第三章 あじさい茶屋

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 狭間(はざま)の世界はこの世の影響を受けやすい。ここ数年の異常気象は狭間でも見受けられた。 「そのおかげで今年はうちが繁盛してるんですけどねぇ」  花風は洗濯の山に囲まれながらおっとりとした口調で言った。 「今年の梅雨は長いからなぁ。この二年か三年は梅雨らしい梅雨がなかったし」  はいどうぞ、と預けていた紙織は洗濯物を手渡された。 「紙織さん、最近そのお姿を見ることが多いわね」 「ああ、学ラン? 楽なんだよ、これ。中のシャツさえ洗濯すれば、上着は基本的に部屋干しだけでいいし、何よりも動きやすいんだ」  足も堂々広げられるしね、と仁王立ちでふんぞり返って見せれば、花風はくすくす笑った。 「あ、そう言えば、先日浮橋さんが家に来たわよ」 「浮橋が?」  ふとここ数日、浮橋と顔を合わせていないことに気づいた。 「浮橋さん、何だか忙しそうにしているみたいね。夢妖の一族の方何人かといらして、二、三質問をされたわ」 「最近変わったことは無いかとか、妙な気配を感じたら知らせてくれとか、あとあじさい茶屋の二人についても聞かれたな」 「やあ、喜晴。すごい量だな」  奥から籠いっぱいに衣服を乗せて喜晴がやってきた。 「浮橋、紙織のところには行かなかったのか? 俺らにはあじさい茶屋の二人と接触したことはあるかと尋ねてきたぞ」 「僕のところには来てないな。もしかしたら店を留守にしていた時に来たのかもしれないけど…。二人についてはなんて?」  喜晴は渋い顔をして答えた。 「まぁだいぶ濁してはいたけど、要はきな臭くないかって話だ。でも変なんだよなぁ。夢幻で店を構えるには夢妖一族の許可が必要だろ? きな臭かったらその時はじいてただろうに今更なんなんだろうな」  この数ヶ月は迷子の増加に伴う東の森の調査も兼ねて、浮橋とはほぼ毎日のように会っていた。彼は夢幻の若長として多忙な身で、以前はひと月一度も顔を合わせないこともあった為、今になってそのことに気がついたのだ。 「…あいつが僕に何も言わないってことは、いい話ではないが、大きな危険が迫っているわけじゃないってことだな」 「そうだと思うぞ。事情はありそうだが普通の狐だったと俺らは伝えたが、特別あの二人を警戒するよう言われたわけではないからな」  それについては紙織も同意見だ。だからこそ、灯と燿が一緒とはいえ、糸桜をあじさい茶屋に置いてきたのだ。 「…紙織、お前も薄々わかっちゃいるんだろうが、浮橋が妙に躍起になってるのは、十中八九」  話しかけていた喜晴の口元に人差し指をピッと立てた。 「ダメだよ、喜晴。まだわかってないことが多いんだ。不用意にその名は口にしちゃいけない。名を呼べば寄ってきてしまうよ」  目を細め口元には笑みを浮かべているが、妖艶にも今にも泣き出しそうな子供のようにも見え、喜晴は言葉を失った。 「じゃあね。そろそろ糸桜たちを迎えに行かないと」  肩から下げていた『手紙屋』という刺繍入りのボストンバッグに麻袋を押し込み、雨の降る夢幻通りへ、紙織は傘を開いて出て行った。 *  あじさい茶屋に着くと、珍しいことにカウンターには白星がいた。 「もしかして、まだ特訓中?」 「はい。そろそろいらっしゃるかと思って実はコーヒーを用意していたんですけど、よかったらいかがですか?」 「サービス?」  悪戯っぽく尋ねると、彼女ははほんの少し口元を緩めた。 「もちろんです。手紙屋さんにはお世話になっておりますから」  店内を見渡すと客は誰もいなかった。あじさい茶屋は昼食と夕食の間に休憩を設けている為、今はちょうどその間の時間にあたるのだ。  どうぞ、と案内されたのは白星の目の前のカウンター席だった。空いてる隣の席にカバンを乗せ、自分も椅子に腰掛けた。 