匂い

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匂い

まるで、酒呑み人形に酒が注がれるみたいだ。生気を失った顔の男が五人、黙々と酒を胃に浴びせている。風呂屋の後ろ、いくら仏を運び慣れていると言っても、浴びなくてはやってられなかった。 「ぐぇーっ。」 盛大に吐いているのは、佐平次とか言う若い岡っ引き。飲むか吐くかどちらかにしてもらいたい。 「なんだ…助っ人!ずいぶんと情けないな。元々は一緒じゃないか…ただ数が多いってだけの話よ。何せあの狂った方が集めてしまったらしいからよ。」 死人を生き返らせると豪語したが、誰も生き返ったりは、しなかった。ただ腐乱しただけ。その中に、若い岡場所の遊女が加わっていた。佐平次はその遊女さえ見つかれば良かったのだが、相手が悪かった。本職の黒鍬さん達でなければ、手がつけられ無い状態なほど、酷い状態になっていた。 「確かに凄いですけど…仏さん全部殺した訳じゃ無いでしょう?水死体をこんなに貯めて居たなんて…勘弁して欲しいよ。」 最初の内こそ機嫌をとっていたお調子者も、恐怖を感じて逃げ出した。そして成り立ての岡っ引きである佐平次に気の毒な教祖様を売ったのだった。元々は願人坊の教祖様、異臭騒ぎを起こして、長屋を追い出された挙げ句、火災現場の祈願寺跡に居座っていた。その部分だけは紙一重なのかも?その…遺体を顔色ひとつ変えず検分している者がいる。町医者源心だった。 「おい!助っ人の兄ちゃん、あの町医者先生は、何を鬼の様に探していたんだね?」 死体集めの前は不法投棄の現場になっていた。もう祈願寺の跡は結構な事になっていた。 「あの狂った方が、殺人はしていないって証拠ですよ。身元がわかると勝手に信者が生き返らせるからとお金を請求に行ったんで…犯罪者には都合が悪かったんでしょうよ。それでやってもいない殺人犯にされかかっているんでね?」 懸命に読経する姿は、本当に生き返らせられるのでは?と初めは信じる信者も現れる程だった。その…鬼の顔をした源心が酒を浴びる仲間入りした。 「犬猫の内に何とかすれば良いものを…異臭何ぞと騒ぎおって!きちんと埋葬しないからこんな事になるんだ!あの馬鹿どもめが!」 この医者にしては珍しく感情的?酒を吸い込んでかなり悪い酒になっている。黒鍬さん達は詳しい事情を知らない。ただご苦労様がわりの良い湯加減の風呂と、真新しい服をもらって、やっとホッとしている。その時だった、なにやら銭湯の入り口で主と客が揉めていた。わざと休業の札を出していたのに… 「だから女将さん彼処に松之助さんは居なかったんです。裏に回ってもその…松之助さんじゃ無い方ばかりですから、捜すと言われましてもお通し出来ませんので…。あっ!今岡っ引きの方もいらしたから、その方に頼んでみてはいかがですか?松之助さんを見つけてくれるかも知れませから…今お願いして来ます。」 店主が、岡っ引きの佐平次を拝み倒すと、やっぱり来たから…上手に話を聞きに行って欲しいとお金を包んだ。このまま捜されると都合が悪いからで、佐平次は訳がわからないまま、酔いつぶれたふりをしている源心をおいて、銭湯から商家へと連れて行かれる事となった。黒鍬さん達の様子がおかしくなっているのも、気になっていた。どうもあの声の主は、ここら辺りでは有名人らしい。店主がひそひそ話をして、泥酔しそびれた岡っ引きだけが、話を聞きに行くと決まった。もう一人居た小僧が急用を思い出して離れたのだと言う。殆ど泣きそうな小僧さんの様子はただ事ではなさそうだ。ただ肝心の声の主の顔を拝めなかった。 「良かった!誰か一緒じゃないと不安で仕方なかったんですよ。一人だと女将さんさっさといろんな場所に行ってしまうから…。何時もは、その…手代さんが来てくれたのに、怪我しちゃったんで本当にすみませんでした。」 怪我をした?佐平次の怪訝な顔に岡っ引きを丸で捕まえた様に離さない小僧さんが、少し慌てている。余計な事を言いすぎた。法印が安全の為隔離されたのは、まだ知らない筈。ただ見張っているならば別だが?お風呂屋さんは、佐平次にも逃げられたら困るので、主を落ち着かせている内に、早駕籠が到着したのだった。まるで予測した様に。 「あの…狂った人は捕まったんじゃ無いんですか?変な事を言うから、女将さん外出するって大変だったんです。」 不安そうな小僧の顔、女将さんは、大急ぎ一人で店に返した。店で何とか早急に対処する筈だと言う。不思議な事に小僧さんだけ残って待っている。 「町医者の源心先生と言う方が、法印様を連れ出してくれたんですが、岡っ引きの佐平次さんの方が化け物の扱いに慣れているからとか話していたのですけど?ご存知ありませんか?この辺りの方ではないと教えられたのですけど…まだお店に勤めて一月なんで。」 源心の寝たふりの理由は、読めたが…女将さんに何か言われて、不安そうな小僧さんの前では怒り出す前に行かず。金子を寄越してくれた相手の顔を立てに、小僧さんと一緒に会いに行こうと腹を決めた。狂ったお方はそれほど活動範囲を広げてしまっていた。新参者の自分が職場荒らしと成りかね無いから、挨拶だけは、きちんと通したい。何故か縄張りの親分さんが、佐平次を知っているような感じだった。その理由を知ったら、佐平次はまた激怒したにちがいないが…。ただならぬ事の匂いで、それどころでなかった。
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