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第五章 華胥の夢
「繁忙期がやって来ました」
この世の影響をもろに受け、狭間にも容赦のない猛暑が訪れていた。しかし、コンクリートや車など熱を跳ね返すものがこの世に比べかなり少ないおかげもあり、狭間はまだマシと言える。
「紙織、はんぼうきってなに?」
物干し竿に着物を通しながら糸桜は尋ねた。足元には、着物が地面を擦らないよう裾を持って飛んでいる灯と燿の姿もある。
「簡単に言うと、ものすごーく忙しい時期のこと。毎年毎年、夢妖一族総出でなんとか回してる状況なんだよ」
紙織は外に置いてある長椅子に腰掛け、資料の山に目を通しながら答えた。紺色に縦縞模様の入るしじら織りの甚平を着ている。
「……何で忙しいの?」
「よくぞ聞いてくれた。八月はね、お盆というものがあるのだよ」
一度はあの世へ行ったにも関わらず、残してきた大切な誰かが自分との死別から立ち直っていなかった、あるいはその逆に自分のことをすっかり忘れて元気になっているのが淋しいなど、様々な形であの世に戻れなくなる死者が続出する。新盆を迎える者に特に多く見られる現象で、この時期は手紙屋も夢妖も街中の迷子を保護し、あの世へ送るために奔走するのだ。
「ここ数年は異常気象による熱中症の死者も多いから本当に忙しいんだ。でも迷子の増加は治安問題に発展しかねないから対処はしなくちゃいけない」
「迷子は物の怪に取り込まれちゃうからなんだよね?」
「その通り。では、なぜ物の怪に取り込まれるのはよくないのでしょうか?」
「えっと…物の怪に取り込まれるのは二度と生まれ変わることの出来ない魂の死を意味しているから。あと、物の怪が増えたり大きくなると影響を受ける妖が出てくるから?」
「正解。よく勉強したね。後でご褒美のおやつをあげよう」
頭を撫でれば糸桜は気持ちよさそうに目を細めた。
「ちなみに、物の怪の発している陰の気に当てられ、凶暴化したり魔が差したりする妖が出て、この街の治安を悪くしてしまうからって答えられたら二百点満点だったかな」
「物の怪って退治できないの?」
「うーん、それ自体が妖を襲ってくるわけじゃないからね。下手に手を出すよりは近づかないこと、敬遠することが今は一番いいんだ。物の怪についてはわからないことが多いから」
洗い物を全て竿にかけ終え、紙織たちはカゴを持って店の中へ戻った。
「でも、この忙しい時期が終わればお祭りがあるんだよ」
「お祭り?」
「うん。夢幻通りの端から端まで。糸桜公園に櫓建てて、屋台出して盛り上がるんだ。だから手紙屋もみんなでこの繁忙期を乗り越えよう!」
おー!と、紙織にならい糸桜と妖精二人も拳を上げた。
「気合入ってるとこで早速いいか?」
店の入口に浮橋と遊生が立っていた。よっ、と右手を上げ、遊生は糸桜に向かって挨拶した。糸桜は嬉しそうに目を細めた。
「あれ、珍しいなぁ。浮橋が遊生連れてここに来るの」
「東森の調査ついでに寄ったからな」
「それはご苦労さま」
糸桜に目配せすると、うんと縦に首を振り、台所の方へと向かった。紙織は土間で立ったまま話を続けた。
「増えてる?」
「いや、まだだな。ただ、今年は平均的に迷子が増加しているから、それを考えると…まぁ増えたってことにはなるな」
「そこにプラス繁忙期かぁ〜。糸桜が来てくれてよかったー!」
糸桜も出来ることが増え、特に生活面でのことは料理以外、糸桜と妖精二人にかなり頼っている状態だ。
「今じゃどっちが保護者がわからないね」
