70人が本棚に入れています
本棚に追加
第二章 雀の子
薄明るい早朝、夢幻通りの東端、手紙屋の店先、藍色の女物の着物姿で紙織は立っていた。まとめないと邪魔になるほど長い髪の毛を今日はおさげに結っている。注連縄が二本並んでいるように見える。
森の方から光る二つの玉がやってきて、紙織の前で止まった。
「おかえり」
声をかけると、二つの光からパッと掌に乗るほどの小さな妖精が表れた。一人はおかっぱ頭の少女、一人は少年の姿をしている。
「おかえり、灯、燿。森の様子はどうだった?」
紙織が尋ねると、妖精二人は首を横に振った。
「そう。それならいい。疲れたでしょう? しばらく眠ってていいよ」
そう声をかけると、二人はパッと姿を消した。
「さて、今日は異常なし。久しぶりだな、こんな朝」
連日のように森には迷子が現れる。明るい時間ならともかく、夜暗くなってからは物の怪の動きが活発になる為、迷子は早めに保護しなくてはならない。
「二人が休んでる間は、私が頑張らなきゃね」
紙織は店の暖簾を出し、開店を知らせて中に入った。
*
迷子の依頼がない時は、一応通常営業の文房具屋兼郵便局として『手紙屋』を開けている。最も、ここ数ヶ月は迷子が多すぎて通常営業の方ははほとんど行っていない。正直な話、文房具屋兼郵便局としての手紙屋よりも、治安維持や迷子保護活動としての手紙屋の方が、危険も伴うし力もかなり使うがその分収入が大きいので、そちら一本に集中してもよいのだが、文房具屋兼郵便局の需要もある。たまに店を開ければ通常営業の方が忙しくなったりもするのだ。
「いらっしゃいませ。春のお手紙をお探しですか? それでしたらこの桜の手紙なんていかがでしょう? 白っぽく見えますがほんのりと桜色の紙を基調にしてるんですよ。綺麗でしょう?」
「桜以外の春のハガキですか? でしたら菜の花なんかもおすすめですよ」
「笠町までのお届けですね? お急ぎじゃなければ外にポストがあるので、そちらに投函お願いします。お急ぎなら別料金もかかりますが当日配達もできますよ」
今日は通常営業が忙しい方らしい。一人、また一人と客が来る。昼になったら休憩がてら一度店を一度閉めようか、と考えていると聞き慣れた声が店に響いた。
「今日は女仕様なのか」
「ああ、浮橋いらっしゃい。あんたもたまには女の格好してみたら? 案外そのイライラ体質落ち着くかもよ?」
「余計にイライラするわ」
舐めてんのか、と浮橋は紙織を睨んだ。
「で、今日は何の用?」
「糸桜公園で…迷子じゃないんだがちょっと保護した奴がいてな。うちでどうにかしようかと思ったんだが、俺よりお前の方が適任だと思ってな」
おい、入ってこい、と店の外に向かって浮橋は言った。すると、ひょこっと少年が顔をのぞかせた。茶色の髪に茶色の目。顔だけなら人にしか見えないが、微弱な妖力の気配がする。
「あー…あれね。もしかして君、『この世』……つい最近まで普通の動物とかだった?」
少年はこくりと頷いた。
「そんなところにいないで中においで」
手招きすると少年は素直に入ってきた。身体は人なのに対し、肩から下、腕の部分は動物の名残か翼が生えているようだ。袖から羽がちらりと覗いている。
「名前を聞いてもいい?」
「…名前、ない」
「そう。君、雀の子?」
「うん。僕は雀だった。でも、巣立つ前に巣から落ちた。気づいたらこの姿になってた」
パッと少年は翼を広げた。柄は雀そのものなのに人の姿に合わせて大きくなった翼には妙な迫力がある。だが、外から入る光に透けて茶色にも生成にも見える羽根が美しい。
「この子…なんで糸桜公園なんかにいたの? 元々はこの世にいた子でしょう? どうやって狭間に…糸桜公園が入口になったのかな?」
「それがわからん。妖化同様、公園にも気づいたらいたと話している。見つけたのは一族の者だ。明らかに『なりたて』で妖気が不安定だから保護したらしい」
「ああ、今日夢妖たちの花見の日だっけ」
「俺は不参加だがな」
忙しいのに花見なんかやってられるか、と浮橋は乱暴に言い放った。
「確かに妖気が不安定だね。君、何か向こうに心残りがあるの?」