「世話になってるのはうちの糸桜のはずなんだけどな」 「いいえ。手紙屋さんがこうして通ってくださるから、お客様が増えたんですよ。新しくお店を構えたものの、山の中に建ててしまったし、大した宣伝もしなかったから客足が中々…。最近ようやく、この街の一員になれたような気がします」 初めて会った頃の白星は、厨房からあまり姿を見せず警戒心が強かったが、糸桜を連れて何度か足を運ぶうち、表情も少し柔らかくなってきた。  淹れ立てのコーヒーがカウンターに出され、冷めないうちにとすぐに頂いた。今日のコーヒーは酸味の効いた浅煎りの豆らしい。 「それに、黒丸の手紙を届けてくださったんですよね。玄美(げんび)様…黒丸のお母上からお返事も来ました。ありがとうございます」 「そうか。それはよかった。白星も誰かに手紙を出したい時はいつでも頼ってくれ。コーヒーのお礼に格安で請け負うよ」  紙織は再びコーヒーを口につけた。あじさい茶屋は西洋のテーブルや椅子が運び込まれているものの、その造りは日本の木造家屋だ。夢幻の街並みも江戸時代のまま。その風景にコーヒーの香りが漂うというのは、なんとも不思議な気分だ。しかし、古民家カフェとはこういうものだ。 「…手紙屋さん」  声をかけられ白星を見ると、神妙な面持ちで紙織を正面から見据えていた。 「名前さえわかればどこにいても誰にでも手紙を届けられる、というのは本当なのでしょうか」 「ああ、一応はね」 「…条件があるということですか?」  ああ、とカップをソーサーに乗せた。 「まず第一に、相手の名前は正確な名前であること。例えば最近のこの世の人間なら苗字名前のフルネーム。妖は苗字なんてないものが多いから、より正確性を求める場合、例えば僕なら『手紙屋の紙織』、君なら『あじさい茶屋の白星』とかわかっていることがあれば名前の前に入れた方がいい。第二に、必ず差出人の身体の一部がいる。髪の毛一本とかで十分なんだけど、これには二つ意味がある。一つは送り先を間違えない為に。一つは相手への想いをより強める為に」 「送り先を間違えない為に髪が必要なのですか?」 「例えば『紙織』って名前だけだと『どこの紙織』かわからないんだよ。人間なんて特に、珍しくない苗字に珍しくない名前が重なれば同姓同名が山ほど現れる。そこで身体の一部から読み取る記憶が必要になる。この差出人と関わりのある『紙織』は誰かっていう確認の為にね」  なるほど、と白星は相槌を打った。 「そしてその記憶は手紙を書くにあたり、相手への想いを強める。君が噂で聞いた『名前だけで相手に届く』手紙は、僕が一からつくりだす手紙だ。書く時は紙と筆を使うが、相手には『手紙』の形を取らず、『夢』として映像を見せる。だから僕はこれを『夢手紙』と呼んでいる。想いが強ければ強いほど、夢は色鮮やかに、声も透き通りよく届く」 「先日、黒丸が母君に手紙を出した時は、普通の手紙だったと言っておりました」 「ああ。あれは普通の手紙だったからね。狭間からこの世へと渡さなきゃいけない場合でも、妖同士で相手の名も場所もわかっているなら普通の手紙で十分さ。僕が一からつくるのはそれが出来ない場合。基本的には死者から生者へ、妖から人へ。生き物としての次元を越えなきゃいけないときだけだ。夢手紙をつくるには結構な力がいるんだ。ほいほいつくっていられないから、少々制限を儲けているのさ」 「そうですか……」  肩を落とす白星に目をやりつつ、紙織は再びコーヒーを口に運んだ。酸味の効いたコーヒーは冷めるとさらに酸味が強く感じるようになってしまう。温かいうちに飲み干すのがいい。空になったカップをごちそうさま、と白星の方に差し出せば、ありがとうございますと柔らかく微笑んだ。 「さて、頂いたコーヒーの分、お仕事しないとね」 「え?」  首を傾げた白星に向け、悪戯を実行する子供のように笑って見せた。