
「お主も知っての通り、儂は一箇所に留まれんタイプの妖じゃ」
「タイプ」
「家から家、街から街へ流れるように生きておる。が、言うても馴染みの街をローテーションしとるだけでの」
「さっきからカタカナ英語混じるのすごい気になるんだけど…まぁいいけど」
呆れたように紙織は呟いた。
「で、じじ様は行く先々でどんな話を聞いたの?」
「神隠しじゃ。今どきな」
曉倖の表情が険しくなった。
「ちょっと待って、その話は浮橋も」
「いや、お主だけでええわい。儂は夢妖は好かん。薄気味悪うての。それがたとえ、お前の身内であってもじゃ」
「…じじ様のそれほとんど同族嫌悪じゃん」
「いいから話を続けるぞ。あらゆる街で神隠しの話を聞いたのだが、よくよく聞いていくと共通点があったのじゃ。神隠しの起こる日は、決まって月の見えん夜で、どこからともなく笛の音が聞こえてくるらしい」
楽師である緋楽は笛吹だった。故に曉倖はこの話を紙織に持ってきたのだろう。
「他には何か知っていることはある?」
「共通点がもう一つ、神隠しに遭うものは皆、流れ者だったそうじゃ」
「流れ者? …一体何故なんだろう」
「さあな。それはこれから、夢幻の若造とゆっくり考えればいいじゃろう」
「……じじ様、他にも何か知ってるんじゃないの?」
勘ぐるような目を向けると、曉倖はふんっと鼻を鳴らした。
「お主は儂を買い被りすぎじゃ。何も知らん。…ただ、お主よりもうんと長生きしとる分、勘が働くだけじゃ。情報というピースを集めて推測することも出来る」
「なら、じじ様の勘と情報から推測出来ることを教えて」
「見返りは?」
「逆夢様の秘蔵の酒を持ってこよう」
「女子姿の紙織の酌付きか?」
「そんなのお易い御用だよ」
「よし乗った」
曉倖は茶を啜った。その音が妙に静かな手紙屋に響き渡り、糸桜はごくりと唾を飲んだ。ふぅと息を吐くと、曉倖はゆっくりと紙織を見、その紙織は緊張した面持ちで睨むように見つめ返した。
「紙織、お主は賢く強い。故に薄々勘づいておるのだろう。夢幻を追放されたものたちが一枚噛んでおると」
「…じじ様こそ僕を買い被りすぎだよ。情けない話、華胥が何も言わなかったらその可能性に気づけなかった」
夢幻を追放されたのは華胥だけじゃない。恨んでないなんてそんなわけはない。強いものは華胥だけではない。長らく華胥を危険視しすぎていた為忘れていた。夢妖の歴史は長く、街ひとつ治める事を誰の恨みも買わずに出来るなんてそんなことはないのだ。
「お主は夢幻を追放されたものたちの末路について知っとるか?」
「僕はそれほど詳しくないんだ。けど、夢妖の能力の一切を封じられて追放される、というのは知っているよ。その者たちがどうなったかまでは知らないけど」
「その夢妖の力、一体誰が封じているんじゃろうな」
ぞくり、と背筋が凍ったような気がした。淡々と告げる嗄れた曉倖の声が妙な恐ろしさを増大させる。
「まこと得体の知れぬやつらじゃ。故に儂はあやつらを好かん」
「だからそれ、ほとんど同族嫌悪」
「お主、逆夢の嫁御のことはどのくらい知っておる?」
「…夢香様?」
あまり表に姿を見せない華胥と浮橋の母親と、紙織も数える程しか対面したことがない。華胥と浮橋と三人、ほとんど乳母たちに育てられたようなものだ。
「夢香様は…物静かで儚げで…不思議な空気を纏う御方だ。あと初めてお会いした時、華胥は夢香様に似たんだなと思った」
「夢妖一族の長の嫁御には、力の強い者が選ばれる。力が強く性質が近ければ、夢妖以外の種族のものからも嫁が選ばれることがある。…お主もそのひとりじゃな」
「夢香様も力が強かったということ?」
「あの嫁御の妖力はお主や倅たちのような強さはない。強かったのは霊力じゃ」
神力、神通力とも呼ばれる霊的な能力。妖力とはまた異なる神聖な力だ。
「あの嫁御には霊力の強く徳の高い人間の巫女の血が受け継がれているのじゃ」
「……それは……初耳だ」