妖になりたてで不安定な生き物も、物の怪に取り込まれてしまう可能性がある。幸い、物の怪の頻出する場ではなかったから良いものの、もし雀の子が森に迷い込んだら危なかったかもしれない。摘み取れる不安定要素は早めに摘み取るに越したことはない。
「心残り?」
「元いた場所に何か気になることはある?」
「気になること…」
言葉を覚えたての子どものように雀の子は紙織の言葉を繰り返した。
「僕を助けてくれたおじいさんはどうなったかな」
「おじいさん?」
「そう。巣から落ちて猫に食べられそうなところを助けてくれた人間のおじいさんがいたの。怪我してた僕を『びょういん』ってところに連れてってくれたけど、野鳥は治せないんだって断られて、僕を元いた木のそばに戻してくれたの。おじいさん、ずっと僕に謝ってた」
それが雀の子の気になることらしい。
「おじいさんは僕を助けちゃダメだったの? 悪いことをしたの?」
「ううん、してないよ。ただ、人の世界には小難しい決まりがいくつもあってね。そのうちの一つに引っかかってしまった。それだけのことだよ」
「そう…なの……」
雀の子はしゅんと肩を落とした。紙織は浮橋を見た。目が合い数秒見つめ合えば、言葉を交わさずとも、浮橋が雀の子をここへ連れてきた理由に察しがついた。
「明け方まで巡回してくれてたから今疲れてると思うんだけど…まぁいいか。灯、燿、起きれる?」
両手を前に出し声をかけると、それぞれの掌にパッと男女の童子姿の妖精が姿を現した。
「ごめんね。疲れてると思うんだけど、少しこの子と遊んでやってくれないかな。元雀の子らしいんだ」
紙織が言うと、灯と燿はポンっという酒瓶の栓を抜いたような音と同時に姿を変えた。二羽の雀がチュンチュンと鳴きながら雀の子の周りを飛び回っている。
「その子らは私の友達で、女の子の方が灯、男の子が燿。一度見た事のある動物の姿を真似ることが出来るんだ」
「…すごい。僕のきょうだいを思い出すよ」
雀の子はここに来て初めて笑顔を見せた。ちょっと三人で遊んでて、と伝え、紙織は浮橋に近づき声を落として話しかけた。
「…さて。ここからどうする? それ相談するために残ってくれてるんでしょ?」
はぁ、とため息を吐き、浮橋は赤毛頭をボリボリかいた。
「なりたての妖は迷子と変わんねぇ。けど、不安定な妖気と精神のどっちか一つでも安定させりゃ一安心だ」
「で、ここに来たわけね。私が適任というか、灯と燿が適任だったわけだけど」
灯と燿は言葉を話さないが、チュンチュンとさえずるだけでも雀の子には慰めになるらしい。表情が明るくなっている。
「ねぇ、糸桜公園にいたんだよね?」
「ああ、そうだが」
「よし、じゃあ決めた」
紙織は遊んでいる雀の子に近づき、頭にぽんと手を置いた。
「君の名前は『糸桜』と書いて『糸桜』。糸桜は枝垂桜の別名だよ。君のいた場所からつけたんだけど、どうかな?」
紙織が尋ねると、雀の子は首を傾げた。
「しおう…僕の名前、糸桜っていうの?」
「君が気に入ってくれたならね」
「……気に入った!」
すると、糸桜と名付けられた雀の子は、灯と燿に向かって「僕の名前、糸桜って言うんだって」 と嬉しそうに話した。
「名前か。たしかに、名のある生き物はそれだけで 安定するな」
「うん。自分が誰なのか、何なのか。それがハッキリするからね」
しかし…、と紙織は親指を顎に当てた。
「おじいさんか…。浮橋、あの子の記憶探った?」
「ああ。一応顔は映ってたが、名前はわかんなかったな」
「名前がわからないと私の手紙は送れないなぁ」
紙織のつくる手紙において、宛名は住所を兼ねるものだ。
「だが大丈夫だ。今、ちょうど一族のものをこの世に派遣してるんだ。あいつの記憶から読み取った情報を元に、じーさんの場所探して名前を調べてもらってる」
紙織はぽかんと口を開けた。数秒、浮橋を見つめたあと、彼の背中をばしばしと叩いた。
「うーきーはーしー! さすがは夢妖の若長だな。仕事が早くて助かるよ!」
「叩くな叩くな、痛てぇから。それにまだ解決したわけじゃねぇぞ。あいつあの手で手紙なんか書けんのか?」