よいしょ、と『手紙屋』という刺繍の施されたボストンバッグをカウンターに乗せ、高らかに宣言した。 「夢幻通りの手紙屋、紙織。本日は出張サービスに参りました」  目を丸くする彼女を見て、紙織は満足そうに笑った。 「あ、言っておくけど黒丸から何か聞いたわけじゃないよ? ただ、僕が思い出しただけなんだ」 「……何を…ですか?」  白星は眉を顰めた。 「僕は時々この世に視察へ行くんだ。こんな仕事をしてるから人の世情疎いのはよくないし、人間界にある手紙とか文房具とか集めに行ったりするんだ。あれは……もう十年くらい前かな? とある喫茶店で妖仲間からこっそり聞いた話があった。その店の主人は人間だが、ほか従業員二名は人に化けている二匹の狐で、女の方はその昔、山神に仕えていた神獣だったらしいと。その神獣が君だね? 白星」  はっと息を飲み、紙織の目線から逃げるように俯いた。胸の前でギュッときつく拳を作っている。 「…どこまで……ご存知なのですか?」 「正確なことは何一つ知らないよ。僕が聞いたのはあくまで噂だ。だから僕も量りかねている。君に必要なのは普通の手紙なのか、僕が一からつくる夢手紙の方なのか。黒丸が言っていた『白星の想い』というのは『誰に』届けるべきなのか。できれば君の口から聞かせて欲しい。紫陽花山のことや、四葩(よひら)という紫陽花化身のことを」  拳を握りしめて俯いていた白星は、ゆっくりと顔をあげ、何かを見極めるように紙織を真っ直ぐ見つめた。やがて、深呼吸を一度だけすると、意を決したように口を開いた。 「…お隣、よろしいですか?」 「もちろん」  カウンターから出て、白星は紙織の隣の椅子に腰を下ろした。頭巾もエプロンも外し、お団子にまとめていた髪も解き、結んでいたことを感じさせないほどくせがない、真っ直ぐで真っ白な髪が背中に垂れた。一連の動作が妙に洗練されており、その美しさに紙織は見とれた。 「もう百年以上前のことです。私がお仕えする山神様のお山に、ある年、流行病で亡くなった麓の村の人々の墓場がつくられました。すると、山に未練ある死者の魂が溢れるようになったのです。死者の魂に怯え、生き物が寄り付かなくなり、困った山神様は、ある日人間が手向けの花として墓場に植えて行った紫陽花が咲いているのに気づきました。山神様がその花に息を吹きかけると、青みがかった紫の美しい髪を持つ女の姿へと形を変えました。山神様は紫陽花の化身に四葩(よひら)と名を与え、姿と名のお礼にと、四葩は舞を舞いました。すると、四葩の美しい舞は雨を降らし、その雨に当たった死者の魂は次々にあの世に続く道に渡りました。どうやら、四葩が舞うことで降る雨には浄化と癒しの力があったみたいなのです。以降、四葩は舞うことが『手向けの花』としての己が役目とし、墓場にやってくる死者たちを癒しました」  四葩の舞はとても美しく、癒されたのは死者だけではなく、山神や自分たちもだったと懐かしむように語った。 「四葩が生まれ、一年くらい経った頃でした。一人の男が亡くなった少女を埋葬する為、墓場にやって来たのです。男は少女を埋めた後も、その場でずっと泣き続けました。隠れていた四葩は堪らず、男の前に姿を見せ、彼の前で舞いました。四葩の降らせた雨は男の涙を隠し、舞は男の心を慰め……そして、二人は惹かれあってしまった」  それ自体は悪いことではないはずだ。何がいけなかったのだろうかと、白星は今考えてもわからないと言った。 「男が埋葬した少女は彼の妹でした。両親も早くに亡くなり、きょうだい二人で生きてきたというのに、妹を亡くし途方に暮れていたところを四葩が癒したのです。四葩もまた、自分の隣で少しずつ明るさを取り戻し、笑顔を向けてくれる男に惹かれていきました。最初は山で言葉を交わすだけだった。けれど、想いが募ればそれだけでは足りなくなる。四葩は山を出て彼の元で暮らしたいと山神様に申し出ました。