第四章 花火

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 手紙屋の仕事は手紙を売ることつくること、そして届けること。この世で言う文房具屋と郵便屋を足したようなものだと紙織は言った。  中でも妖の紙織だからこそ出来るものが『夢手紙』という相手の名前さえあれば送ることが出来るという特別なもの。手紙という形では残さず、相手の夢の中へ書いた内容を映像にして届けることができるというにわかには信じ難い話だ。  しかし、不思議な生き物も不思議な力も日常的に対面している為、そういったことができてもおかしくないのかもしれないと思う。 「ただ、夢手紙の方は妖力をたくさん使うから一人一度と限っている。妖も人も関係なくね。だから使う相手は慎重に選ばなきゃいけない。本当に緋楽に使っていいのか? 君の場合、ご両親にも言いたいことがありそうだ。送った証拠の残らない手紙は、君たち親子のようなビミョーな関係には最適なんだよ。だから、今日は出直すから一度よく考えてみて。たった一度の機会をいつ、誰に、何のために使うか」  冷えきった家、と言うには少し微妙だった。両親は花美に対して怯えてはいるが、二人の仲は良かった。愛情もなかったわけではないはずだ。朧気でも記憶がある。自分が上手にやれなかっただけだ。家に帰って「ただいま」と言わなくなったのはいつからか。「おかえり」と言われなくなったのはいつからか。  *  高校に入ってから始めた喫茶店のアルバイトも、この夏で勤続二年になる。地元から離れた高校に通い、自分のことを知る者がいない土地での再出発はそこそこ上手く行ったと思う。人との距離は相変わらずだが、対妖に関してはかなり力をつけたこともあり、人と見間違えて口を聞いてしまった時の誤魔化し方や追い払い方も学んだ。竹光が教えてくれたのだ。 「立川さん、もう時間だから上がってください」 「はい。お先失礼します」  スタッフ全員に声をかけバックヤードに戻ると、ソファに腰掛けて携帯をいじる休憩中の同い年のスタッフがいた。 「立川さん上がり?」 「ええ。お先に失礼します」  彼の後ろにある女子ロッカーの戸を開けようとすると、花美は声をかけられた。 「あの、立川さん…明日の花火大会って誰かと行く約束あったりする?」 「いいえ。人混み得意じゃないから花火大会とか行かないのよ」 「あ…そっか。ごめんね、帰るとこ話しかけて」  お疲れ様、と彼は笑った。彼の人の良さそうな笑顔は妙に緋楽に似ている。  *  翌日、三日ぶりに竹藪を訪れると、来るのがわかっていたかのように、小屋の外の岩に腰掛け、紙織と浮橋が待ち構えていた。今日の彼女は学ラン姿ではなく、黒地に花火柄の夏らしい浴衣姿だ。髪も編み込んだアップにまとめている。 「まさかと思うけど花火見に行くとか言わないわよね?」 「花火? どこかでお祭りでもあるの?」  偶然か、と花美は呟いた。 「君と話をする時は女の姿の方がいい気がしてね。今日は女仕様なんだ」  口調も少し女寄りになるらしい。語尾が少し柔らかくなっている。 「どうするか決めた?」 「……その前に竹光おじさんと話してもいいかしら?」 「ええ、どうぞ」  小屋に入ると、竹光は横になっていた。最近は来る度に寝ている気がする。 「おじさん、起きて。花美が来たわよ」  いつものようないびきがない。息をしているのは上下する腹の動きでわかるが、妙に嫌な感じがする。 「……おじさん?」  身体を揺すると、んー、と唸り声が聞こえた。 「なんだよ…筆なら作り終わったぞ」 「それは手紙屋さんに言って」  のっそりと身体を起こし、竹光は大きなあくびをして頭をかいた。 「なんだ小娘か」 「手紙屋さんも来てたわよ。あの赤毛の人と」 「ああ、お前に会いに来たんだろ」  面倒くさそうに立ち上がり、細長い箱を持って土間に降りた。