浮橋は糸桜の翼を指さした。あの翼は筆を持つのに適した手ではない。鳥の妖でも妖力の高いものは器用に翼を使いこなしているのだが、なりたての糸桜には無理だろう。だが、紙織には策があった。
「その心配ならいらないよ。実は昔、代筆したことがあるんだ」
「代筆? それで届くもんなのか?」
「一か八かでやったら出来た。何でもやってみるもんなんだね」
ふふふ、と紙織は得意気に笑った。
「…お前には話してなかったが、この最近、迷子の増加もそうなんだが、あいつみたいななりたての妖がウロウロしてる事があるんだ」
突然、浮橋の声色が変わった。妙な緊張感と、微かに嫌悪感がある。
「なりたての妖は物の怪に取り込まれやすい。けどそれ以上に、妖の物の怪化が一番厄介だ」
妖には大なり小なり力がある。そこが迷子との決定的な違いだ。不安定なまま彷徨い続ければ、物の怪に取り込まれるのとはまた別に、新たな物の怪が誕生してしまう。物の怪の増加は治安の悪化に繋がる。夢幻通りを治める一族として、今一番取り急ぎ解決しなくてはならない問題なのだ。
「物の怪って結局なんなんだろうね。今のところ東の森でよく確認されるけど、襲われるのは迷子となりたての妖…不安定な者だけ。街も特に襲われることは無い。まぁ、だからこそ放っておいているのだけど」
「変に攻撃して、かえって街が襲われても困るしな」
「近づいてきたら追い払う。それが最善策さ」
打つ手なしという今の状況に歯がゆさを感じているのだろう。浮橋は歯噛みした。
「ま、今は先にあの子のことね。名前を与え、精神的な安らぎも得たからひとまずは安心していいでしょう。私は浮橋の一族が調べてくれてるっていうおじいさんの情報を待つよ。今日はあの子、私が預かるから、浮橋は情報が来たらいち早く私に教えて」
*
紙織はその日、夢を見た。ああ、これはあの子の夢かと、糸桜と名付けた雀の子のことを想った。
幼い糸桜は親鳥から餌をねだるきょうだいたちとのささやかな抗争の末、誤って木から落ちた。幸い大きな怪我はなかったものの、多少の擦り傷のようなものは出来た。
親鳥は助けに来なかった。餌を与えるのに夢中で、一匹落ちたことに気づいていない。
そして、そこに猫がやってきた。ああもう、絶体絶命と思われたその瞬間、雛鳥の身体は宙に浮いた。
「こりゃ、この子は食っちゃいかん。お前さんどこかの飼い猫だろう。なら、きちんと家でご飯を貰いなさい。この子はダメだよ」
宙に浮いたのではない。この老人の手に救われたのだ。
「ああ、少し血が出ているな。病院に連れていけばいいんだろうか」
けれど、野鳥は病院で診ることは出来ない。結局、老人は医師に言われたように元の場所に雀の子を返した。できるだけ木の高いところに。
「ごめんな、ごめんな…。中途半端に手を出してしまって…ごめんな。どうか、元気になるんだぞ」
老人は何度も振り返り、名残惜しそうに去っていった。
ああ、おじいさん、大丈夫だよ。そんなに心配しないで。僕は大丈夫。だって生きてるから。こんな怪我、なんてことないよ。大丈夫。大丈夫だよ。
「本当に大丈夫なの?」
*
はっ、と紙織は目を覚ました。
隣には、丸くなって自身の翼を掛け布団のようにして眠る糸桜と、その傍らに人型で仰向けになって眠る灯と燿がいた。
「…あの声……」
紙織は頭を抱えた。長く伸びた髪の毛が顔を覆う。
「……浮橋…」
風貌に似合わずくそ真面目な腐れ縁の妖の顔を思い浮かべた。毎日、街のために動き回る赤毛の夢妖は、おそらく今日も、糸桜を助けようとした老人の情報かき集めさせているのだろう。そして、迷子の増加やなりたての妖の出没原因も同時に調べているはずだ。
「あいつ、この声聞いたのか…?」
*
浮橋は朝からやってきた。
「今日は男仕様か…」
髪の毛は一つに束ね、学ランに身を包んでいる。
「最近男仕様の時はそれが多いな」
「動きやすいんだよ、特に仕事の時はね」
「動きやすさなら俺みたいな裁着袴とかでもいいと思うけどな」
「袴は着るのがめんどくさいんだよ」
洋装の方が着るのは圧倒的に楽なんだよ、と紙織は学生帽を被った。
「わかったぞ、じーさんの名前」
そう言って浮橋は紙を一枚手渡した。大槌賢二郎。名さえわかれば、と紙織は得意気に笑った。