当然、山神様は反対されました。山を出ることは山神様の加護が無くなるということ。そうなっては四葩は生きられないのです。しかし、四葩は諦めようとはせず、山神様は四葩の頭が冷えるまでと洞穴に閉じ込め、我々神獣に見張るように言いつけました」  四葩は毎日泣き続けた。泣いて泣いて、そのまま消えてしまうのではないかと思うほどに泣き続けたという。  そして、その日はやってきた。 「男もまた、四葩を諦めませんでした。あの日、男は四葩のいる洞穴に自力でたどり着き、そして当時の見張り番だった私に語りました。どれほど四葩を想っているか、四葩をも失ってしまうのは嫌だと。………なぜ私は、あの時結界を解いてしまったのでしょう。なぜ私は、止めるべき立場でありながら、男の手を取って山を出ていく四葩を見送ってしまったのでしょう」  白星はポロポロと涙を零した。 「……山神様は私をお叱りになりませんでした。もうわかっておられたようです。四葩が自分の命が終わろうとも、あの男といってしまうこと。案の定、四葩の命は長くは持ちませんでした。加護はなくなり、紫陽花の季節が終わる頃、四葩の命は終わりました。  覚悟されていたとはいえ、山神様は四葩を失った悲しみから三日三晩泣き続けました。山神様の涙は雨となり、山から流れる川は氾濫し、麓の村に大きな被害を及ぼしました。たくさんの生き物が、人が亡くなったのです」  山神は愛していた。山も、動物も生き物も、山神は山の全てを愛していた。その山神の愛する山が、己の涙で壊れてしまった。 「私が壊してしまった。引き金を引いてしまった。どこまで時を巻き戻せば、あの日々は帰ってくるのかと。あの時結界を解かなければ、そもそも最初の出会いから四葩を止めていれば、こんなことにはならなかったかもしれないと…悔いても悔やみきれなかった。それでも、山神様はわたしをお叱りにはなりませんでした。…耐えられなくなった私は、山を飛び出しました」 「……飛び出してどこへ行ったの?」 「…あの男を追いかけました」  紙織が尋ねると、白星は涙を拭って深呼吸をした。 「あの男の匂いがしたんです。彼は生きていました。氾濫を逃れ生き延びたものの、壊滅状態となった村にはいられなかったようで、少ない荷物を持って旅に出ました。私は彼を追いました。気になったんです。家族を失い、四葩も失いたくないと言っていたあの男がどうやって生きていくのか。加護がなければ生きられないとあの男に私は告げました。それでも、失うとわかっていてそれでも四葩の手を取ったのは何故なのか…見極めたかったのです」  ずっと前を見て話していた白星が、初めて紙織の方を見た。力なく、何かを諦めたような笑みを口元に浮かべていた。 「少し話を端折ります。旅の途中、男は四葩の記憶を失くしました。四葩を忘れた男は旅先で出会った女と結ばれ、子を授かりました。やがて年老いてその命を終えましたが、私は男の残した血を…彼の子孫を見届けることにしました」 「何故?」 「……忘れたようで、忘れられないことってあるみたいなんです。男は生涯、紫陽花の花を愛し続けました。だから私は見届けたくなったんです。その命を。私がしでかしてしまった事のどこかに救いがあればと……」 「…救いはあった?」  紙織の問いに、白星はしばしの間を置いた。考えた結果、彼女は首を横に振った。 「わからないです。ただ、あなたが先程仰ってた十年ほど前の喫茶店の主人、あれはあの男の最後の子孫でした」 「最後の?」 「正確に言うと、あの男の長男筋を辿っただけなので、もしかしたらどこかでまだ彼の血筋の者が生きているかもしれませんが、あの喫茶店の主人はきょうだいを皆幼い頃に亡くしていて、自身は未婚だったのです。子はなく、彼の命が幕を閉じるところを見届ける為に、私と黒丸は人に化けてあの店で働いていたのです。