第一章 手紙屋と少女

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第一章 手紙屋と少女

 暗い森の中、少女は息を切らしながらも足をとめずに走っていた。追ってくる気味の悪いものに怯えながら、走りにくい着物の裾を持ち上げ、ただ前を見て走っていた。  森に暮らしているらしいもの達がちらちらとこちらを見ているのがよくわかる。背中に視線が刺さり、妙にざわざわと悪寒がする。  どこへ行けばいい。どこへ行けば逃げきれる。隠れればいいのだろうか。そもそも、自分を追っているものはなんなのだろうか。姿かたちが確認できないが、逃げて追われるなら逃げ切るしかない。遠くにうっすらと見える灯り目指して少女は止まることなく走った。  彼女の足は限界を迎えようとしていた。息は切れ、口の中は乾いている。もつれそうになる足をなんとか前へと進め、転べば最期だと本能が告げる。誰か助けてと叫びたいのに、唇はもう上手く動かない。  徐々に灯りは大きく、増えていく。オレンジ色の炎のようなものが暗い森を僅かながら明るくする。あの灯りに飛び込めば助かる。そんな気がした。  しかし、その気の緩みが少女の足をもつれさせた。  激しく転び、膝も顎も擦りむいた。逃げなきゃと思うもの、身体はもうとっくに限界を迎えていた。立ち上がれない。  背後に嫌な気配を感じる。暗い森に紛れるような、影のような何か。ああ、逃げきれなかった。  何もかも諦めようとしたその時、場の空気をガラリと変える声が通った。 「去れ。ここから先は夢妖の一族が統べる街。お前らのようなものが入ってきていい場所じゃない。命が惜しけりゃ森へ帰りな」  少女の視界には足元しか見えなかった。どこからどう見ても人の足。革靴とズボンを履いた人の足。ああ、よかった。人がいる。  最後の力を振り絞り、足の先にある顔をみようとした。 (……学ラン…?)  見られたのは上着までだった。顔を見る前に、少女の意識は途切れた。 *  温かい春の日差しに、重い目をゆっくりと開ける。春眠、暁を覚えず。春の日差しは冬のコタツくらいの魔力を秘めている。布団から、その温かさからなかなか抜け出せない。あと五分、そう言って二度寝をするのもよくある事だった。 (あと五分じゃない!)  ガバッと身体を起こすと、脳が一瞬ぐわりと揺れた。 「ああ、ダメだよそんな。いきなり起きちゃ」  少し低めの耳障りのいい声に振り返ると、そこには男物の学生服に身を包む、少年とも青年とも言えない年頃の人物が壁に寄りかかって座っていた。入ってくる太陽光を照明代わりに読書をしていたらしい。長い髪は一つに束ねていても、肩から前に垂れ、読書の邪魔にならないのかなとしずくは思った。 「あー、その様子じゃ覚えていないかな?」  ぽかんと急に現れた人物を見すぎたのだろうか、彼は少女に問いかけた。 「君、追われてたでしょ? 『物の怪』たちに」 「もののけ…?」 「昨日君を追いかけていたのがそう。姿かたちがハッキリしていない、黒い靄のようなもの。けれどそれは何らかの思念のような、意志を持つもの。それも悪意を持ったものが多い。僕らはあれらをまとめて『物の怪』と呼んでいる。あれに飲み込まれたら『最期』だ。危ないところだったね」  彼は立ち上がると、少女の枕元にしゃがんだ。失礼、と声をかけると頬を両手で包み込まれた。 「さて。特に怪我もなければ顔色も悪くない。大丈夫そうだね」  綺麗な顔が目の前にやってきた。男でも女でも通用するほど美しい中性的な顔だ。まつ毛が長く、ぱっちり二重が印象的な大きな目。通った鼻筋に、日焼け知らずの白い肌。女子が羨む要素をいくつもちあわせている。 「君、名前は?」 「…小野しずくです」 「しずくちゃんね。僕は紙織(しおり)と言います。この夢幻通りで手紙屋を営んでいるんだ」 「手紙屋?」  聞き馴染みのない職業に、しずくは首をかしげた。 