最初に糸桜を保護したのが遊生だった。紙織に任せるのが適任と判断され、浮橋が連れてきてからは手紙屋で過ごしているが、遊生も拾った責任からか時折糸桜を見に手紙屋に顔を出している。
二人を畳の間に招き、やってくるお盆に対し、紙織に回す迷子の基準や受け入れ限界人数などの打ち合わせをした。お盆開始からお盆が明けて一週間は遊生が夢妖一族との仲介役になるそうだ。
「何かあればこいつ通してくれ。やばい時は俺も動く」
「夢妖の若様は一族統率の方駆け回らなきゃいけないだろ? 僕の方は大丈夫。この仕事始めて何十年立ってると思うの。心配してくれるのは嬉しいけど、そこはちゃんと任せてよ」
「心配……なぁ…」
浮橋の顔が険しくなった。ああ、この顔は…と紙織はため息をついた。
「華胥が気になる?」
「…嫌な予感がしないとは言いきれない。ここ何度かあいつが関係していると思われる事案が立て続けにあるからな」
すると遊生が指を折って口を挟んだ。
「立て続けつっても、関わった形跡があるのは糸桜ちゃんとあじさい茶屋の二人だけでしょ?」
「竹光のおっさんの弟子…緋楽も関わった可能性が濃厚なんだ。記憶照合が出来ずに手紙が届かなかったのがいい証拠だよ」
「お茶どうぞ」
大きな湯呑みを四つと、灯と燿用に湯呑み代わりにしているお猪口が二つがお盆に乗ってやってきた。
お茶を配り終えると、糸桜は紙織の隣に座り、自分もお茶を啜った。
「ねぇ、糸桜ちゃん。狭間にどうやって来たのか全く覚えてないって言ってたよね?」
糸桜はお茶が口に残っていたらしく、うんと首を縦に振った。
「逆にどこまでなら覚えているの?」
「…わかんないけど、きっともう死んじゃうんだなって思ったのが最後だよ。…でも誰かに声をかけられたような気もするんだ。でも、どんな人だったのか、どんな声だったのかもう思い出せない」
「…そっか。ごめんね、嫌なこと聞いちゃったね」
よしよしと頭を撫でられ、糸桜はきょとんと首を傾げた。
「あじさい茶屋の二人にも聞いたんだ。どうしてお店を出すのにこの街を選んだのか。そしたら、そう言えば誰かに勧められて来たはずなんだけど、それが誰だか覚えていないって」
「華胥兄ちゃんかなぁ、やっぱり。まぁ記憶を取れるのが俺たち夢幻の夢妖だけとは限らないけど」
遊生が呟くと、浮橋の眉間がまた一段と深く刻まれた。
「そもそも、華胥は何がしたいんだと思う? あくまで推測だけど、僕は迷子の増加や糸桜をはじめ成り立ての妖が夢幻に頻繁に現れるのは、華胥が絡んでいるからだと思う。けど、じゃあその目的ってなに?
良い解釈をするなら、夢幻に送り込むことで僕や夢妖一族が対処するから、迷子はあの世への正しい道に戻れるし、成り立ての妖が新たに物の怪になるのを防げる。悪い解釈をするなら、物の怪の力を増大させたり、数を増やすことでこの街に危険が及ぶ可能性がぐっと上がる。
多分なんだけど、これはどっちも正解でどっちもハズレだ。もし一連の謎に華胥が絡んでいたとしても、華胥はそんな良い奴でもなければ悪い奴でもない」
紙織の意見に遊生も同意した。
「華胥兄ちゃんは遊んでるんじゃないかな。あの人めちゃめちゃ力が強くて持て余してるでしょ? あの人にとっては純粋に遊びなんだよ。迷子や成り立ての妖を夢幻に送り込んだり、自分の影をチラつかせて僕らが……というか、君ら二人がやきもきしてるのをどこかで楽しんで見てる気がする」
浮橋がダン、と机を叩いた。糸桜が驚きのあまりごっくんとお茶を飲み干したのが横にいてわかった。灯と燿が小さな手でトントンと背中を叩いて、冷めた自分たちのお茶を飲むよう勧めた。