そして全てが終わり、私たちはここに流れ着きました」 「黒丸とはいつ出会ったんだい?」 「あの男の行く末を追いかけている時です。ほとんど最初から、たまたま出会っただけの私を心配し、故郷を出て私について来てくれました」  懐かしそうに、そして嬉しそうに目を細めた。 「黒丸が言っていたね。『白星の想いをある方に届けて欲しい』って。『ある方』っていうのは誰のことなのかな」 「…山神様のことでしょうね。あの後、山神様は氾濫で沈んだ村やお山が息を吹き返すところを見届けた後、新しい神を立ててご自身は天上にお帰りになられたと風の噂で聞きました。今どのようにお過ごしになられているのかわからないのです」 「……白星は山神様に何か伝えたいことがあるの?」  白星は首を横に振った。 「想う事がありすぎて、私にはよくわかりません。ただ、そばで見ていた黒丸がそう思うなら……きっとあるのでしょうね。上手く言葉に出来ない伝えたいことが。それに……神獣のきょうだいたちも」  ふと、店の中に陽が射してきた。どうやら雨が上がったらしい。 「白星、外の空気を吸いに行かないか?」  白星は素直に紙織と外へ出た。雨上がりの山は木々が水をまとい、空気がひんやりとしている。  紫陽花という花は雨との相性がいいのだろう。陽の光を紫陽花の葉に溜まる水滴が反射し、キラキラと輝いている。 「ここは故郷のお山を思い出します。季節が巡るとこんな風に紫陽花がたくさんの花を咲かせました」  白星はそっと紫陽花に触れた。愛おしげな彼女の横顔を見ながら紙織は告げた。 「結論から言う。僕の手紙は天上には届かない」  ゆっくりとこちらに振り向き、白星は花に触れていた手も下ろした。 「僕の手紙が届かない場所が二つある。それがあの世と天上…神々だけが住める国だ。僕の力は生き物が干渉できるだけの範囲…この世と狭間までしか届かない。だから、もし君が山神様に手紙を書いたとしても、名前と所在がわかっていても、神の領域には届かない」 「私も神獣の端くれですから。神々の国に干渉できるのは神々だけ。それはわかっておりましたよ」  黒丸はわかっていなかったようですが、と苦笑した。 「でも、山には届く。それも、僕みたいな特別な力を使わなくても普通に届けられたはず。だけど君はきょうだいたちにも自分の所在や息災であることを知らせてはいないんだろう? それはやっぱり、合わせる顔がないと思っているからかい?」  ええ、と白星は深く頷いた。 「私は山を飛び出しました。山神様のように村やお山を見届けることなく、全ての責任を放棄して…。なのに今更家族に…きょうだいに連絡を取るなどだきません」 「そうか…それなら、僕の夢手紙の出番だな」  にっ、と歯を見せて紙織は笑った。 「夢手紙は形を残さない手紙だ。夢を見せたらそれきり、二度と再生されない証拠の残らない手紙としても使えるんだよ」  え、と白星は目を丸くした。 「……それはつまり、きょうだいたちに夢手紙を出す、ということですか?」 「ああ。天上は無理でも君の故郷のお山ならまだあるんだろう? 君のような例外がない限り、神獣はその生涯を生まれ育ち仕えるべき場所で過ごすからね」 「待ってください、私はきょうだいたちに今更連絡など取れないと先程も」 「だから『証拠を残さない』んだよ」  遮るように紙織は言った。 「僕の夢手紙は送った場所が相手に伝わるわけじゃない。君の居場所が特定されるわけではないし、神獣たちはただ懐かしい君の夢を見るだけだ。連絡を取ったという証拠はどこにも残らない」 「ですが、夢手紙は相手の名も送り先もわからない場合か、生き物としての次元を越えなければならない場合のみだと」 「ああ。でもそれは力を沢山使うから自分で自分に制限をつけているだけ。出来ないとは言っていないさ」  ですが…と、あくまでも一歩下がろうとする白星の両手を、紙織は自分の両手で包み込み、真っ直ぐに戸惑いの隠せない白星の目を見つめた。 