「お主、意外と抜けておるというか、あまり知ろうとしないタチじゃからな」
「…で、夢香様が人間の巫女の血を引いていることがどう関係するの?」
「だから、儂もよう知らん。ただ、神隠しと夢妖を追放されたもの、逆夢の嫁御。今はただの点と点じゃが、点は集めると一本の線になるし、絵になることもある。一つ一つの点をどう結ぶかは、どう集めるかはお主次第じゃ」
挑戦的な顔で曉倖は言った。やはり何か掴んでいるのだろうが、それを教えないのは捧げる酒が足りないということなのか、はたまた悪趣味にも慌てふためく紙織を見て楽しんでいるのか、その両方かもしれない。
「…僕、ずっとじじ様が人の世で『妖怪の総大将』って呼ばれてる意味がわからなかったんだけど、今わかった気がする」
「ほう、なぜだと思う」
「言うならじじ様は不戦勝なんだよ。『闘わない』っていうのがある意味一番強いんだ。ある時は誰かの中で、ある時は誰もいない場所で、自由気ままにのらりくらり。面倒も危険も全部回避出来る生き物なんていないからね。でもじじ様はそれが出来る。これだけ存在感があるのに気配を消せる。それがいいことなのかわからないけど、強さがないとできないことだ」
曉倖は愉快そうに声を上げて笑った。
「儂はお前さんのそういう見立てができるところが好きでな。夢妖はどうも好かんが、お前さんには喜んでこれからも力を貸そう」
茶は飲み干したらしく、空になった湯呑みをドンと勢いよく置くと、着物の袖から折りたたまれた紙を一枚取り出した。
「ここに神隠しにあった者の名とおった場所を記した。報酬忘れるでないぞ」
「ありがとう、じじ様」
覚書を受け取りざっと目を通している隙に、曉倖はまた音もなく姿を消していた。
*
眼前に広がる灰色の空から、白くて小さなふわふわしたものが降りてくる。頬に当たるとひんやりするそれはどうやら雪らしい。雪を掴もうと伸ばそうとした腕は重くて硬くて上がらない。
―そうか、私は死ぬのか。
ああ、やっと死ねる。しかしどうせ死ぬなら、もっと行きたいところ行っておけば良かった。夢を追いかければよかった。もっと美味しいものを食べておけばよかったと、最後の晩餐がカップ麺だったことを思い出した。
どうせなら、お高い肉でも食べておけばよかった。洗濯物だってせっせと干して来なければよかった。
ああいっそ、今日死ぬとわかっていたら思い浮かぶ憎い顔を全て消してしまうということも出来たのに。そしたら向かう先は地獄だろうか。
色んな想いが過ぎる度、まぶたが少しづつ重くなる。灰色の空が徐々に暗く、そして明るくなるような、不思議な感覚に陥った。
―ああ、でも、最期の日が今日でももっと先だとしても、やっぱりあの手は取らなくてよかったな。
「……や…ぎ………さん……」
掠れる声で最後に漏らした言葉は、騙し続けた自分の奥の奥に閉まっていた本音だった。
*
「……ん?」
手紙屋で茶を啜っていると、紙織はピクリと何かの気配を察知した。
「どうしたの?」
隣で一緒にゆっくりしていた糸桜が、きょとんと首を傾げた。
「…うん。なんか……」
物の怪の気配とは何か違うが、明らかに『何か来た』と脳が告げている。
「……なんかわからないけど、ちょっと出てくるね。灯、燿、糸桜と留守番よろしく」
紙織はいつもの学ラン姿に冬用の外套を羽織って外に出た。
誰かに呼ばれているような気がした。その方に向けて歩くと、向かう先に糸桜公園があることに気づいた。十中八九そこだろうと紙織は確信した。
糸桜公園につくと、一目で迷子とわかる者がいた。長い髪の毛は後ろひとつで束ねられているが、手入れの行き届いた髪とは言いがたく少しぼさついている。目は虚ろで、今にも雪の降り出しそうな灰色の空を眺めている。それなのに、灰色の景色には不自然なほど明るい橙色の長着一枚で立っており、紙織は暑いのか寒いのか混乱してきた。