「そんなやつをどうして『悪い奴』って言わないんだ」
叩いた机の音よりも小さく、絞り出すような低い声が浮橋から出た。
「一族捨てて役目放り出して、自由気ままに百年以上。今更になってチラチラ手が届きそうなところに自分の姿は出さず不穏な影だけ残してく。それがどれだけこの街にとって、一族にとって残酷なことか、あいつはわかってないんだ。『遊び』なんてふざけた言葉で片付けていい話じゃない。俺には都合のいい解釈なんかできない」
苦虫を噛み潰したような表情で、声を荒げず怒りを露わにする姿が、なんだか逆に痛ましい。遊生も珍しく茶々を入れずに黙って浮橋を見ている。
「僕もお前も色んな人、色んな妖を見てる。だから一概に『家族なんだから』って言葉は使わない。むしろ、家族だからこそ起きてしまう問題が山ほどある。繋がりや絆は時に『柵』でしかないから」
口にはできないが、華胥にとって夢妖の一族は柵でしかなかったのだろうと思う。だからこそ誰にも何も言わずに家を出た。浮橋が兄を許せずにいるのも結局はそこなのだ。血の繋がりがあるからこそ余計頑なになっている。
実際、今までは何とかなってきたものが、今後も何とかなるとは言いきれないのだ。
「でも大丈夫だよ、浮橋。僕らは大丈夫」
「何を根拠に」
「根拠なんかないさ。ただ言葉には力があるから。大丈夫って言っていればそのうち本当に大丈夫になる。だから大丈夫だよ」
それよりも、今は着々と出来ることを進めようと決意を固めた。
打ち合わせ後、浮橋はもう一件仕事があるとまたどこかへ向かい、遊生は残って糸桜と一通り遊んでいた。糸桜が遊び疲れて眠り、ようやく帰る頃には外は真っ暗だった。
「浮橋の心配性も相変わらずだから大変でしょう?」
遊生が笑いながら尋ねた。
「もう慣れっこだよ。もう少し僕のことを信用して欲しいんだけどね」
「ああ、そこは全く心配いらないよ。本当に心配だけをしてたら、君が夢妖の屋敷を出てこんな風に暮らすことも許していなかったと思うし、東森の番人みたいなこともさせてないと思うから」
「…うん。そうだね。それはわかってる」
紙織が浮かない表情をするので、遊生はまた笑った。
「紙織ちゃんは昔から男の格好も女の格好もしてたけどさ、華胥がいなくなって、手紙屋を初めてからは男の格好が多くなったよね。それに昔は『僕』なんて男の格好の時も言わなかった」
「あー…そんな頃もあったなぁ」
ポンポンと遊生は紙織の頭を叩いた。
「紙織ちゃんの気持ちもわからなくもないけど、俺は逆効果だったと思うよ。心配されたくなくて、頼って欲しくて男らしい振る舞いをすればするほど、あいつは自分を責めている。そんな気負わなくていいのにね。まぁ、男心としては複雑なんだよ。出来ればそこもわかってあげて」
「…遊生に言われなくてもわかってるよ。あいつとはずっと一緒だったんだから」
「…そっか。君らってすごくめんどくさいね」
「華胥の尻尾を掴むまでは踏ん切りつかないんだよ。僕も浮橋も。…遊生もでしょ?」
俺?と遊生は首を傾げた。
「すっとぼけないでよ。一族で華胥と一番仲良かったのあなたでしょ、遊生兄ちゃん」
「兄ちゃんって呼ばれるの久々だなぁ」
ほんの少し、遊生のいつもの調子に比べ顔に赤みがさした。
「そうだな。兄ちゃんとしても、華胥の従兄であり友達としても、俺も頑張るよ。じゃないとお前ら、いつまで経っても報われないからな」
じゃあな、と遊生も帰っていった。紙織は胸元に隠してあるガラス玉を手にし、ギュッと握りしめた。