「僕はね、たくさんの死者と出会ってきた。『生きている時にもっと伝えておけばよかった』『もっと話しておけばよかった』と、打ち明けられずにいた想いを抱えていた人が多かった。 神獣や妖は死の概念のない神とは違う『生き物』だ。人に比べれば寿命は長いが、生きている限りいつかは終わる。その時に今のままだと、悲しいことが悲しいままで終わってしまうよ。そんなのダメだ。悲しいことは悲しいだけに終わってはいけないんだ。今手が打てるなら打ってしまおう。悲しいことが尊い想い出になるように。…ただ心配だったとそれだけで、君と長い時間を共にしてきた大事な存在の為にもね」  意味深に言われ首を傾げた白星に、紙織は目配せした。店の入口の方から心配そうに黒い耳をそわそわさせる黒丸が立っていた。そして、その後ろに人の子にしか見えない少年がいた。 「あー、糸桜! 出来てるじゃないか! どこからどう見ても人間にしか見えないよ」 紙織が駆け足で近寄れば、糸桜も嬉しそうに紙織に駆け寄ってきた。 「ほら見て、ちゃんと人の腕だよ!」 「やったなー! 糸桜ならできると思ってたよー!」  はしゃぐ紙織たちの横を通り過ぎ、黒丸は白星に近寄った。 「…お話出来た?」 「ええ。黒丸のお節介のおかげですね」 「やっぱりバレてた?」  黒丸は苦笑した。 「今日は三度目の指導でしたから、ギリギリまで粘ろうとした、という理由付けも出来ますし、かれこれ百年以上、あなたと一緒にいるんですよ?」  くすくすと白星は笑った。滅多に見られない彼女の笑顔に黒丸も微笑み返した。 *  宛名にはきょうだいたちの名を、差出人には白星の名を。白く美しい長い髪を一本、店先の紫陽花の終わりかけの花を想い出の品として。  それぞれを順番に手帳にできる泉に入れると、光を放ちながら出てきたのは、先日黒丸が書いた手紙のそれと同じ、淡い紫の便箋だった。それも一枚二枚ではなく何十枚も出てきた。筆は黒丸の使った万年筆と違い、真っ白な毛筆だった。 「お山にいた頃、山神様が使っておられた筆によく似ています。毛は我々神獣のものを使い、筆師に特別につくらせていました」 「そうか。それはいいものが出来たね」  紙織は手帳を閉じて鞄にしまった。 「時間は気にしなくていい。存分に悩んで、存分に書いておいで。百年以上もしまい込んでいた想いがあるんだ。支離滅裂になってもいい。綺麗な文章にならなくてもいい。大事なのは想いだよ」 「……はい。ありがとうございます」  白星は淡い紫の便箋と白い毛の筆を持ち、店の中へと入っていった。  白星は随分悩みながら書いたようだった。便箋一枚一枚、びっしりと文字が並び、それが計六枚ほど。『夢になるだけ』という言葉が効いたらしく、開き直って山を飛び出してからのことを書き綴ったらしい。  ランタンの火で燃やした手紙は光となって空へ飛んでいき、下から徐々に消えていった。  胡蝶は何匹も飛んできた。淡い紫に濃いめのピンク、群青色もいる。白星が両腕を伸ばすと、胡蝶は彼女の腕や頭にそれぞれ止まった。強く光を放ち、鱗粉が周囲に舞う。いつもよりも鱗粉は長く多く空気に留まったが、やはり例外はなく風に流れるように消えていった。  白星は静かに泣いた。声は出さず、見開いた目から零れるように涙が流れ、その美しすぎる様に黒丸のみならず、紙織も糸桜も見とれていた。  胡蝶の返信は本人にしか聞こえない。どんな言葉をもらったのかわからないが、百年を超える年月のわだかまりが今、とけたのかもしれないと紙織は思った。 *  改めて店に案内され、話は今回の手紙代のことになった。 「さっきコーヒーご馳走してもらったからね。その分差し引いていつもならお金で払ってもらってるとこなんだけど、今回は物々交換でお願いしたいことが二つある」 「お願い…ですか?」  白星は目をしばたかせた。