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―傍で、温めて―
互いに引き寄せられるように重ねた唇。
たった一瞬の温もりは刹那。
だけれども、知っている。彼の温もりを。この甘い感触を。
――何処で?
「俺ハ誰……?」
自分という輪郭が曖昧になっていく。自分が自分でない不安定さ。
「アイツワ、先生ノ、何?」
不安を少しでも和らげたくて、自分の存在を確かめたくて、先生の瞳に映る自分の姿を覗き込む。
「先生」
「違う。総武だ」
「総……武?」
言われるままに呟いた。
確かさっき、不思議な感覚の中、自分は自然とそう呼んだ気がする。
「沢意」
囁きは耳元で聞こえた。
今まで聞いた事がないくらい温かな響き。
いつしか自分の体は、その長い腕に包み込まれていた。自分の輪郭が、彼の腕の中でハッキリとしていく安心感に、ホッと息を吐(つ)く。
「〝総武〟ッテ、アイツガ呼ンデタノカ」
自分の安堵を誤魔化す為にかけてしまった言葉。ピクリと僅かな力が入った彼の腕に、言葉の選択を失敗した事を悟った。
「ゴメッ」
慌てて謝り、顔を上げると、彼は苦しそうにこちらを見つめている。
どこまでも独りきりの瞳。
そんな自身を見られたくなかったのか、彼はこちらの肩口に顔を埋めてしまった。
背の高い彼が、その広い背を丸め自分に寄りかかってくる姿は、やはりどこか支えの失った大木の様で、彼が立つには自分ではだめなのだと知らされる。
「アイツジャナクテ、ゴメン……ナ」
もう一度彼に謝った。
(求めている大切な人じゃなくて、ごめん)
いつしか甘いドロップの香りは辺りから消えていて、優しさの後の淋しさだけが、残り香のように漂っている。
「謝るな」
苦い怒りを含んだ重たい声音は、彼の額が触れている首筋から直接響く。
「ゴメン」
謝るなと言われたけれど、さらに謝った。
「だからっっ」
重ねた言葉に、暗い怒りを含んだ瞳がこちらを向き、強い力で腕を掴まれる。
求めている相手と似ている者が、求めている反応を返してくれない、当然の焦燥。
我慢しきれない苛立ちが彼の体中から溢れているのに、そのままをぶつけるほど彼は非情になれない。
自分はそれをぶつけてくれるまで待つしかないのに、強く掴まれた腕は微動だにしない。
それは突然だった。
苦しく寄せられた眉を更に歪めて、怒気もそのままに唇を塞がれる。
愛しい相手に与える優しいキスではなく、どうしてアイツではないのだと責められる、痛い口付け。
ただ、それを嬉しいと思った。
彼に触れてもらえることが嬉しくて。彼の体温を感じる事が嬉しくて。
いつも“沢意”の気配を感じさせていた彼が、自分に感情をぶつけて触れている。
ただただ、嬉しかった。
何度も角度を変えて咬みつくような口づけは熱く、触れる熱は怒りも愛情も変わらない。
荒々しいまでのその行為に、彼がぶつけている想いの激しさを知る。――そして、自分の想いも。
(好きだ。――この人が、好きだ)
湧いてくる想いは、止めどなく溢れだす。
気付いた想いに生み出された熱は、体中を巡り、逆上せる体温を彼に直接伝えてしまう。
「待つつもりだったのに、タクイが悪い」
たった一言告げられた言葉の意味を掴み損ねたまま、思いのほか力強いその腕の中へと再び捕まった。
強い抱擁に感じた痛みは、そのまま彼の想いの証のように自分の中へと侵食してくる。求めているのは、求められているのは自分ではない想い。それでも彼は自分を抱き締める。
そうして、重ねる唇。
「沢意」
自分と同じ音を持ちながら、違う響きのアイツの名前。
自分ではないと分かっていながらも、それでも構わなくなるほど、求められている感覚が愛おしい。
「総武」
零してみた呟きに、彼の吐息も反応する。
アイツの代わりに自分が彼の名前を呼ぶ。それでも良いと思った。自分が彼を好きだから、たとえ違う人に向けられている熱でも、自分で感じられるなら感じたい。
腕は解かれたが、有無を言わさず手を引かれ、そのまま彼の部屋へと連れられた。
「結局、俺には沢意しか居ないんだな」
座らされたベッドの上、聞かされる想いのなんて残酷な事か。それでも彼は、心から微笑んでいて、自分へと伸ばす手に躊躇いなんて一つもない。
「〝沢意〟ではないと分かっていて手を出す俺を、〝お前〟はどう思うんだろうな」
目の前に居る自分へ向けた問い掛けなのに、アイツへの問い掛けのように感じるのは変だろうか。
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