戸口の方に向かう竹光の背中に、花美は慌てて声をかけた。 「待って、おじさん!」 「なんだ」 「おじさんはどういう意図で私とあの人を会わせたの?」  普段から悪い目付きが殊更悪くなった。 「今まで…緋楽みたいな例外を除いて、門を通る妖に絶対会わせないようにしていたのにおかしいじゃない」 「あいつは危険な妖じゃないんでね」 「この十年一度も会わせてくれなかったのに?」 「偶然だろ?」  竹光は面倒くさそうに頭をかいた。 「ひとつだけ答えて。竹光おじさんもどこかへ行っちゃうの?」  今にして思えば、緋楽を受け入れたこともこの妖にはおかしいことだったのではないだろうか。意外と面倒見がいいことは花美自身で証明出来るが、弟子を取るようなタイプではない。その竹光が緋楽を受け入れたのは何故か。粘られたからと言っていたが、本当は自分の代わりにならないかと思ったのではないだろうか。 「…俺はここの門番だ」  竹光はそれしか言わず、外に出てしまった。  紙織は細長い箱の蓋を外すと目をキラキラと輝かせた。 「うぉー! なにこれすっごい綺麗だよ竹光さん! 白星(しろぼし)の毛めっちゃ美しいー!」  花美に筆の善し悪しはよくわからないが、紙織の反応があまりにも女の子で呆気に取られた。服装を変えるだけでこんなにも変わるものなのか。  紙織は箱に筆を戻し、前回も持っていたボストンバッグに大事そうにしまった。 「さて、本題に入ろうか」 「あなたの本題は筆だったんじゃないの?」 「まぁね。でも私の筆よりも余程大変な案件だから、あなたの方が本題」  危険な妖じゃない、という竹光の言葉が頭をよぎった。というよりもとんでもないお人好しだ。 「……どうするか決めた?」 「……ええ」  ちら、と後ろにいた竹光を見た。目が合うと怪訝そうに片眉を上げた。 「今はまだ…手紙は書かない」  紙織に向き直り、花美は言った。 「でも、高校を卒業したら私は家を出る。そして、緋楽を探しに狭間に行こうと思う。だから、その時には手紙屋さんの力を貸してください」  そう宣言すると、紙織はにっこりと笑った。 「お前、何言ってるんだ!」  怒鳴り声が背後から飛んできた。竹光の険しい顔がより一層険しくなった。 「緋楽を探すってどうするつもりだ。ただ力が強いだけの人の子に狭間で生きていく当てなんかないだろう」 「当てなら手紙屋さんとおじさんがいるじゃない」 「だから俺は」 「行っちゃうんでしょ?!今すぐじゃないかもしれないけど、狭間に帰っちゃうんでしょ?」  竹光がなにか言おうとするのを花美は遮った。ポケットからいつも持ち歩くようにと言われていた竹で編まれたお守りを出し、見えるように掌に乗せて差し出すと、竹光はハッとして紙織を見た。 「え、言ってない言ってない」 「私が気づいただけよ」  竹光の驚く顔を花美は初めて見たかもしれない。 「小さい頃はよくわかってなかったわ。でも、私はずっとこれに…竹光おじさんに守られていたのよね。これはそういうものなんでしょう? これを返したら、おじさん少しは楽になる?」 「…………」  黙っているということは、おそらく正解なのだろう。 「私もう強くなったのよ。人とも昔よりは上手く話せるようになったの。全部竹光おじさんのおかげだわ。だからもう、これはいらない。だけど、おじさんはいなくならないで。もう少しだけ待ってちょうだい。お守りなくても大丈夫ってところを見てて欲しい。それで、もう少ししたら私、卒業できるから。そしたら私も一緒に狭間に連れてって」  竹光はこれまで見た事がないほど大きく目を見開き、声を荒らげた。 「手紙屋ぁ!お前こいつに何吹き込んだ?!」 「えー、そんなに言ってないよ? 夢幻の街に空きが二軒ほどあるよーとか、狭間で暮らして狭間のもの食べたら人の匂いは取れると思うよーとか、花美程の力があれば案外大丈夫だと思うよーとか、それくらいかな?」 