「さぁ、仕事の時間だ、浮橋」
紙織は糸桜を店に呼んだ。糸桜は昨日まで女の姿をしていた紙織が、急に男のような服装に男のような話し方をしていることに首を傾げた。が、老人の話をすればすぐさま食いついた。
「糸桜、君を助けようとしてくれたおじいさんだけどね、元気にしているそうだよ」
「本当?」
「ああ。それでね、僕の力を使えばおじいさんに手紙が出せるんだけど、どうだい? おじいさんに伝えたいことはあるかい?」
え、と糸桜は首を傾げた。
「君、向こうに心残りがあるのか聞いたらおじいさんのことを言っただろう? 君の心残りはそれだ。そしてそれがなくなれば、君の妖気も安定してくるだろう。そうすれば、君を取り囲む危険が減る。文字通り『元気になる』んだ」
「僕……文字が書けないよ」
「大丈夫。そこは僕が代筆するから」
明るい声音で紙織が言うと、糸桜はうん、と答えた。
「あ、そうだ。お代の事なんだけどね、迷子からは貰ってないけど、妖からは基本頂くようにしてるんだ」
「お代? 僕お金とかないよ」
「うん。それはわかってる。で、提案なんだ。君には僕の仕事の手伝いをしてもらいたい。お給金の中から少しづつ、今回のお代を引いていく。支払いが完了したらあとは自由だ。ここに残るもよし、好きな所へ旅立つもよし。どうだろう?」
糸桜は右へ左へ首を傾げた。そして、考えがまとまったらしい。
「わかった。紙織と浮橋がいいと思うようにして。僕を最初に助けてくれたのはおじいさんだけど、今の僕を助けてくれたのは二人だから」
「よし、契約成立だ」
紙織は例の『手紙屋』と刺繍の入った鞄から紙を二枚と筆を取り出した。
「糸桜、君の代わりに僕が手紙を書く。その為に代筆用の墨をつくるから、申し訳ないんだけど、君の血を一滴貰ってもいいかな」
そう言って、少量の墨の入った小さな小瓶を出した。手には針も持っている。
「痛くない?」
「チクッとするくらいかな」
恐る恐る糸桜は足を差し出した。よしよし、と紙織は親指に針を指し、溢れた血の一滴を零さぬように小瓶に入れた。黒い液体は一瞬光を放ったが、それも収まればただの黒い墨に戻っていた。
「よし。じゃあこれで準備は完了」
出来上がった代筆用墨を筆につけ、それぞれの紙に名前を書いた。宛名は大槌賢二郎。差出人は糸桜。体の一部は今朝拾っておいた糸桜の羽根を、開いた『手帳』に順番に入れていく。想い出の品は今回はないが、墨に糸桜の血が混じっているため、強度は万全だろう。
手帳から放たれた青い光から出てきたのは、羽根ペンと淡い桜色の紙が一枚。
「あ、これ僕のいた木の花に色が似てる」
紙をさして糸桜が言った。
「ちゃんと聞かなかったけど、糸桜って向こうでも枝垂れ桜のそばにいたんでしょ?」
「枝垂れ桜?」
「公園で見ていた花があるでしょう? あれがそうだよ」
「ああ、うん。同じ花だなぁと思って見てた」
「そう。じゃあ…いい手紙が出来たみたいだ」
紙織は笑った。肩の力が抜けたような笑顔だった。
糸桜の伝えたいことは一言だった。紙織は糸桜の代わりに丁寧に言葉を紡いだ。
『ぼくはげんきだよ』
店の外にポストであるランタンを持っていき、灯した火で手紙を燃やした。オレンジの光が青くなれば届け先を確認した証だ。あとは空へと光が伸びていき、やがて飛行機雲のように少しづつ消えていく。
「そういやこれ、なんでいつも店先でやるんだ? 屋内でもできるんだろ?」
「できるけど、この見事な彗星のような美しい光は外じゃないと見られないからな。どうせなら美しい方がいい」
紙織が言うと、「そうかい」とつまらなそうに浮橋は答えた。
そんなことを言っていると、空から光る蝶がやってきた。蝶はキョトンとしている糸桜の前で羽ばたきながら止まる場所を探している。
「糸桜、蝶を翼に乗せてあげて」
言われるがままに下ろしていた翼を顔の前に持ってくると、羽の先に蝶が止まった。
パァっと明るさが強くなったかと思うと、蝶の姿は金色の鱗粉に変わった。
『そうか。お前さん、あの時の雀か。よかった…元気でやってくんだぞ』
代筆した紙織にもその声は届いた。低くて嗄れていて、でも優しさの滲み出ているような暖かな声だった。