「そう。手紙をつくったり売ったり送ったりする郵便屋さんみたいなものだよ」  わかったような、わからないようなと結局また首を傾げる羽目になった。 「あ、あの、助けてくださったんですよね? どうもありがとうございました」 「どういたしまして」  ニコリと微笑むと、紙織と名乗るその人は益々性別がわからないなとしずくは思った。 「……質問があるんですけど」 「はい、どうぞ」 「……ここはどこでしょう?」  紙織は目をしばたかせた。なにか思案しているらしい。目以外はフリーズ状態だ。 「うーん、そうだなぁ。先に僕からいくつか質問させてもらっていいかな?」 「……はい」 「しずくちゃん、今いくつ?」 「十二歳です。…もうすぐ中学生になるはずでした」 「『でした』って言うと?」  紙織が問うと、しずくはその表情に暗い影を落とした。 「……私、多分死んだんです。公園にいた時、私に向かって来た車を見たのが最後の記憶で……。気づいた時はあの森にいました」 *  ここはどこだろうか。あるのは月明かりと、遠くに見える炎のようにゆらゆらする灯り。森がある程度開けていて、月明かりがなければ『一寸先は闇』状態だったろう。明るい方目指して歩きながら、自分がどうしてこうなったのかを整理した。  そうだ。あの時もしずくは迷子だった。学校を飛び出してしまい、うちに帰るという選択肢もあったがそれもなんだか嫌で思いつく限りの公園を転々とした。  さすがに帰らなくては、と怒られるだろうことを想像して憂鬱になりながら公園を出た時、凄まじいブレーキ音が耳に入り、音のする方に顔を向けると車がしずく目掛けてやってきた。  ああ、あの時か。意外と、痛いとかも感じなかったな、即死だったのかな、としずくは思った。  では、ここは天国なのだろうか。随分暗いところだ。そうか、地獄かもしれない。そもそも、天国や地獄なんてものは存在するのだろうか。 それよりも……ああ、そうか。私は死んだのか。  暗い気持ちに引きずられ、そうしているうち背中に悪寒が走った。  振り返ると、黒い靄のようなものがそこにいて、本能的に走って逃げたのだ。 * 「……もしかしてあなたも死んでいるんですか?」  自分のいた場所が『この世』ではなく『あの世』と言われる場所ならば、ここにいるこの人も生きている人ではないのではないか。そう思ったのだが、その考えはあっさりと否定された。 「残念ながら僕は生きている。…ただまぁ、死んでいく人の思念から生まれた僕は、ある意味死者に近いかもしれないけれどね」 「……?」  意味がわからず首を傾げると、美少女のような美少年はニコッと微笑んだ。 「僕はね、君のいた世界でいうところの妖怪とか妖とか、そういう存在なんだ。この世界は死者の国の『あの世』でもなければ、生者の国の『この世』でもない。あの世とこの世の『狭間』の世界だ」  見てごらん、と彼は窓の外を指した。ゆっくりと起き上がり、しずくは窓の外に顔を出した。 「……江戸時代?」  目に飛び込んだ街並みは、教科書で見た江戸の街並み、『小江戸』と呼ばれる江戸時代の風景が残るあの有名街並みに似ていた。蔵造りというやつだろうか。遠くに見える道行く人は着物姿だ。  …いや、人の姿をしていないものも見える。着物を身にまとった二足歩行の動物がたくさんいる。 「間違いなく現代だよ。時間軸は君のいた世界と一緒で、今の季節は春のはじめ。一日は二十四時間、一ヶ月は大体三十日。実際、狭間の文明は江戸時代くらいで止まっているけどね。これ以上必要ないんだよ、きっと。僕ら妖ものは人よりもうんと寿命が長いし、人よりもいろんな能力を持ったやつが多いから、便利の追求をする必要がないんだ」 「な、なるほど」  窓の外の景色を凝視しながらしずくは答えた。 「ここは夢幻通りと言って、夢妖の一族が統べる商店街だ。僕の家はこの商店街の東の端っこに位置している。