その反応が先日の黒丸とそっくりで、紙織は思わず笑った。 「そう。お願いの一つ目は、君の毛を…神獣の毛をわけてもらいたい」 「私の……もしかして筆をお作りになるのですか?」 「ご名答。馴染みの筆師がいてね。彼に君の毛を託してつくってもらおうかと思ったんだ。神獣の毛でつくる筆はきっといいものになる」  宛名や差出人を書く時の筆は特注品を使っているのだ。今使っているものも馴染みの筆師がつくったもので、ちょうど新しいものを頼もうかと考えていた時だった。白星はその願いを快く受けてくれた。 「…そしてもう一つ。君が端折ったところで教えて欲しいことがある。『男は四葩の記憶を失くした』と言ったね? それ、妖の仕業だったんじゃないか? 妖が四葩の記憶を男から抜き取ったんじゃないか?」 「…そうです。そこの説明を入れると長くなるので端折ったのですが…」  白星は明らかに困惑した様子だ。しかし、察しのいい彼女は気づいたらしい。 「夢妖ですか?」 「ああ。ちょっと思い当たる者がいてね。君たちはその妖と接触したことがあるかい?」  いいえ、と首を横に振られた。 「私たちは見守るに留まっていたので、その夢妖も見ただけなのです。黄金色の美しい髪の妖でした」 「男の記憶はどういう経緯で抜き取られたの? それはわかる?」 「詳細は……ごめんなさい。私たちもわからないんです。わかっているのは、最初に声をかけたのはその黄金の妖で、四葩の記憶を抜いて欲しいと願ったのは男の方です。黄金の妖は男の願いを叶えたにすぎません」  白星の隣で黒丸と糸桜がキョトンとしている。二人はピンと来ないのだろう。糸桜はともかく、黒丸はそれでいいのか、と少し心配になった。 「強い夢妖は、夢だけじゃなく記憶を見たり取ることが出来るんだ。しかし、記憶を取ることは一歩間違えば相手の命に関わる。だから、夢妖の一族には厳しい掟があり、力を必要以上に使うことを歴代の長たちが禁じてきた。ましてや人から記憶を取るなんて、当時はありえなかったはずなんだ」  輝く美しい髪を垂らし、夢幻の街を闊歩する姿が脳裏に浮かんだ。どこか圧倒される雰囲気を纏い、全てに対して余裕がある。  学ランの下に隠れているお守りに服の上から触れてみた。丸く硬さのあるものがそこにあるのがわかる。いつも険しい顔をしてあちこち飛び回っている、不良のような見た目からは想像出来ないくそ真面目な赤毛の男が紙織に渡したものだ。 「その黄金の夢妖は、浮橋が…夢妖の一族たちがずっと探している妖だ。名は華胥(かしょ)という。浮橋の兄で、本来若長の地位にいたのは華胥だった」  浮橋には会ったことがあるか尋ねると、二匹の狐は首を横に振った。 「華胥は百年以上前に夢幻から姿を消した。そして、時折夢幻に不穏な影を……影だけを落としていく。そして、恐らくだが華胥は君たちと接触したことがあるのだと思う。糸桜、君もね」  話がわからずきょとんとしていた糸桜は、名前を呼ばれてピクっと反応した。 「ですが、私たちは…」 「華胥は記憶が抜き取れるからね。接触したとしてもその記憶だけ取ってしまえば証拠はなくなってしまう」 「…仮にそうだとして、一体何のためにそんなことをするのでしょうか?」  黒丸が尋ねたが、その答えは紙織にもわからなかった。 「それがわかれば僕も…あいつもこんな苦労はしないだろうなぁ」  とにかく黄金の妖には気をつけて欲しいということ、何かあれば必ず知らせて欲しいことだけ伝えた。  白星の毛はあとでブラッシングした際に抜けたものをまとめて頂戴することになった。  約束を取り付け、紙織は糸桜と並んで雨の上がった商店街に向かって山を降りていった。黄金の妖が鼻歌を歌いながら楽しそうに歩いていた姿を思い出しながら。
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