―そうか、この声に君は懐いたんだね、糸桜。
明確な理由なんかわからないけれど、心惹かれる何かは確かにある。救ってくれた手の温かさやこの声が、糸桜の琴線に触れたのだろう。
糸桜の耳にも返信は届いたようだ。うっすらと涙が浮かんでいる。
「…うん、うん。ありがとう、おじいさん」
その瞬間、糸桜を取り巻いていた不安定だった妖気がシュッと一点に集まったような、そんな感覚がした。広がり続けていた波紋が静まったような、誰も遊んでいないのに名残で揺れ続けていたブランコが止まった時のような。表現しがたい感覚だが、経験則から、糸桜の妖気が定まるところに定まったらしい。
紙織が浮橋を見ると、彼もその感覚を受信したようで、滅多に和らがない彼の眉間の皺がほんの少し薄れたのを紙織は見逃さなかった。
*
「さて、じゃあ今日から早速お仕事です。糸桜には簡単なお仕事を手伝ってもらいます。まずは掃除からかな」
「うん、僕がんばるよ!」
「いいお返事。じゃあ灯と燿に教わって。二人は君の先輩だから」
三人というのか、二人と一羽と言うべきなのか。いまいち単位がわからないその組み合わせは、親しげに店の中へと戻った。
「……お前、何を見たんだ」
背後からかかった声に、その顔を見なくても先程薄れた皺が再び深く刻まれたのだろうことがわかった。
「見ちゃいないさ。…聞いただけで。その様子だと、浮橋こそ何か見たの?」
「俺も見てないさ。…声を聞いただけで」
紙織は浮橋に向き合った。
「……どうして私にも最初から言ってくれなかったの? やけに仕事が早かったのも、本当はそっちが気になってたからなんじゃない?」
「その格好で女口調するな。なんかチグハグしてて気持ち悪い」
「はぐらかさないで」
はぁ、と浮橋はため息をついた。
「……お前が糸桜の夢を見ようが見まいがどちらでもいいと思った。糸桜に確認したが、あいつはじいさんと別れたあと、いつどんな風に妖化したか覚えてないし、公園にどうやって来たのかも覚えていないらしいんだ。…記憶をごっそり取られている可能性がある。そして、そんなことできるのは俺らのように夢を操る妖だけだ」
「記憶を取る行為は一歩間違えれば命の危険を伴う。それ故に取れる量や質を夢妖一族は厳格に定めている。…とは言っても、ほとんどの一族が命に影響与えるほど記憶を抜き取る力なんか持っちゃいない。それができるのは大長や若長の浮橋と…」
「華胥」
濁した先をはっきりと浮橋は口にした。
「だが、今回抜けてる糸桜の記憶は、恐らくだが命の危機に陥るほどの量じゃない。それにあいつが糸桜に関わったという証拠はない。…が、一言だけ記憶に…夢に残っていたあの声が気になる」
その目に宿る強い怒りに、気づくなという方が無理だろう。下手な妖は近づくのも恐ろしくなるだろうその形相は、糸桜たちには見せられない。紙織は背中をバシンと叩いた。
「今は考えても仕方ないでしょ。糸桜のことは私が見てる。だから」
「お前だって危ないだろ!」
安心して、という言葉を浮橋は遮った。怒っているのに泣き出しそうな顔で、睨むようにこちらを見ている。
「だから、私にくれたんでしょ? このお守り」
制服の下に隠していたガラス玉のような丸くて透明な石のついた首飾りを見せた。
「大丈夫。いつも持ってる。私だってそんなに弱い妖じゃない。弱くないけど、それ以上にあんたが私のこと守ってくれるんでしょ? なら私は大丈夫。あんたと私の力を合わせたら誰にだって負けない」
紙織も浮橋を睨み返した。しばらく黙ったまま睨み合いが続いたが、やがて観念したように浮橋がため息をついた。
「…だから、その格好で女口調やめろ。気持ち悪い」
「わがままだなぁ。男の格好することにだって文句言うくせに」
「うるせぇ、いい加減お前の男姿にも慣れちまったんだよ」
いつもの調子が戻ってきた浮橋に、紙織は安堵の笑みをこぼした。
「あ、ねぇ。僕らもお花見しようよ。糸桜公園は調度見頃なわけだろう?」
「なんで俺まで」
「糸桜の歓迎会も兼ねてな。人数は多い方がいいから」
さて、酒でも持っていこうか、と糸桜は台所に向かった。
最初のコメントを投稿しよう!