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それから彼女はあたしに付きまとうようになった。授業間には二年教室に来て、あたしに頭を下げ続けるし、学校を抜け出すときは必ず付いてくる。あたしがホテルに行ってもその近くで待っている。しかも彼女の名前が佐倉だと聞いて、余計に彼女が鬱陶しくなった。彼女があたしの前に姿を現すたびに投げ飛ばしてやりたくなったけど、あたしは二週間も我慢した。でもそれが限界だった。
「いい加減にしてくれる?」
「どうしてですか?」
「迷惑なの。分かる?」
彼女はひどく傷付いた顔をして、長い睫毛を伏せて、俯いた。あたしはそれでいいと思った。彼女は見たところ、こんないかがわしい街に居ていい子ではない。底辺高校を出て、何が出来るのか分かったものじゃないけど、少なくともここに骨を埋めてはいけない。
「あの、今日で諦めます。だから付いて来て欲しいことろがあるんです」
「今日で勧誘は終わりにして。あと、あたしに付いてくるのも止めて。それなら付いて行ってあげる」
「お約束します」
彼女はそう言うといかがわしい街の深部に足を向ける。途中あたしが付いて来ているか不安になったようで、彼女はあたしの手を握った。あたしは自分の身体が雷に打たれたように反応したことに驚く。普段、見知らぬ男に行為中に繋がれる手が今は柔らかい女の子に握られているのが不思議でならなかった。
彼女がこんなところに何の用があるというのだろう。あたしは彼女の辿る道で彼女がどこに行こうとしているのか大体検討が付いた。でも、だからこそ彼女の意図が分からなかった。
彼女があたしを連れて来たのは、やはりクスリ小屋だった。周囲には小屋の中に入り切れず、ハイになって雄叫びを上げている人やクスリが切れて虚ろになっている人が大勢いた。皆路上で荒い呼吸を繰り返していた。
彼女はクスリ小屋の近くで立ち止まると振り返って、あたしの目をじっと見つめた。彼女の目には一点の曇りもなかった。
「私の父はマトリでした」
「……麻薬取締官」
「そうです。父はヤクザの抗争に巻き込まれて死にました。私は父のような優秀なマトリになりたいんです。ここを潰して、暴力団に制裁を加え、壊滅させます。難しいことだとは理解してます。でも、私は父の跡を継ぎたい。そのために鶴谷先輩のお力が必要なんです」
あたしが彼女の言葉に動揺しなかったと言えば嘘になる。あたしは彼女の目を見つめたまま逡巡していた。彼女は至って真剣だった。
あたしは突然込み上げてくる笑いの衝動に耐えきれず、声を上げて大笑いする。彼女がそんなあたしを怪訝そうに見ていた。
「確かにあんたにはあたしの力が必要みたいだね」
「……それじゃあ!」
「あんた気に入った。でも、その前に話しておきたいこともあるし、ちょっと付き合ってもらうよ」
あたしは彼女の手を取って、歩き出した。
***
あたしは彼女を自分の家に連れて来た。これはかなり珍しいことだ。あたしはこれまで誰も家に上げたことがない。念のため、父親の帰宅スケジュールを確認して次の帰宅は来週だと知って安心した。
彼女を家のダイニングテーブルの椅子に座らせて、あたしは向かいの椅子に座る。
「あんたの下の名前、訊いてなかった」
「那津です。佐倉那津といいます」
「じゃあ那津ね」
あたしがそう言うと彼女は破顔した。その笑顔に思わず見惚れそうになって、あたしは頭を振る。
「早速本題に入るけど、那津は六条会って知ってる?」
「広域指定暴力団の櫻庭組の幹部組織ですね。櫻庭組といえば、最近、新たな若頭が就任したとか」
那津が淡々と答える。あたしはそれに頷く。
「そう。よく知ってるね」
「鶴谷先輩を待ってる間にイロイロと情報を集めてました」
「なるほどね。……あたしはその六条会の幹部の娘なの」
「え?」