「十分すぎるだろうが!」 「手紙屋さんを責めないで。私が聞いたのよ。人が狭間で生きていく方法を」  竹光は睨むように花美を見た。幼い頃に一度、悪戯心で門に入ろうとした時に本気で怒られた時以来の顔だ。 「お前は人の子だ。狭間には絶対連れていかねぇ」 「いやよ。緋楽もおじさんもいなくなるなんて絶対いや!」 「ガキかお前は!駄々こねるな!」 「ええ、ガキよ!まだ未成年だもの」 「お前この前人間の十八はもう大人だとかなんだとか言ってただろうが。話が違うぞ!」 「結婚出来ても未成年は未成年だもの。間違ってないわ。それにおじさんには私を連れていく責任があると思うわ」 「責任?何の責任だ」 「おじさんは私を拾ったも同然じゃない。手を差しのべるだけ差しのべて、ご飯まで与えたなら最後まで面倒見るのがの拾った者の責任でしょ?」 「ああ、それこの前竹光さんも自分で言ってたよ」  紙織からの援護射撃を竹光は「お前は黙ってろ」と一蹴した。  竹光は深呼吸し、先程までとは打って変わって落ち着いたトーンで話した。 「お前、狭間で生きるって意味わかって言ってるのか? 人の世界を捨てることになるんだぞ。狭間は現代っ子が易々と生きていけるような便利で安全な場所じゃねぇ。俺と一緒に狭間に行ったところで緋楽を見つけられるかもわからねぇ。この世を捨ててまで来る価値が本当にあるのか?」 「あるわ」  花美は間発入れずに答えた。 「おじさんは嫌な顔するけど、一番親身になって私を育ててくれたのは竹光おじさんよ。妖のことたくさん教えてくれた。おじさんに出会わなかったら、私はどこかの妖にでも襲われてるか、孤独に耐えかねて今頃生きてなかったかもしれない。おじさんは私にとって両親よりもずっと私を育ててくれた親なのよ。友達が一人もいなくたってへっちゃらだったのもおじさんがいたからだわ」  これでもかと眉間に皺を寄せ、竹光はため息をついた。 「…お前、緋楽に言われたこと忘れたのか? 人と妖の時の流れは違う。一緒に生きることは無理だって」 「それは私が人として、この世で生きていくならの話でしょう? 狭間にいるうちに影響を受けて人の寿命よりも長く生きられる場合もあるって聞いたわ」 「ほんと余計な入れ知恵ばっかだな!」  ごめーん、と紙織はくすくす笑い、全く謝罪になっていない謝罪をした。 「ダメだよ竹光さん。花美はもう決めている。あんたも自分の言葉と行動に責任を持って、諦めて花美を引き取りな。親としてでも飼い主としてでもどっちでもいいからさ。大丈夫、この子は強い」  紙織は近づいてきて、花美の手からお守りを取った。紐を外し中から濃い緑の丸い石を取り出した。 「ほら、これはもういらないって。元々あんたのもんだ。返してもらいなよ」  差し出された石を竹光は割とすんなり受け取った。掌に乗せられた石を心臓の当たりに押さえつけると、指の隙間から光が漏れ出た。やがて光が消え、竹光は手を開いて閉じてを繰り返した。その手に石はもう乗っていなかった。 「これは花美が持ってなさい。いらないのは中身だけだから」  そう言って竹で編まれたお守りを返された。 「これは持っててもいいの?」  竹光に聞くと、いつものように面倒くさそうに頭をかいて「好きにしろ」とぶっきらぼうに答えた。 「ありがとう。正直これは手放すの惜しかったの」 「大事にするといいよ。竹光お父さんが君を想ってつくったものだから」  からかうように紙織が言ったが、竹光は否定も肯定もしなかった。 (これは勝利の勲章ね…)  花美は再びポケットにお守りをしまった。効力は無くなっても、花美にとってお守りであることには変わらない。 「そっちの話が終わったなら俺も今後のことで話がある。一度中に入ってもいいか?」 ずっと聞き役に徹していた浮橋が、今日初めて口を開いた。  