昨日、意識を失った君を森に放置するわけにもいかないから、ここに連れて帰ることにしたんだ」 「……本当にありがとうございます…」  あの時、この妖というものが通りかからなければ、自分は恐らく消えていたのだろう。『二度目の死』を迎えていたに違いない。しずくは寒気を覚えた。 「…さて、ここまでが『ここはどこか』という君の質問への答えだ。他に聞きたいことは?」 「…そうですね。さっき、『あの世』もあると言ってましたよね」 「言ったねぇ」 「『あの世』って、『この世』で死んだ人たちが行くところなんですか?」 「そうだね。『この世』で死んだものは大抵『あの世』に行くよ」  大抵はね、と紙織は念押した。 「結構いるんだよ。君のように、なにか未練があって『この世』に留まってしまうものや、迷いがあって『あの世』へ向かう途中、はぐれて狭間に来てしまうもの」 「私も……はぐれたのでしょうか」 「見たところはそうだね。あの森はそういうものが現れやすい場所でもあるんだよ。どこかに何か穴みたいなものでもあるんだろう。誰にも見つけられず、成仏もできず、負の感情が強くなると物の怪が寄ってくる。昨日の君がそうだったように」  確かにあの時、どこへ行けばいいかもわからず、過去の自分を思い出して、自分の感情がモヤモヤと、負の感情が強く出ていた。 「あの、私は元の……本来行くべき場所にゆくことができるのでしょうか?」  そう尋ねると、紙織は悪戯っ子のような顔で笑った。 「ああ。解決の糸口ならある。僕はそのためにここにいるようなものだから」  どういう意味か、と尋ねようとしたその時だった。 「おーい、紙織いるかー?」  下から彼を呼ぶ声がした。声の低い、男のものだ。 「ああ、浮橋(うきはし)だ。喜べ、しずくちゃん。頼りになる男が来たよ」 「お前なぁ、職権濫用するなよ。ほいほいほいほい人を手紙ひとつで呼びつけやがって。俺だって決して暇なわけじゃねぇんだ」  紙織に連れられて下に降りると、そこがお店なのだろうというのがわかった。八畳の畳の部屋の壁は置ける限りの箪笥で埋まり、大小様々な引き出しが並んでいる。  粗暴な口調の赤毛の大男は、土間で仁王立ちしていた。上がり框がある分、目算三十センチは低いところに男は立っているが、百六十センチのしずくと同じところに目線がある。同じ高さに立っていたら、威圧的に感じていただろうなとしずくは思った。 「そいつか。森で拾ってきたのは」 「ああ。小野しずくちゃん、十二歳。若いのに随分としっかりしてるよ。浮橋、爪の垢頂戴して煎じて飲むといいよ。少しはそのイライラ体質治るんじゃないか?」 「元凶が言うな、元凶が」  口調の荒さに反し、浮橋と呼ばれた大男は脱いだ草履をきちんと揃えた。そのさまがなんだかおかしく、しずくの緊張は少しほぐれた。 「こいつは夢幻通りの若長であり、夢妖(ゆめあやかし)の一族の大長の息子、名は浮橋。こんな凶暴そうな面構えだけど面倒見のいいお人好しだよ」 「貶すか褒めるかどっちかにしろ」  浮橋は慣れた様子で畳の間に上がり、さっさと腰を下ろした。自宅のようなくつろぎ方だ。 「さて、しずくちゃん。君の話を聞こう。それが君が本来いく道への近道だから」  そう言うと、紙織は数ある箪笥の中からひとつの引き出しに手をかけ、中から紙一枚と筆を取り出した。 「僕は人の手紙から生まれた妖。僕に出来るのは手紙をつくることと、手紙届けることの二つ。人同士や妖同士の手紙はもちろん、普通じゃ届けられない人から妖へ、妖から人へ、君のような死者から生者へ手紙を送ることも僕には出来る」 「手紙を……生きてる人に…?」  聞き返すと、紙織はにっこりと笑った。 「僕がこれまで出会った迷子はね、その多くが『人』に対する未練を持っていた。残してきた家族や友人への何らかの想いが彷徨う原因となっている」  座って、と畳の間の机の前を手で示し、座るよう促された。 「僕の仕事は手紙を売ることつくること、それから手紙を届けること。