そして、うっすらと柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。この近くに蜜柑の花でも咲いていただろうかと不思議に思いつつ、紙織は迷子に声をかけた。
「こんにちは」
躊躇いなく声をかけると、虚ろな目はゆっくりとこちらを向いた。ぱちぱちと数回瞬きをしたあと、ようやか目に光が宿った。
「…………誰?」
覇気のない声ではあるが、本来ならば『鈴を転がすような』と形容したくなる声なのだろうと紙織は思った。高めの声だが聞き取りやすく柔らかく耳に入る。
「初めまして。僕の名前は紙織。あの世とこの世の狭間で手紙屋を営んでいる妖だよ」
「…あやかし…手紙屋? 郵便屋さんではなくて?」
「そう。郵便屋さんってのは手紙を届けるのが仕事。僕は手紙を届けるだけじゃなくて、手紙をつくるのも仕事なんだ」
「…手紙……」
まるで初めて聞く言葉であるかのように、音の響きを確かめるように単語を口にした。
「…君、名前は?」
「……五十嵐…瞳子」
「『とうこ』ね。どんな字を書くの?」
「『瞳の子』で…『瞳子』です……」
「そう。素敵な名前だね」
曈子は不思議そうな顔をして首を傾げた。
「……あなたは…女の子?」
「ああ、そうだよ。ごめんね、紛らわしい格好で」
ちゃんと受け答えはするが、曈子の口調はぼんやりとしていて、何かまだ気のようなものがふわふわとしている印象を受けた。
「……君、自分が亡くなったことはわかっている?」
「…車に轢かれた覚えなら…」
「そう…事故なのか。ご愁傷様」
また厄介そうな案件だな、と紙織の勘が訴えた。
「…あの……もしかして、夢幻というのはここのこと?」
「おや、どうしてこの街の名を知っているの?」
不思議に思って紙織が質問に質問で返すと、戸惑いながら瞳子は答えた。
「私、金髪の綺麗な男性に会ったの。私を見るなり『久しぶりだなぁ』って呟いて……思い出せない知人の誰かかと思ったけど違ったみたい。その人は私を『夢幻』という街に送るから、あとはどうにかしてもらってって言ってたの」
もはや自分が関わった証を消すのはやめたのか、と紙織は舌打ちしたい気持ちをぐっとこらえ、代わりに脳裏に浮かんだ黄金頭の男の髪を全て毟りとってやった。
金髪男のお望み通り、紙織は彼女をあの世に送るため、手紙屋に連れ帰り話を聞くことにした。
五十嵐瞳子、二十七歳。働き盛りだというのに事故でこの世を去ることになった。その人間にしても短い人生は中々過酷なものだった。
中学生の頃、父親は病死、母一人子一人でやりくりしてきたものの、三年後母親も過労死した。
母方の祖父母に引き取られ、奨学金制度を使いながら大学に進学、その後就職するも、今度は祖父が階段で転び骨折、人の手を借りないと生きられなくなってしまった。
働きながら家事、施設に預けられたとはいえ祖父の見舞いや手続きなどしなければならないことはたくさんあり、疲れ果ててどんどん心が疲弊したと瞳子は言った。
そして二年前に祖父、翌年祖母も後を追うように亡くなり、瞳子は一人になった。
「正直、家族はいないし恋人もいないし、これといった未練はないの。もう疲れた…明日が来ないことにホッとしたくらいなのよ」
瞳子の表情からしても、あまり何か強く心に想うことはなさそうに見えた。妙にスッキリしている。ただ、人によってはそう思い込むことで表情に後悔が見えないという場合もある。思い込みや暗示の力は計り知れないのだ。
そして、死んだ人間が迷子になる事例として、稀だがもうひとつの可能性がある。
「君の周りに誰か…君に対して未練を残しそうな者に心当たりはないかい? 家族がいないならそうだな…友人とか…君に想いを寄せる人とかいなかったかい?」
「…どうしてそんなことを聞くの?」
「本人に未練がなくとも残された人間が亡くなった者に対して強い未練を持っていると、それに引っ張られて迷子になることがあるんだ」
そう答えると、瞳子の表情が硬くなった。
「…何か覚えがあるの?」