机を挟んで浮橋と竹光が座り、紙織と花美は靴は脱がずに式台に足を置いて腰掛けた。 「あんたの次の門番だが、竹司(たけつかさ)一族に声をかけている」 「……やっぱそうなるか」  竹光が嫌そうな顔をするのを見て、何も言わずに紙織の方を向くとすぐさま答えが返ってきた。 「竹司っていうのは、竹を守護する一族だよ。ここの一族で『竹』のつく名をつけることを許されるのは長一家のみ。竹光は竹司現当主の弟なんだよ」 「…よくわからないけど、あんな風貌で実はいいとこの坊ちゃんだったってこと?」 「悪かったな、こんな風貌で」  いいとこの坊ちゃんは否定しないのか。 「ここの門番はその竹司の人がやるものなの?」 「そういうわけじゃないが、ここの門をそもそも守っているのが竹だから、竹に詳しい者がいいってことになったんだ。竹光の管理していたこの数十年がいい参考になった」  人が狭間に迷い込まないよう竹自体に術をかけており、結界の役目を果たしているということらしい。その為、門番としての役目に竹の管理が必要になるそうだ。 「近いうちに新しい門番を立ててくれるそうだ。引き継ぎなんかもあるだろうが、そこはあんた達に任せる。問題はその後の住処だが…」 「竹司には帰らねぇよ」 「言うと思った」  浮橋は懐から紙を紐で束ねたメモのようなものを取り出し、一番上の紙を切り取って竹光に渡した。 「さっきあいつが話してた夢幻に空いてる二軒の詳細だ。今ひとまず二軒とも俺たちで押さえてある。どちらに住むかは一度見てみるも良し、この場で決めるもよしだ」 「……おい、この大きさどっちも一人用の家じゃねぇだろ。てめぇはなから小娘ありきで考えてたな?」  てめぇ、と紙織に向かって竹光は言った。 「花美はこの世…というか人の世ではとても生きづらそうだったからね。本人もその気があるみたいだったし、全部捨てる覚悟があるなら狭間に来るのも手だよって言った感じ、これはこっちに来るだろうなと思ってね」 「俺は本当にお前が嫌いだ」 「あら、ありがとう。嫌よ嫌よも好きのうちだもんね」  ちっ、と眉間に皺を思い切り寄せた。浮橋と並ぶと二人して物騒な顔をして、並の女の子では近づけない雰囲気があるが、紙織はにこにこと余裕な表情をしている。 「花美が高校を卒業するまで、となると残りは約半年。それまでまたよろしく頼む。そっちからは何か要望とか必要なことはあるか?」 「いや。特にはない。竹司の一族の誰かが来るならそれが一番やりやすい」 「一族捨てた身なのに?」 「横からちゃちゃ入れんじゃねぇ」  からかうのが性分なのだろうか、と花美は紙織を横目で見た。 「一族を捨てたって、おじさん家出したの?」 「ガキの家出みたいな言い方をするな。俺は真っ当な理由、真っ当な方法で家を出ている」  花美の疑問には紙織が答えた。 「三男坊はわりと自由の身なんだ。一族を出て狭間やこの世を自由に行き来して旅をしながら職人業みたいなことしてたらしいよ」 「お前それなんで……ああ、わかった。逆夢だな?」 「逆夢パパは私が女の姿でお酌して甘えたら基本的に何でも答えてくれるよ」 「人の親父をパパとか呼ぶな気色悪い」  怒ると言うより本当に気色が悪そうに浮橋は顔を歪めている。 「ところで花美、あと半年はどうやって過ごすの? 人の世では進路相談とかそういうのあるでしょう?」 「そんな心配までしてくれるのね、手紙屋さんは」 「当たり前でしょう。ハッパかけたのは私だからね。竹光同様、私にもあなたを拾った責任があるのよ」  じゃないとおじさんに怒られちゃうから、と学ラン姿の時にも見た、いたずらっ子の様な笑顔を見せた。 「私、大学へは行かず就活するつもりだったのよ。早く独り立ちしたくてね。だから高校入ってからはずっとアルバイトしていたの。お金貯めて一人暮らしするために。夏休みはバイトに時間を費やして…そうね。就活に関しては親と先生を適当に誤魔化すわ。