そして、この力を活かして迷子をあの世に送ることも僕の仕事のひとつ」  紙織は浮橋の隣に腰を下ろした。胡座をかく浮橋と違い、行儀よく正座した。 「僕のつくる手紙は特別なものでね。この世と狭間、生者と死者の境を越えて手紙を届けることができるんだ。でも、これはかなりの力とそれだけの材料が必要になる。だから空間越えの手紙は一人につき相手一人と限っているし、材料の選定のためにも君の未練について聞かなくちゃならない。初対面の妖に話を聞かせろって言うのも酷かもしれないけど、どうだろう? 君の未練も人絡みだろう? 届けたい言葉があるんじゃないか? …『ますみ』という子に」  はっ、としずくは息を飲んだ。紙織は「ごめんね」と申し訳なさそうな顔をした。 「君、眠っている時うなされながら何度もその名を口にしていたんだ。『ますみ』というのは友達かな?」  しずくは唇を噛み締め、観念するように口を開いた。 「真純(ますみ)は……一番の友人です」  ぽつりぽつりと、零すようにしずくは話し始めた。重要な言葉を取りこぼさないように、紙織は単語を拾っては紙に筆を走らせた。 「私の両親は…特に母が教育熱心なタイプで、私は塾や習い事をいくつもかけもちしていました。学校には学校の、塾には塾の友達がいたけど、その場以外で遊べることってほとんど無くて、欲張りかもしれないけど、少し寂しさを感じていたんです。  けど、幼稚園からの友人だった真純が、ある時私の通っていた習字教室に入ってきたんです。『しずくがあまりにも遊べないから、いっそ一緒に習い事しようと思って親に頼み込んだの』『習字だったらしずくと並んでいっしょにできるでしょ?』って」 「へぇー、いい友達じゃないか」  はい、と嬉しそうな悲しそうな、そんな表情をしずくは浮かべた。 「…私が最後に見た真純は、困ったように笑っていました」 「なぜ?」 「…子供のくせにって思うかもしれませんが、真純の好きな人が私のことを好きだったらしくて…それを教室で男の子たちがバラしてしまったんです」 「…どうしてそういうことになったのか聞いてもいい?」  少し言いにくそうに、間を置いてからしずくは答えた。 「バレンタインってご存知ですか?」 「ああ。女の子が好きな人にチョコを送ったり送らなかったりするアレだろう?」  最近じゃ友達同士でお菓子交換するイベントみたいになってるらしいけど、と付け加えると、その通りですとしずくは笑った。 「バレンタインに真純は好きな人にチョコを渡すつもりでいたんです。けど、学校では渡すチャンスがなくて、彼……関谷(せきや)くんと言うんですけど、彼と私の家は近所にあるんです。だから、真純の代わりにチョコを家まで届けるよって私から言ったんです。真純の役に立ちたかったから。  けど、それが間違いでした。届けに行ったところをクラスの男子に見られていたらしく、登校したらいきなり『お前ら両想いじゃん』って騒がれたんです。事情を知ってるのは私と真純と関谷くんの三人だけで、真相を話そうとすれば真純の気持ちがみんなにバレてしまう。だから私も、優しい関谷くんもどうすることも出来ないし、真純もどうすることも出来なくて…。困り果てて真純の様子をうかがってみたら目が合って…………真純も困ってた。なのに、へへって声が聞こえるような、そんな笑い方をしたんです」  眉間に少し皺を寄せ複雑そうな表情を浮かべていた真純が、自分と目が合った瞬間、全てを飲み込んで『へへ』と笑った。『ごめん』と口が動いたような気がした。 「どんな顔をすればいいかわからなくて、思わず教室を…学校を飛び出したんです。登校する生徒の波に逆らって、逃げるように走り続けました。気づいたら学校から少し離れたところにある公園にいました。ぼーっとそこで時間を潰したあと、さすがに心配かけさせすぎていると思って、せめて家に連絡しようと電話出来るところを探そうとして……それで…」  公園を移動し、信号待ちをしていた時だった。