「………………あ、いや……私がこの人かも、とか言うとなんかナルシストみたいだし、違ったら切ないなぁって思っていただけ」
「つまり、思い当たる人がいるんだね?」
瞳子は困ったような顔で少し笑った。金髪男の『久しぶり』という言葉は、十中八九本人以外の未練を見抜いた上での発言なのだろうと、改めてその力の強さに紙織は舌打ちしたくなった。
「自分では言いたくないか。それもそうだな。…まぁ何にせよ、悪いけど君に術をかけさせてもらう」
「術?」
「ああ。糸桜、ちょっと手伝ってくれる?」
机や湯呑みを片付け、紙織は箪笥から紙を取り出しそれを畳に広げた。折りたたまれていた紙は広げると二畳ほどの大きさがあり、大きな円が描かれている。手紙屋の刺繍の施された鞄から香と香炉を取り出すと、不思議そうに瞳子が尋ねた。
「鞄にそんなものを入れているの? 邪魔にならないの?」
「ああ、この鞄は特注品なんだよ。鞄の中は異次元空間になっててね。この鞄の入口を通るものであれば大きさも重さも関係なくホイホイなんでも入れられる。空間を自由に操れる変な妖につくってもらったんだよ」
「…何だか漫画みたいな道具ね」
「昔仕事の依頼を受けた時に交換条件でこの鞄を作ってもらったのさ」
マッチで香に火をつけると、ほのかに先程嗅いだものと同じ柑橘の香りが漂った。
「…オレンジ?」
「ああ、これオレンジの香りか。瞳子はこの香りが好きなの?」
「ええ、昔からオレンジとか蜜柑が好きで、最近は枕とかにアロマスプレーをかけて眠っていたりしたわ」
「なるほどね…」
さらに紙織は鞄から扇子をひとつ取りだした。白くて柄の何も無いもので、芸事でみるようなそれで紙織は紙を指して言った。
「瞳子、その紙の上、円の中心に僕の方を向いて立ってくれるかい?」
「いいけど、何をするの?」
「瞳子をこの世に引き止めてしまう者の名を炙り出す」
そう紙織が告げた瞬間、瞳子がひゅっと息を飲んだのがわかった。
「君だけの未練なら君から話を聞けばいい。でもそうではないなら、君の話だけでは思念の持ち主を特定させることはできない。君をあの世に送るには、君に纏う思念を取り払わなければならないんだよ」
「…それなんだけど、私はあの世とやらに必ず行かなくてはならないの? 成仏できなかった魂…いわゆる幽霊って…私は霊感がないから見たことがないけど、そういうのってたくさんいるものなんでしょ? だったら私一人くらい今更増えても別になんてことはないんじゃないの?」
黙って聞いていた糸桜は思わずぽかんと口を開けた。今まで何人もの迷子に出会ってきたが、そんなことを言い出すものはいなかったのだ。皆、後悔があって彷徨い、やり場のなかった想いが届けられるとわかると、紙織に感謝して想いを届け旅立っていった。
驚いている糸桜に反し、さすが紙織は冷静に答えた。
「迷子としてこの世を彷徨い続けることはおすすめはしない。僕らは物の怪と呼んでいるんだが、君に説明するには悪霊と言った方がわかりやすいかな? 君が幽霊としてあの世へ行けない宙ぶらりんの状態でいると、悪霊に取り込まれたり悪霊そのものになってしまうことがある。一度悪霊になれば二度と魂は戻らない。あの世へ行って、大切な誰かと再会することも、いつか来る生まれ変わる日を待つことも、生涯を終えた愛しい誰かを待つことも出来なくなる」
「それってそんなに大事なこと? 私の家族はもうこの世にいないけど、あの世で会えるなんて保証はあるの? 生まれ変わるってそんなに大事? 生まれ変わったとして、それはもう今の私とは違うんだから、あるかわかりもしない未来の私の事なんて知ったこっちゃないのよ」
「…そうだね。知ったこっちゃないでよかったんだよ、本当なら。でも君はここに連れてこられた。あいつと出会ってしまったのが運の尽きだったね。ここに来た以上、僕や僕の仲間が君が迷子でいることを許さないんだ。というのも、物の怪は陰の気、負の力を持っている。物の怪の陰の気に当てられて悪さをするものや魔が差すものが現れると、街の治安に影響する。街の治安維持は僕らの仕事。逆に言えば、君がこの街に現れなければ僕らは一切干渉することなく、君がどこでその魂を終えようと『知ったこっちゃない』で済ませられたし、済ませたかったよ、僕だって。面倒ごとは少ないに越したことはないからね」