親は元々私に興味無いし、先生も……担任の先生なら話せば分かってくれるかもしれないわね」 「え、何を話すの? 妖のこと?」 「そんなわけないじゃない。先生も普通の人よ。けどそうね…。今お世話になってる喫茶店で卒業後もしばらく働いて、お金が貯まったら…早ければ来年にも調理系の専門学校に行きたいんです、とか言えば誤魔化されてくれるわ」 「……君は賢いね」  ありがとう、と花美は笑った。 「あの…色々お話とかアドバイスしてくれたけど…それって手紙屋さんのお仕事ではなかったのよね?」 「いや、半分お仕事みたいなものだよ。筆のお礼に君の力になれっていうのが竹光さんの依頼だから」 「そう…。私からも何かお礼出来ないかしら? あなたがいてくれなければおじさんは折れてくれなかったかもしれないし、そもそもおじさんがいなくなろうとしてることに気づけずにいたと思うから」 「お礼は今度手紙屋を利用する時でいいよ。緋楽を探すのに私の力は役に立つことがあると思うから。…でもそうだね。ひとつお願いがある」  なあに?と聞き返すと、紙織は花美の両手を握った。 「名前で呼んで欲しいな。『手紙屋さん』じゃなくて。私は出来ればあなたと友達になりたい」  紙織の手がとても温かい。こんな風に誰かと触れ合ったのはいつが最後だろうか。あまり思ったことは無かったけれど、本当はずっと友達が欲しかったのかもしれない。 「ありがとう、紙織さん」  *  手紙屋の店の前、紙織は竹藪から拝借してきた笹の葉と、勝手に拾ってきた竹光と花美の髪の毛を使い、夢手紙を飛ばしてみた。ところが、三度試して一通も手紙は届かず、紙織の元に戻ってきてしまった。 「おい、そろそろやめろ。力を使いすぎだ」  浮橋はランタンを奪い、ボストンバッグに投げるように入れた。 「ああもう、雑に扱わないでよ」 「その鞄は異次元空間になってるんだ。壊れやしないだろ」 「そういう問題じゃなーい!」  ごねる紙織を強引に、米俵のように担ぎあげて浮橋は店の中に入った。 「糸桜(しおう)、悪いが茶ぁくれ」 「うん、いいよ。紙織どうしたの? 具合悪い?」  中で妖精二人から文字を習っていたらしい糸桜が心配そうに首を傾げた。 「大丈夫。力使いすぎだから止めただけだ」 「そっか。ちょっとまっててね」  最近変化がちゃんとできるようになった糸桜は、腕のおかげでできるようになったことが増え、妖精二人を師に文字の読み書きやお茶入れなど様々なことを学んでいる。  浮橋は紙織を二階に連び、敷きっぱなしになっていた布団に寝かせた。見張るようにそこに座り込むので、紙織は大人しく身体を横にしたまま話した。 「浮橋、多分だけど緋楽の中から花美と竹光の記憶が無くなってるかもしれない」 「…手紙が戻ってくるってことは宛先がわからない。つまり、記憶の照合が出来ないってことだもんな」  浮橋の顔が険しくなった。 「華胥(かしょ)が関係してると思う?」 「十中八九な。あいつは俺たちから遠すぎず近すぎない場所でいつも何かをしている。一体何が目的なんだか…」  紙織はゆっくり身体を起こし、浮橋の眉間の皺を指で伸ばした。形状記憶のように伸ばしても伸ばしてもすぐに皺が寄ってしまう。 「それやめろ」 「やだ。浮橋いっつも怒ってばっか。たまには笑ってよ」 「笑えない状況が続いてるからだろ。あいつが何を目的に動いてるのか全く分からないんだ。街が危険に晒されなければいいが…」  皺を伸ばそうと奮闘する紙織の両手は、浮橋に捕まえられた。小柄な紙織の手は大柄な浮橋の手にすっぽり収まってしまい、体格差を思い知らされるようで紙織は面白くない。 「そういえばお前、親父から竹光の話いつ聞き出したんだ」 「ああ、浮橋が竹司に出張してる間に酒盛ったの。花美には教えられないけど面白い話も聞いたよ」  そう言うと浮橋は掴んでいた手を解放した。 「竹光に人間の奥さんと子供がいた話か?」 