『危ない』『逃げて』という声が耳に入り、パッと顔を上げると、自分に向かって車が吹っ飛んできた。痛いとも苦しいとも感じた覚えはない。即死だったのかもしれない。 「…うん。大体の話はわかった。君がその子に対して強く思うところがあることも。だからこそ、もう一度確認するけど、君が手紙を出せる相手は一人だけ。君の言葉を伝える相手は、本当にその子でいいの? ご両親やほかの友達だっているだろう?」  紙織が再度念を押すと、迷う素振りもなく「はい」としずくは答えた。 「最後に誰かひとりだけを選べるなら真純がいいです。…薄情ですかね。私は、産んでくれた母よりも、育ててくれた父よりも、私の言葉を一番聞いてくれて寄り添ってくれた真純の方が大事なんです」  そう言うと、紙織はふっと笑った。 「何も薄情じゃないさ。友人への愛情が親へのそれより勝ってはいけないなんて決まりはないんだから」  その笑みにはしずくを安心させるような温かさがあった。不思議な人…いや妖だ、としずくは思った。初対面だというのに本音がぽろぽろ零れてくる。カウンセラーに悩みや心情を打ち明ける時は、こんな感じなのだろうか。 「では、早速手紙をつくろうか。僕の手紙にはいくつか材料が要ります。まず宛名と差出人の名前。この紙に君の名前と友達の名前をきちんと書いてね」  紙織はハガキくらいの大きさの半紙のような二枚の紙をしずくの前に出した。 「それから差出人の身体の一部」 「身体の一部?!」 驚いて声を上げると、紙織は「ごめんごめん」と笑った。 「一部と言ってもね、髪の毛一本とかでいいんだ。たまに毛のない人や毛のない妖相手にする時は血を一滴、二滴頂戴するけど、そんな物騒な話じゃないよ」  安心して、という紙織の言葉にしずくは心から安堵した。たとえ死んだ身だとしても、もっと派手に身体の一部を取られるのは恐ろしい。 「あとこれはあってもなくてもいいけど、相手との想い出の品みたいなのがあるといいんだ。全く同じものじゃなくていい。例えばそうだな…。君の場合は、一緒に習っていた習字に関するもの…筆とか紙とか。ただ、最期の記憶にまつわるものとしては、チョコレートとがいいかもね。君が託されたチョコと似たようなものを用意できれば、筆よりいいかもしれない」  しずくはバレンタインの日のことを思い返した。 「関谷くんにあげたものがどんなものかはわからないですが、私が真純からもらったのは、ロリポップっていう棒に丸くしたスポンジケーキを付けて、チョコでデコレーションしたものです」 「ああ、それでいいと思うよ。二人の想い出ではあるしね。浮橋、ロリポップ買ってきて」 「人使い荒いなお前は」  文句を言いながらも浮橋は腰を上げ、手紙屋を出て行った。 「え、あ、すみません。私のことなのに買いに行かせてしまって…」 「いいのいいの。僕の仕事の手伝いは浮橋の仕事のひとつでもあるんだから」 「……それにしても、チョコを買いにってどこへ…?」  江戸のような街並み、江戸時代のように着物姿の妖が多い世界。とてもチョコレートを売っている店があるようには見えなかった。 「あるんだよ、それが。『この世』のもの専門の『何でも屋』ってのがあるんだ。この世で集めたものを狭間で売る大きな店がね」 「それ、転売ってやつじゃ…」  しずくの心配をよそに、紙織はケロッと言い放った。 「この世の法律なんて狭間には関係ないからね。それにこの街は浮橋たち夢妖が取り仕切っている。だから常識外の値段で売り買いされることはまずないよ。あの一族は強い力を持つからこそ、厳格な掟を定めているからね。浮橋もあんな風貌だけど根はクソ真面目なんだよ」  はぁ、とわかったようなわからないような、曖昧な返事をした。 「じゃあ、ほかの準備を始めようか。さっき渡した髪にこの筆使って名前を書いて。それから髪の毛も一本頂戴するよ」  そう言うと、紙織はしずくに近づき、そっと髪の毛を手で梳いた。