夏の天井

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 信仰心もなければ、その神というのが何なのかまるで考えたこともないのに、私はただ、濃密な緑の木立に囲まれた眩いばかりの光に浮き出された立体的な空間で、その時何かを祈っていた。祈りというのは、案外都合が良いもので、というより、信仰とかそれ以前のもっと、根源的なものなのかもしれなかった。  同僚のエマに、しばらく休んだ方がいいと言われたのは月曜日。夢の中で何度も嘔吐するので、朝起きると顔色が悪くカフェテリアでいつものようにエマに落ち合うと、その青い瞳でまっすぐに私を見て言ったのだ。 「ハズキ、あなたのせいじゃないってみんな知ってる。ねえ、自分のために少し休んでもいいと思うわ」  エマが二年前、フランスから日本に来て初めて行った、夏の京都が美しいと諭され、盆地で暑さが厳しいため今まで避けてきた夏のこの地へ、私は三十三年間生きていて初めて訪れていた。  祇園祭を控えた七月の、灼熱の太陽が降り注ぐ京都市街地。JR京都駅は古の都に想いを馳せて降り立った多くの人の期待を鮮やかに裏切るように近代的だ。京都の奥座敷と言われる貴船までは、地下鉄烏丸線と京都バスを乗り継いで、一時間弱。 東京もそうだが、全てが秩序立っている地下鉄の駅の、その無機質な存在を前に、振動なのか少しばかり震えている自分の体を座席で支えながら、私はまだあの声を聞いているのだと思った。  ――ねえ、先生。神様って、こういう形してるのかな?  私が非常勤講師を務める大学の、外国語演劇の授業を取っていた学生の一人が、人の悪意に晒されて自殺したのは二週間前。彼と最後に言葉を交わしたのは私だった。  とかく直接の原因でもなければ彼とは本当にその一度くらいしか話したことがなかった。いつも後ろの方で授業を受けていて、成績も中くらい。目立った発言をするわけでもない。彼がどんなグループに属して、どんなバイトをして、どんな女の子と付き合って、将来何になりたくて、そしてなぜ死を選んだのか――。  何も知らないのに、彼が最後に触れたこの世界の一部が、そして言葉を向けた最後の相手がこの私であった。ただ、そのことが今まで私を私たらしめていた何かを勢いよく破壊していったのだ。 「神様って、こういう形してるのかな?」  大教室を出たすぐの廊下の黄ばみがかった壁に貼られた絵画。世界中の神々を描いたというその絵は、不気味なくらい抽象的で、存在が象られていない何者かであった。それが人に似た何かなのか、もっと光のような物体なのかさえわからなかった。 「どうだろう……私も見たことないからな、神様」  私は彼の問いに答えることができなかった。世界の神々――それがどんな尊いものであるか私の理解はきっと及ばないほどのスケールなのだろう。  でも今思えばその時、彼は誰でもいいから、きっとその誰かと何者でもない神々に祈りを捧げたかったのかもしれない。  市街地を離れると、一気に気温が低くなったようで、山間は川沿いでもあり足元から涼しい。バス停から歩いて五分くらいで貴船神社の本殿がグレーの石段を登った先に見えた。ここからさらに北へ歩いた中宮は確か縁結びで有名だとかで、水占いを見ながら楽しそうに話す女性のグループが複数いる。  私は水占いもせず、何を祈るのでもなく、手を合わせ無心でそこに立っていた。  目を閉じるだけで周りの音は消え、地面に体ごと吸い込まれていくようなそんな感覚。  誰かに呼ばれたような気がして振り返ると、見覚えのある顔。それは紛れもなく高校時代の同級生、新名(にいな)君だった。  一瞬目があったように思ったのに、新名君は私のことなどまるで気づいていないかのように参拝へ進む。反射的に道をあけ横にずれると、その横顔を見つめた。細っこい肩に意外と濃い髭。がっしりとした手は、そのくりっとした目や天パなのか外ハネした髪型には意外で、そのあたりがやっぱり、新名君だ。  もう十五年以上経つのに分かってしまった。私の初恋の人。  手を合わせる彼をじっと見ているわけにもいかず、私は背を向けて参道の方へ戻っていった。川床の料理屋はどこも混んでいるので、鞍馬寺へと続く道の入り口にある、ブーランジュリに併設された小さなカフェへ入った。
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