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アイスカフェラテは、氷が溶けて薄くもなっておらず濃厚なままでとても味わい深かった。サンドイッチも具材をバケットが引き立てている。さすがは、エマがおすすめするブーランジュリだ。
ふと、窓から進行方向に参拝を終えた新名君が歩いてくるのが見える。視線を這わせていると、この店の扉に手をかけたようだ。
「いらっしゃいませ」
ブラックコーヒーと私が食べているのと同じサンドイッチを注文したらしい新名君は、店内のカフェスペースを見渡し、空席を確認すると横にやってきて椅子を引く。
新名君は私のことを覚えていないのだろうか――。
そっと顔を上げると「隣、すみません」と言い、腰を下ろす。
やはり思い出さないらしい。そりゃ十五年以上立っているし、仕方ないことだ。
声をかける勇気もなくなるべく新名君の方を見ないように注意しながら、前に向き直る。こじんまりとした店内のカウンター席は席と席との距離が近く新名君の左肘が私の右腕と触れそうになる。新名君は軽く会釈をしながら反対側に腰を曲げキャンバス生地のトートバッグから一冊の本を取り出した。
それはフーゴ・ラクールの「夏の天井」だった。
「あ……」
思わず小さく声を上げると不思議そうな顔で新名君が振り返る。
「……あ、いやすみません。先ほども貴船神社でお見かけしたので」
高校の時のように「その小説、私も好き」とは言えない。
「……そうでしたか。人、多いですよね。平日なのに」
新名君は本を開けずに前を向き、ブラックコーヒーに口をつけながら言う。
「そうですね……パワースポットで縁結びとかに人気みたいですね」
私は今新名君と言葉を交わしていることが信じられず、なんだか気恥ずかしくなって俯く。
「縁結びですか……そっちの方が有名なんですね。水の神様でもあるんですよ」
新名君は静かに続けた。水に関連する、例えば料理人や酒造関連の人たちの参拝が多いのだと。
「水の、神様……?」
目をそっと川の方にやると紅色に彩られた橋と光を反射して濃淡を見せる緑の木々たちがさざめく貴船川。所々流れの速い清流の、白いしぶきはダイヤモンドのように煌めいている。
こんなに美しい風景があるのにあの彼は逝ってしまった――あちらの世界で、彼は神様の形を知ることができただろうか。その輪郭に触れることができたのだろうか。
――ねえ、先生。神様って、こういう形してるのかな?
彼の言葉が私の頭の中心部に響く。まるでつい、さっき聞いたように。
私には、わからない……どういう形なんだろう。私の中の何かが内側から壊れていくのを感じて、涙が下まぶたの際で溢れそうになるのを必死に堪える。
もしもなんて無いし、私と最後に話そうと話すまいと彼は死を選んだのかもしれない。でももし、私がその問いに答えていたら……。
それによって何かが変わっていたとしたら……。
「……神様ってどんな形をしているんでしょうか」
私は新名君に尋ねていた。唐突な問いだ。戸惑いというか、不審がられて席を立たれてしまうかもしれない。私は新名君の顔を見る勇気がなくて、じっと前を向いたままでいる。
しばらくの沈黙の後、
「天井についた、黒い点……あの、ゾエの見た」
と右耳から確かにそう、淡々とした、でも温かみのある音たちが流れ込んできた。
ゆっくりと顔を上げると、新名君も私の顔をじっと見返す。その瞳の中に吸い込まれないようにして、私はやっと言葉を絞り出した。
「ゾエは天井までまっすぐに伸びる、日に焼けた父の太い腕を、バケットみたいだと笑った。そうしてその先の天井に付いた小さな星の形をした黒い点を、掴んでみてとお願いした」
新名君は答える。
「あれはあそこにあるべきだ。ずっとお前をこうして見守ってくれる」
一瞬、私たち二人の空間だけ、時が止まったかのようだった。
高校の同級生だったこと。よくトキエダベーカリーで学校が終わると小説の話をしたこと――。
新名君は私の顔を見てもまるで思い出せないと言った。でも何となく、このパンの香りと、その瞳、右目の下にある泣きぼくろに懐かしさを感じると付け加えた。
「『夏の天井』の話をしたのは時枝さんだけだったから、今、分かった」
手元のマグカップを握り直し新名君は、話し始めた。
「あの頃、僕は孤独でいることが楽だった。人との関係性が始まることが怖かったんだ……今でも、そう思うことはある」
僕は人の顔を覚えることができないんだ。
そう告白した新名君の表情を私は正面のガラス越しに見た。それは穏やかなものだった。
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