長い髪が指に絡み、その一本を紙織は大事そうに紙に挟んだ。その手にしずくは違和感を覚えた。 「…………あの…」 「ん? なあに?」 「……ああ、そうか。初めから特に何も言ってませんでしたね」  妙に納得してしまいそう呟くと、紙織はきょとんと首を傾げた。 「紙織さん、服装から男の人かと思ってたんですけど、女の人…妖? ですか?」  瞬間、紙織は目を丸くした。しまった、としずくは後悔した。人間にも性別で苦しむ人がいるのに、不思議な世界に馴染んでしまったのか、あまりにも直球、不躾に言ってしまった。 「…ああ、そうだね。…そう、言ってなかった。僕の性別は一応女だよ。やっぱり子どもは鋭いね。どうして気づいたの?」  しかし、紙織の反応はあっさりとしたものだった。 「えっと……今、手が…男の人の手じゃないなって思って…。最初から中性的な顔立ちの人だなぁとは思ってましたが、まさか女の人だと思わなくて…すみません」 「いや、謝らなくていいさ。紛らわしい格好をしているのは事実だし。僕は一応『女』だけど、生まれのことを思えば性別なんか正直どちらでもいいんだ」 「生まれ?」  今度はしずくが首を傾げると、紙織はくすりと小さく笑った。 「言っただろう? 僕は人の手紙から生まれた妖。ある女が愛する男に向けて書いた手紙が僕の始まり。そして、男は肌身離さずその手紙を持ち続けていた。手紙に宿った二人の想いが僕を生んだ。だから体つきは女のものでも、男の言葉遣いや性格も覚えているんだ。だから、その日その時、男の服を着て男の口調で話す時もあれば、女の服を着て女の言葉を話す時もある。全ては僕の気分次第なのさ」 「その日の気分で……なんか、いいですねそういうの。自由な感じで」  自分の少ない生涯を振り返ると、子供だからなのか、子供なのにかわからないが、他の子よりも制約が多かったなとしずくは思う。自由があるようで、ないような苦しさがあった。 「…そうか、そんなふうに言ってくれるのか、君は。浮橋にも聞かせてやりたいなぁ」  思いの外、紙織が意外そうに、しかし心底嬉しそうに言うので逆にこちらが照れた。 「浮橋はね、『お前は女なんだから無茶するな』とか『突っ走るな』とかお説教ばかりなんだよ」 「説教されたくなかったら少しは大人しくしてるとありがたいんだがな」  不意に店に響いた低い声の方を見ると、大きな巾着袋をさげて浮橋が帰ってきた。 「おかえり、オトン」 「誰がオトンだ。ほら、これでいいか?」 乱暴に巾着を置くと、紙織が袋を逆さまにして中身をぶちまけた。透明なフィルムに入れられたロリポップチョコレートがいくつもあった。さすが、少し前までバレンタインだっただけのことはある。デザインも色も種類豊富にある。 「これ本当に狭間で売ってるお店があるんですね…」 「…それより、お前の友達が作ったっていうチョコ、こん中に近いヤツあるか?」  浮橋に言われ、しずくは中から何本か手に取ってデザインを見比べた。 「……こんな感じだったと思います」 普通の茶色のチョコレートベースに白いチョコペンか何かでさささっとラインをジグザクに引いたものと、その逆にホワイトチョコベースに茶色のチョコペンでラインを引いたもの。この二種類だ。 「よし、じゃあこれで材料は揃ったね」  紙織はどん、と机にいつの間にか持っていた焦げ茶色の大きなボストンバックを置いた。右下に小さく『手紙屋』という刺繍が入っている。  中からA4サイズの紐でとめられているノートのようなものが取り出された。時代劇で見たことがある。  紙織がそのノートを開くと、見開いたページ全体が薄く青く光る泉のようになっていた。ブルーライトを照らしたクラゲの水槽に似ている。 「じゃあまず、宛名をここに入れて」  しずくは言われるままに『広江真純』と書いた紙を、紙織の指した場所、つまり青い泉に紙を浮かべた。