「……頑張るよ、浮橋。だから…無理しないでね」
聞こえないだろうとわかっていても、声にせずにはいられなかった。
*
紙織が手を貸してから、白と黒の狐も徐々に街に馴染み始めた。元々黒丸は他者とも打ち解けやすい性格だったようで、黒丸が仲介し白星も少しづつ外に出るようになっていた。
八月の終わりに行われる夢幻のお祭りにあじさい茶屋も晴風屋と合同出店することになり、花風はひとり、打ち合わせのためにあじさい茶屋に向かっていた。
花風は息を飲んだ。見えてきたあじさい茶屋の前にひとりの男が立っている。一つに束ねられた長い黄金色の髪が朝の爽やかな風になびいて揺れている。男の足元に一羽のカラスがやってくると、男はこちらを振り返った。
「あれ、花風じゃないか。久しぶり。また綺麗になったね。男共が放っておかないだろう」
「華胥さん……」
言葉を失いそうになる自分を奮い立たせ、花風は問いかけた。
「どうしてここに…」
「様子を見に来たんだよ。ずっと人の世で生きてきた子達が狭間で生きていく場所を探していたからね。白星と言ったかな? 彼女の故郷に近い景色があるよって、僕がこの場所を勧めたんだ。上手くやってるみたいだね。それにあの雀の子も紙織のもとで元気にやっているそうじゃないか」
それだけ聞くと、華胥はとても良いことを行ったように聞こえる。けれど、花風は紙織や浮橋が彼の動向を気にかけ、むしろ警戒をしているのを知っている。人の良さそうな笑顔でにこにこする華胥をどう見たらいいのかわからなかった。
「皆さん、あなたを待っています」
「ああ、そうみたいだね」
「みたいだねって…」
花風は近づけずにいた距離を一歩縮めた。それだけなのに、何故か寿命も一緒に縮まったような思いになる。
「帰ってこられないのですか?」
「……うん。そうだね、帰らない。あそこはもう僕の居場所ではないから」
「でも…浮橋さんも紙織さんも……帰って欲しいと望んでいます。街に留まらなくてもいいから、顔を出すくらいは」
「相変わらず、綺麗な薔薇には刺があるというか、可憐な鈴蘭には毒があるというか、花風はなかなかひどいことを言うな。僕を振ったあの子に会えって言うの?」
顔は笑っているのに声に冷たく刺すような響きがある。氷で刺されたような痛みが走った気がした。
「…だからなんですか? 夢幻に帰って来ないのは…夢幻を出たのはそれが理由なんですか?」
「ここを出ようとした理由は別にあの子が原因ってわけじゃないよ。きっかけにはなったけどね。僕にはずっと夢があったんだ。それを叶えたくて外に出た。それだけの話だよ」
「あなたの夢が何かは知りませんが、ここのところ、夢幻に迷子が増えたり、成り立ての妖が多く現れるのは、あなたが関わっているんですか? 関わっていたとして、それはあなたの夢を叶えるために必要なんですか?」
花風が尋ねると、華胥は二人の間にあった距離をぐんぐん縮めた。強く逃げ出したい気持ちに駆られるも、花風は金縛りにあったかのように身じろぎ出来なかった。
目の前に立った華胥は花風の頬を両手で包んだ。顔を上に向かせられ、逸らすことは許さないと言わんばかりに目と目が合った。
「ねぇ。浮橋は元気? 浮橋はさぞ、僕のことを恨んでるんだろうなぁ。継ぎたくもない夢妖の一族を継いで、あちこち走り回って、僕のことを探して。ずーっと大事にしている紙織をあんな風に変えてしまったのが、その恨んでいる僕だってどんな気分なのかな」
(……喜晴)
触られているのは顔なのに、なぜか首が閉められているような錯覚に陥った。苦しい。息ができない。
(喜晴……!)