「あれ? 知ってたの?」 「俺も親父に聞いた」  何十年前だか、何百年前だか、竹光が竹司の一族を出て旅をしていた頃の話らしい。一人の人間の女と出会い、竹光が人ではないとわかった上で二人は結ばれ、三人の子にも恵まれた。  人の世で幸せに暮らしていた一家だが、時の流れは残酷で、妖である竹光は歳を取らない一方、奥さんはどんどん年老いた。周りに不審に思われてしまっては暮らしていくことが出来ない。  竹光は奥さんと子供を残し、また旅に出た。時折こっそり様子を見に帰り、最期は奥さんを看取ったらしい。三人の子供もそれぞれ人間の寿命で命を終え、竹光は門番になった。 「竹光さんの奥さんは狭間には連れて行けなかったんだろうね」 「花美みたいな規格外の力があればいいが、そうじゃない人間を狭間に連れていったら四六時中警戒しないと危険だからな」 「自分より先に死ぬってわかってても、手を取り合わずにいられなかったのか…。あのおっさん、あんな風貌だけど愛情深いとこあるしなぁ」  どんな風に出会い惹かれあったのかは知らないが、根本的に竹光という妖は人嫌いでは無いのだろう。 「ぶっきらぼうに振舞ってるくせに、花美見てる時の顔が本当にお父さんみたいなんだもん。あの人存外わかりやすいよね。お守りつくって命削りながら守っちゃうくらい」 「いいんじゃないか? 俺は嫌いじゃないぞ、あの人」 「同族嫌悪にならなくてよかったよ」 「は?」 「私もあの人好きだよ。だって、浮橋とよく似てるもん」  そう言うと、「うるせぇ寝てろ」と額を押され、そのまま後ろに倒れ枕に頭を押し付けられた。せめて浴衣を着替えたいと苦情を入れたが、回復してからにしろと断られた。  しかし、浮橋に頼まれた糸桜がお茶を運んできた為、結局身体を起こすことになった。しっかり五つのお茶とお菓子を持ってきて、一緒に飲もうと無邪気に言われると、伸ばしても取れない浮橋の眉間の皺がほんの少しだけ緩んだ。 *  狭間のとある街の外れの森を行く男が一人いた。一つに束ねた黄金の美しく長い髪が馬のしっぽのように背中で揺れている。その姿を空からとらえた一羽のカラスが男の近くの木の枝に止まった。 「夢幻の門番が変わるそうだよ」  挨拶もなしに声をかけてきたカラスに、男も挨拶なしに返した。 「そう。竹光さん引退しちゃうのかぁ。次の門番は? もう決まったの?」 「竹司一族に声をかけているらしいよ」 「まぁそれが妥当だろうね」  カラスには何が面白いのかわからないが、男は笑顔で受け答える。 「竹光のところにいた人の子は緋楽を探したいみたいだよ。学校を卒業したら竹光と夢幻に居を構えて緋楽探しをするらしい」 「緋楽…。ああ、あの楽師の繊細な坊っちゃんね」  男は肩から下げていた巾着の口を開け、手をかざすと中から一つ、赤いガラス玉のようなものが出てきた。 「僕は『忘れる』って一概に悪いこととは思わないんだけど、一族の連中は頭が固いんだからなぁ」 「強制的に忘れさせることがダメなんでしょ?」 「えー、『忘れたい』っていう子の記憶しか取ってないよ?」 「それでも量によっては精神や命に影響がある。だからダメって決めたんでしょ? 緋楽にいたっちゃ向こうが望んだこととはいえ、二回も記憶を取っているし。それにいつも自分と関わった記憶は勝手に取ってるじゃん」 「それはほら、影響ない量の記憶だから」 「盗人め」 「君は僕の味方なの?それとも敵?」 「敵になった覚えもないけど味方になった覚えもないよ」  カラスは地面に降り、男の足元にやってきた。 「僕はあんたに助けられたから、借りた分返すだけ。返し終わればまた自由に暮らすだけだよ」 「……そっか。ありがとう、(はやて)」  男は微笑み、再び森を歩き出した。
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