波紋が広がり、紙はゆっくり沈むように姿を消した。 「そしたら次は差出人」 「はい」 「それも入れたらこの髪の毛と想い出の品…チョコを順番に入れて」  先程包んだ紙を開き、現れた髪の毛一本をつまみ、そっと入れた。紙と違い水に沈まないのではと思ったが、予想に反して髪の毛はそっと見えない奥底まで消えていった。チョコは紙よりも早くすっと落ちていく。この正体不明の青い泉に、触れてみたい好奇心と、触れたくない恐怖心が半々くらい湧き上がる。  不意に泉から光が放たれた。青い光が少しずつ大きく、そして白くなり、そこから浮かび上がるように出てきたのは、色とりどりの雫模様がデザインされたメモ帳と、それとお揃いのシャーペンだった。 「…これ、私が真純にもらって使ってたやつと同じものです」 「そう。それなら、いいのが出来たみたいだ」  紙織は満面の笑みを浮かべた。 「じゃあしずくちゃん、僕らは外すからこの紙とペンを使って手紙を書いて。伝えたいこと、思い残すことのないように書くんだよ」 *  考えてみた。例えばあの時、自分が学校を飛び出さずに教室に留まっていたらどうなっていたのかを。  真純はきっとぎこちなく笑って、関谷はどうしただろうか。あの時、申し訳なさそうにしていたのは覚えている。  私は? どんな顔でやり過ごせばよかったのだろう。卒業までもう少しだった。真純のことは話さず、しれっとあの場にいれば良かったのだろうか。受け流せばよかったのだろうか。  しずくは考えた。けれど、考えてみてもわからなかった。  私が真純に遺したい言葉ってなんだろう。何を伝えたいんだろう。それを考えながら書いては書き直し、書いては書き直し。雫模様の入ったメモがあまりに何枚も減るので、間違えたらそのままに下書きとして書き続けた。  散々メモを消費しておきながら、結局一枚の紙におさまった。  うん、これでいい。しずくがペンを置いて手紙を折りたたむと、ペンとメモ帳が光を放ち、そのまま消えてしまった。 * 「すみません、終わりました」  外に出ると、二人は店先の長椅子に腰掛けていた。 「…ちゃんと書けた?」 「……はい。悩んだ挙句、結局一枚に収まりましたけど」 「…そう。じゃあ、最後の仕事だ」  そう言うと、紙織は先程のボストンバッグから火の灯ったガラス製の大きなランタンを出した。 「って、え?! カバンの中にランタン?!」  驚いたしずくが叫ぶように言うと、「お、いい反応」と紙織は嬉しそうに言った。 「このカバン、中身が異次元空間になっているというか…なんでもホイホイ入るんだよね」 「四次元ポケットみたいなものですかね…」 「あー、あの有名な二十二世紀の発明品ね」  知ってるんだ、としずくは心の中で呟いた。 「このランタンは言うなら『ポスト』だよ。書いた手紙をこの火で燃やせば、相手の夢の中に届くようになってるんだ」 「へー、不思議なつくりですね」 「さぁ、しずくちゃん。この中に手紙を入れて。大丈夫、ちゃんと燃えるから」  パカ、とランタンのガラス扉を開けると、蝋燭に灯っていた火がゆらりと揺れた。言われるがままに中に小さく畳んだ手紙を入れると、すぐには燃えず、紙織がパタンと扉を閉めて地面に置いた。やがてオレンジ色の火が青くなったかと思うと、中の手紙は一気に燃え、強い光が空へ真っ直ぐ伸びて行った。飛行機雲のように下から少しずつ光は消え、やがて見えなくなった。 「…これで……届いたんでしょうか」 「ああ。届け先が見つからない時は光の柱が出ないからね。あとは返信が来れば完了だ」 「返信…」  夢の中から返信なんてどうやって来るのだろう。  首を傾げていると、空から一匹の光る蝶が舞うように降りてきた。しずくの前を行ったりきたりするので、思わず人差し指を差し出してみた。蝶はしずくの指に止まると、その光をさらに強め、やがて金色の粉だけたなった。 『しずく…私もしずく大好き。だからこれからも友達でいてね。