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「本当ニ、コノ部屋使ッテ良イノ」
色褪せた古い襖を開いた部屋は、客間と言うよりも先に使用者が居た、机とベッドしかない畳の部屋。もちろん誰の部屋かなんて想像は容易い。
「〝アイツ〟ノ部屋ダロ」
「そうだな。でもアイツは今は居ないし。まぁ、帰って来るまではタクイが使え」
「マジデ良イノ? 先生」
彼は嫌そうに眉を寄せた。
昨晩から彼の呼び方に悩んでいたら、朝から彼を訪ねて来る人々が、彼の事をそう呼んでいたから、倣ってみたのだが。
代々小さな医院を開いていると言ったのは彼だ。昨晩、全ての片付けを終えた先生が再び自分の元に寝袋持参で現れ、時間の許す限り話しに付き合い教えてくれた。
代々と言っても、彼の父や母はこの家には居ない。彼が継いだのも「祖父の後だ」そうだ。
そんな昔馴染みの患者や、口伝てで彼の腕や人柄を聞いた遠方からの患者を相手に、午後にずれ込むまで診察をし、昼食もとらずに「放って置いて悪かったな」と、白衣のまま自分の様子を見に来てくれたのは、とっくにお昼を回り夕方に近い時刻の事。
昨晩から寝かされていた白い部屋は、簡易で設けられている処置用ベッドだった。そこから大きな中庭を挟んで建っている、この母屋に案内された。
「先生」
黙り込んでしまった先生を、もう一度呼んでみる。
「止めろ。お前がそう呼ぶ必要はない」
低い声で怒ったように言い捨てると、目も合わせてくれない。
「ダケド俺、君ノ患者ミタイナモノダシ」
「患者をこんな所まで案内なんかしない」
「デモ、アイツト違ウカラ」
「……」
アイツが居なくなった理由も、彼の父母が居ない理由も聞いてはいない。自分が知るのは、彼はこの広い家にたった一人という事。
なぜアイツは、こんなにも大切に思い続ける彼を残し、この家に帰って来ないのか。
不器用に表情を作る彼を前に、聞いても良い事は彼が自ら話してくれる時に話してくれる事だけと、こちらから聞く事を諦めた。
「取り敢えず、タクイはこの部屋を使え」
「ワカッタ。アリガト」
眉間に深い皺を刻んだまま、彼は二コリともせず、ともすれば重たい溜息を吐きそうな顔で、こちらを見ている。
そして徐にポケットから、アルミ缶を取り出した。
カラカラと音を立てて、中に固い何かが入っているのは分かるが、中身が何なのかは知らない。ただ自分の体が急にビクリと大きく反応した。
自分の脳にあるデータは、その缶を見た後の甘い香りと、ドクターの妙にねっとりとした囁き声だけ。
「ア……ア……ッ……」
次第に呼吸が浅くなって、体が硬直していく。身体機能が停止寸前まで冷たくなって、手も足も感覚が無い。
無様に零れる声も掠れていて、上手く息が吸えていない事を相手に伝えてしまう。
もう自分の瞳に、先生は映っていなかった。
急に乱れ始めた脳が映しだしているのは、小さな缶と、ここには居ないはずのドクターの姿。
『そうだよ。ゆっくり息を吸ってごらん。甘いだろう? これで貴方は、楽になれるよ』
「イヤ……ダ……ッ。アッァッッ」
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