珍しく厳しい口調で言う紙織に驚き、自分が言われた訳でもないのに糸桜は肩をびくりと震わせた。
ふぅ、と長く息を吐いたあと、紙織はいつものように柔らかく笑い、気遣わしげに瞳子に語りかけた。
「…ごめんね。僕も僕の大事なもののために動かなきゃいけないんだ。君がどんなに投げやりになっても、投げ出させるわけにはいかないんだ。君はなんだか頑固そうだし、悪いが実力行使させてもらう」
人差し指を瞳子に向けて紙織は一言叫んだ。
「『縛』」
すると、瞳子の身体がギュッと見えない紐で縛られたかのように縮こまった。身動ぎさえできない瞳子の身体をひょいと持ち上げると、円の中心に立たせて自分は紙の外に座り込んだ。
「『五十嵐瞳子に纏うものよ、その名を示せ』」
声に妖力を織り交ぜて発し、香炉から出る煙を扇子で扇ぐと、橙の香りを漂わせながら煙が彼女を包み込んだ。
好きだと言っていたその馴染みのある香りに包まれた瞬間、瞳子は抵抗を見せたものの呆気なく瞼を閉じた。首はガクンと力なく項垂れたが、縛られている身体は直立したままだ。
数秒後、瞳子の意識が完全に無くなったのか、纏っていた煙が頭の方から足元へと移動した。そして煙は、黒い線で引かれた円の中をぐるぐる回りながらそこに留まった。やがて霧が晴れるように煙は霧散し、円の中には見慣れない文字のような絵のようなものが四つ書かれていた。
「『解』」
そう紙織が呟くと、縛り付けられていた瞳子の身体は解放され、そのまま前に倒れ込んだ。既のところで支え、意識のないままの彼女を横たわらせた。
「…どうしていつもみたいに記憶を覗かなかったの?」
様子を見守っていた糸桜が恐る恐る尋ねた。
「さっきも言ったけど、彼女をこの世に留まらせたのは彼女自身の未練というより、他者の未練だ。彼女の記憶を覗いたところで、彼女目線の記憶じゃ正確に誰が未練を残しているかなんてわからないから、こうして瞳子の周りにまとわりついている思念の持ち主を探り当てるのが一番正確なんだ」
「そこに書いてあるのがそうなの?」
「ああ、その上でこの人とあったことを調べる。記憶を覗いてね。…ここ数年出会った迷子の中でも、心の壁の分厚さが断トツに強いんだよね、彼女。悪いが時間が惜しいから、勝手に覗かせてもらうよ」
そう言いながら、奇妙な話だなと紙織は思った。人間よりも遥かに寿命が長い妖にとって、人間が惜しむ一分一秒は理解し得ないものだと思っていた。生者にせよ死者にせよ、人と関わると無限のように長く感じた時間が有限に変わる。不思議なものだ。
紙織は眠る瞳子の額に手をかざし、彼女が閉めようとしていた記憶の蓋をこじ開けた。
術で炙り出した四つの文字を頼りに、瞳子に纏う思念の主を探し出す為、紙織は彼女の人生最期の記憶から少しづつ早回しで巻き戻した。未練を残している者が関わったのは彼女の人生に置いて終盤に出会ったものだろうと判断がつく。そして、一人該当者が見つかった。
脳に送られてくる彼女の記憶を一時停止した。これは手紙だろう。無地の白い紙に罫線が引かれただけの簡素な便箋に、ちらと名前が見えた。
注意深く巻き戻しと再生を繰り返し、今度はこの持ち主の顔を特定すれば、あとは必要そうなところだけを再生する。
必要以上に記憶を詳細に覗く行為は、紙織の方針に反する。
大まかなところを掻い摘んで記憶すれば、あとは本人の心をどうにか開かせ、点と点を繋げるのが紙織の仕事だ。
瞳子の額にかざしていた手を外し、紙織は夢の世界から帰還した。
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