「やっぱり知らなかったって顔ね。学校で噂が大々的に流れてるのに、知らないなんてこっちが驚きだよ」
「……本当なんですね」
あたしは怖くて那津の顔が見れなかった。引かれることには慣れている。暴力団の患部の娘。そう知れば堅気は離れていくし、同業者には睨まれ、チンピラにたかられる。学校の奴らはあたしを腫れ物のように遠巻きに眺めて、憶測でしかない悪口を言い合う。そんなのはいつものことだ。でもどうしてか、那津に引かれることがとても怖かった。
「まあね。……あたしは六条会の跡継ぎの護衛になるようにと育てられた。この武力はそのときの訓練の賜物なの。だから那津があたしと過ごすことは、暴力団関係者と過ごすことになるわけ。それでも那津はあたしの力が必要?」
「ひとつ質問いいですか」
「どうぞ」
那津が緊張した面持ちであたしを見据えた。
「鶴谷先輩が暴力団の、幹部の娘なのは分かりました。それなのに、どうして私に力を貸そうとするんですか?だって私は鶴谷先輩に暴力団を壊滅させるって言ったのに」
「あたしはね、あいつらが大っ嫌いなの」
「え?」
「あたしは跡継ぎよりも柔道も空手もテコンドーも弱かった。だから父親から見放された。小さい頃はそれでも頑張って父親を見返そうとしたけど、父親はどれだけ頑張ってもあたしを認めようとはしなかった。父親はあたしよりも跡継ぎの姫を敬愛して溺愛してた。それがムカついた。あたしの周りが全部、その跡継ぎを中心に回っているのが気に食わなかった。もし。もし、あたしがヤクザの家に生まれてなかったら父親に少しでも愛してもらえたかもしれない。だからあたしはあいつらが嫌いなの。だから那津があいつらを壊滅させたいならいくらでも手を貸す」
あたしが吐き捨てるように言うと、那津が突然立ち上がった。あたしは驚いて目を丸くした。那津があたしの頭をギュッと包み込んでいた。那津の柔らかな胸があたしの顔の前にあって、心臓が壊れそうなくらいバクバクしていた。始めは那津に抱き締めれているだけだったけど、あたしは恐る恐る那津の背中に手を回した。那津の手があたしの髪を撫でる。あたしは目を閉じて、那津の体温を感じていた。
「先輩、私に力を貸してください」
「分かった」
その次の日から那津は約束通り、あたしを柔道部に勧誘しなくなった。その代わりにあたしは那津に相手の無力化の仕方を教えるようになった。あたしにあって那津にないものは、相手の戦意を喪失させるまで戦うか否か、という点にあった。あたしは那津に力加減を教えた。話の通じない奴らを相手取るときは必要になってくることをあたしは長い裏社会生活で学んでいた。幸い、那津は柔道で鍛え上げた基礎体力と能力があったから上達も早かった。あたしは一日の大半を那津とともに過ごした。那津はあたしが授業をサボると一緒になって学校を抜け出す。あたしたちは近くの空き地や路地裏で訓練をしながら、街を練り歩いた。
那津は本当にいい子だ。あたしがいくら邪険に扱っても笑顔であたしを見上げる。あたしの態度は優しさの欠片もないのに、那津はあたしを気遣って、あたしのためにも力を得ようとしている。そんな那津の存在があたしの中で大きなっていることに気付いたあたしは、訓練を付け終わったら那津との関わりを全て絶つことに決めた。やっぱりこの子はあたしみたいな社会の屑を踏み台にして、明るい世界に戻るべきなのだ。あたしと違って、那津はまだ向こうに戻れるのだから。
那津と行動をともにするようになってからあたしは男と寝なくなった。あたしは那津といることでこの掃きだめのような生活に刺激を得てしまった。快楽もお金も必要ない気すらした。
「優紀先輩」
「ん?」
帰り道、那津があたしの手を握る。あたしはつぶらな瞳から目を逸らして、その手に力を込めた。
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