私がんばるから、いつかそっちにいったらまたいっぱいおしゃべりしてね。大好きだよ、しずく』  聞こえてきた声は間違いなく真純のものだった。姿は見えないが声だけが届いた。 「……紙織さん、今…」 「さっきの蝶々が『返信』だよ。『胡蝶』と僕は呼んでいる。胡蝶は送り主に『声の返信』を届けてくれるんだ。…その様子だと、いい返信をもらえたみたいだね」  紙織はしずくの目に溢れていた涙を拭った。 「…昨日も思ったけど不思議ですね。死んでるのに疲れたり涙が出たりするんだ」  声の震えを抑えるように、しずくは自分で涙を拭った。 「『私、死んじゃったけどこれからも友達でいてね』って書いたんです。色々言いたいことは山ほどあるはずなのに、結局、一番言いたいのはそれだったんです。もう私と友達でいるの嫌かもしれないって心配したけど…杞憂だったみたいです」  そう言うと、しずくの身体が光出した。先程見た胡蝶のまとう光に似ていた。 「ああ、もうあっちに行けるみたいだよ」 「…そうですか」  安堵と不安の入り交じるような複雑な表情を見せた。 「お二人共、本当にありがとうございました。あの世がどんな所なのかわからないけど、私もがんばります。がんばって、遠い先、いつかおばあちゃんになった真純を待ってみます」 「うん、それは楽しみだね」  身体がふわりと宙に浮かんだ。ああ、いよいよ戻れるのか。そう思った時、しずくはハッと思い出した。 「あ、あの、そういえば私、『手紙屋さん』なのにお礼払ってません!」  慌てて言うと、紙織はキョトンと目を丸くし、それからアハハと声を上げて笑った。 「君は本当に出来すぎなくらいいい子だなぁ。大丈夫、君たち迷子相手に商売はしないんだ。それに僕のこの活動は治安維持の部分があって、街を統括してる夢妖の一族から定期的にお礼を頂戴してるんだよ」  紙織が言うと、隣にいた浮橋が首を縦に振った。 「だからもう、なんの心配もいらないよ。ありがとう。君みたいないい子はもう迷子になんかなっちゃいけない。けれど、いつかまた、なにか別の形でまた会おう。今はしばしのお別れだ」  紙織はそう言ってしずくに向かって手を振った。どんどんしずくの身体は空高く上がっていく。少しずつ小さくなる二人に、力いっぱい手を振り返した。 ―はい。またいつか会いたいです。不思議だけど優しい笑顔の妖に。 *  しずくの消えた空を見つめたまま、紙織は言った。 「任務完了。ありがとう、浮橋」 「別に。いつものことだろ」  浮橋はぶっきらぼうに答えた。 「定期報告ついでだしな」 「ああ。それなんだけど、今まだ(あかり)(かがや)が森から帰ってきてないんだよ」  紙織が言うと、知ってる、とため息混じりに浮橋が言った。 「ここ最近の迷子の増加…お前は何が原因だと思う」 「…意図的なものを感じるって言いたいの?」 「…嫌な予感がする」  浮橋の決して消えない眉間のシワがさらに深くなった。 「そうだなぁ。お前の嫌な予感は杞憂に終わる可能性も五分だ、この心配性め」 「お前はお気楽すぎるんだよ」 「だからいいんだろ。お前が肩に力入れすぎている分、僕は力を抜く。僕らは相棒だろう? バランスとらなきゃ」  悪戯っぽく笑う紙織の頭を乱暴にぐしゃぐしゃ撫で回した。 「うわ、何すんだよ。僕の綺麗な髪を」 「いいから寝ろ。手紙の空間越えは体力も妖力も使うんだ。まだいてやるからひとまず寝て体力回復しろ」  そう言って手紙屋の中に浮橋は戻って行った。ふふ、と紙織はいたずらっ子のように笑った。 「僕、浮橋兄ちゃんの膝枕つきがいいなぁ」 「なんでだよ甘えんな。普通の枕使え」 「じゃあ女の子の格好するから膝枕してよ。そっちのが気分いいでしょ?」 「そういう問題じゃねぇよ」  そう言いながらも、結局最後は膝枕をしてくれるのだと紙織は知っていた。
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