その時、一筋の鋭い風がびゅんと通り過ぎて行った。触れられていた両手が離され、足元から力が抜けた。倒れるすんでのところで誰かに支えられた。
「お前、どうしてこんなところにいる」
「あれ、双子のお兄ちゃん登場だ。久しぶりだねぇ、喜晴。随分なご挨拶で」
華胥は風に弾かれた手の甲をさすった。見れば甲に赤い線がピシッと入っている。
「鎌鼬か。やだやだ。血の気が多いのはモテないよ、喜晴」
「どうしてこんなところにいるのか聞いてんだ!」
「それはさっき花風に教えた。あとで花風に聞くといいよ」
華胥が淡々とすればするほど、喜晴は怒りを露にした。
「花風に何をした!」
「何も。ただ世間話をしただけさ。言うならば、僕の妖気に当てられちゃったんじゃないかな? ちょーっと機嫌悪くなっただけで僕の妖気も悪い方向に影響与えてしまうらしくてね。ごめんよ、花風。悪気はないんだ」
花風は力の入らない声で華胥に尋ねた。
「そんなことはどうでもいいんです。質問に答えてください。迷子や成り立ての妖を夢幻に送りこんでいるのはあなたなんですか?」
華胥は口角を上げ、にっこり微笑んだ。
「僕はね、自由を愛するとてもわがままな生き物なんだ。でも自由って、結構孤独でもあるんだよね」
「そんなもん、お前が家出同然に出て行ったんだ。自業自得だろ」
冷たく言い放つ喜晴の言葉に、華胥は自嘲じみた笑みを浮かべた。
「今日のところはこれで失礼するよ」
そう言うと、足元にいたカラスが巨大化し、華胥はその背中に乗って飛び立った。
「待てっ!」
「ダメよ、喜晴」
振りかざした手が花風に掴まれた。その一瞬の隙に、華胥の姿は見えなくなった。
「どうして見逃すんだ!」
腕の中にいた花風がゆっくりと足に力を込めて立ち上がった。
「華胥さん…私たちの記憶を取っていかなかったわ」
「それがなんだよ」
「糸桜ちゃんも茶屋の二人も彼に記憶を取られているのよ。自分と関わった記憶を消してここに送り込んできた。それってなぜだと思う?」
「さぁ? 紙織や浮橋でさえわかってないのに俺が知るかよ」
ふんと鼻を鳴らす喜晴に、そうねと花風も頷いた。
「私はずっと…多分浮橋さんたちもそうだと思うけど、自分が関わっている証拠を消しているのは、何かを…自分の居所とか、何をしているとか、そういうのを悟られないようにしたいんだと考えていたの。でも、今回私たちの記憶は取っていかなかったし、わざわざ夢幻に足を踏み入れるなんて、私たちのこれまでの考えとは矛盾するような行動だわ。下手になにかしない方がいいと思う」
「…結局あいつが何を考えて何をしようとしているかわからないままってことか?」
「いいえ。三つわかったわ」
花風は指を一つ一つ折った。
「あの人はもう夢幻に戻る気はないこと。あの人にとって夢幻に自由はなかったこと。そして……」
ちらと喜晴を見ると、彼は「ん?」と首を傾げた。
「紙織さんはやっぱりモテるわね。喜晴はそろそろ本気で諦めたほうがいいわ」
「なんで今その話したんだよ! ほっといてくれ! どうせ万年片想いだチキショー!」
カリカリしながらあじさい茶屋とは反対方向に歩いていく喜晴に花風は首を傾げた。
「そう言えば喜晴、どうしてここに来たの?」
ピタ、と歩みを止めるとムスッとした表情が振り返った。
「双子なめんなよ。兄貴の勘だ。妹が助けを呼んでる気がしてすっ飛んできたんだよ」
再び向きを変え、自分は用はないと言わんばかりに自宅のある方に戻って行った。
「あらあら、お礼言い忘れちゃったわね」
花風にようやくいつもの笑顔が戻り、自分は打ち合わせの為に茶屋に向かった。
*
「華胥が……」
「ああ。花風の話じゃ、糸桜やあじさい茶屋の二人はあいつに記憶を取られている。間違いなさそうだ」
喜晴はあの後、真っ直ぐ手紙屋に向かった。幸い紙織は店におり、糸桜に再度確認すると、やはり黄金色の髪の夢妖は記憶にないという話だった。
「華胥は夢幻に戻る気もないし、夢幻に自由はなかったのかもしれない……ってことを花風は言っていた」
もうひとつの方は言わないでおこうと、喜晴はそっと心にしまった。
「もしかして、最初に浮橋じゃなくて僕のところに来たのは、糸桜に確認するためというより、いきなり浮橋にもってくのはまずいと思ったから?」
「……華胥が絡むとあいつ冷静さを失うだろ」
「そうだね。お気遣い感謝するよ、喜晴。けど…どうやって話そうねぇ」
紙織が頭をかいていると、灯が森の方からやってきた。何か身振り手振りで紙織に伝えている。
「ほんと? わかった、急いで行く。糸桜、留守番よろしく。灯は燿のところに案内して」
紙織は喜晴に向き直り、捲し立てるように言った。
「ごめん喜晴。急用ができた。これで失礼するね」
「危ないなら俺も」
ついて行こうか、と言うのを遮られた。
「ダメだよ。花風は華胥の妖気に当てられたんでしょ? ならちゃんと自宅で花風を迎えてあげて。大丈夫。僕は強いし灯も燿も一緒だ」
何かを察した糸桜が店から手紙屋の鞄を持ってきた。それを背負い、紙織は灯と共に走って行った。
「紙織、乗れ!」
ふーっと息を吐き出すと、紙織の身体が宙に浮き、喜晴の作り出した風に乗って加速した。
「ありがとう、喜晴!」
小さくなる紙織の後ろ姿に後ろ髪をひかれつつ、喜晴は晴風屋に戻って行った。
*
喜晴の風は乗り手の意思を反映する。右に曲がれと念じれば右に行く。森の木々も素早く避けながらぐんぐん進む。
「灯、燿はどっちにいる?」
常人では聞き取れない灯の声を聞き取り、紙織は風に念じながら進み続けた。
「いた!」
そこには狼に姿を変えた燿がいた。黒い靄を睨みつけ、その周りに結界を張っている。靄は結界の壁に阻まれ、右へ左へとぶつかっては戻りを繰り返している。
「また随分とでかいな」
燿の横に降り立ち、紙織は鞄から大量の紙と自分の背丈ほどの長さのある大筆を取り出した。
「燿、僕が合図したら結界を解くんだ。いいね?」
狼は頷いた。
「三、二、一!」
結界が解けると同時に紙織は紙をばらまいた。両手をパンと音を立てて合わせると、ばらまかれた紙が黒い靄に巻きついた。靄からうめき声のようなものがいくつも聞こえてくる。
「ごめん…ごめんね。助けてあげられなくてごめん」
紙織は斜めに二度、大筆を振り落とした。黒い靄に巻きついていた紙にバツが描かれると、紙の隙間から光が漏れ出て、徐々にその靄の塊が小さくなり、最期には靄が消滅し、紙はビリビリに破れて散った。
力を使った紙織は、膝をついて大筆に頭を預けた。狼の姿から元の人型に戻った燿と、一緒にやってきた灯が紙織の周りを心配そうに飛んでいる。
「どんなに頑張っても、どんなに強くなっても、やっぱり全てを救うなんて無理だよね。それはわかってるんだ。でも、それとこれとは別だよ。わかっていても、悔しい気持ちは消えないんだ」
涙こそ流れてはいないが、妖精二人には紙織が泣いているようにしか見えなかった。
物の怪は襲って来ない。というのは、実は百年近く前までの常識だった。ごく稀にだが、時折物の怪が凶暴化し、迷子も妖も襲ってくる事件が起きている。そして、退治する方法もないわけではなかった。ただ紙織が、手段として選びたくないというだけだ。
「けど、クヨクヨしてる場合じゃない。立ち止まったらそれこそ本当に終いだ。もうすぐお盆だからね」
よいしょ、と立ち上がると、大筆を鞄にしまった。来た道を振り返ると、森の奥深くまでやってきたことがよくわかった。
「灯、帰りは乗せてもらってもいいかな? ちょっと…いやかなり……疲れた……」
ふっと意識を失い倒れる直前、灯は人ひとり乗せられる小ぶりな龍に姿を変え、紙織の身体を受け止めた。燿も背に乗ったことを確認すると、灯はそっと空に飛び立ち家に向かった。
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