七月の微熱

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「はい」  塾の帰り、幼馴染のミユキから差し出されたのは、青い短冊だった。 「いいよ。やんないって言ったじゃん」 「だめ。次、ちょうど七夕だから、吊るすの」  小学生かよ、と顔をしかめた僕のノートの上に短冊を叩きつけ、ミユキは八重歯を見せて笑った。 「あっっっちぃ」  扇風機の首を足でこちらに向けながら、ベッドに寝転がる。生ぬるいシーツの上に転がっても少しも快適ではなかったが、体を起こしているよりかはいくらかましだった。  倦怠感がすごい。  肌という肌が夏の湿度を吸収している。  文字たちがせめぎあう暑苦しい参考書と、べたべた腕に貼りつくノートを見下ろしているのは、もう限界だった。  ぬるい風を浴びても一向に冷えない体に、人間というのは発熱して生きているのだな、と謎の実感を得る。  面倒で先延ばしにして、いまだに壁にかかっているダッフルコートがうとましかった。あれを着たいと思っていた数か月前の自分の気持ちが少しも思い出せない。冬の方が好きだった。冬が恋しい。でも冬では、夏を欲していた気もする。  ベッドに触れている背中から、僕がじわじわと流れ出ていく。すぐに熱溜まりになって、寝返りをうっても同じだった。  肩が、脇腹が、重なった足の隙間が暑い。足の指でボタンを探り当て、扇風機の風量を「強」にしてみたが、それだとボロ扇風機の羽ごと飛んできそうで、すぐに「中」に戻した。  汗を拭った額の奥に、熱をはらんでいるような気がする。夏が暑いのではなく、僕が熱いのかと、ベッドの棚に置いてある体温計を手に取った。シャツを捲くりあげて脇に挟み、爪で電源を押す。  でもこういう時って、大抵熱ないんだよな。  点滅する体温計をちらりと見て、視線を天井に戻す。本当に熱がある時は、測らずとも体感的にわかるものだ。熱があってほしいだけ。勉強が滞っていることへの、言い訳がほしいだけだ。  体温計の正しい使い方は、小学校の保健室のポスターから学んだ。  服の裾から中に入れ、先端が脇の中央に当たるように、やや下向きで挟む。ピピピ、と音が鳴ってもすぐには出さずに十秒数えてから取り出すこと。  今でこそほとんど無縁の場所になったが、低学年の頃は入り浸るように保健室に通っていた。  たぶん、小学一、二年生の頃の話だ。  最近になって、なぜかふいに昔のことを思い出す。フラッシュバックというほどはっきりとした回想ではなくて、気づいたら時折、過去の記憶が上映されている。  雑巾は水が出なくなるまで絞り、重ねないで干しましょう、という呼びかけの壁面ポスターを書いたこととか、絵の具の水入れには三分の二くらい水を入れれば、こぼれないで丁度いいと先生が言っていたこととか。  保健室で、少しでも熱を上げようと、脇を力いっぱい締めて熱を測っていたことも、そういう記憶のうちの一つだった。勉強漬けの毎日に、疲れているのかもしれない。  僕は、特別体が弱かったわけではない。というかむしろ丈夫なほうだ。ただ、頭痛持ちであった。気温や気圧の変化に弱く、雨の日は頭が鈍く痛んで何もしたくなくなる。  最近は眼精疲労と肩こりのせいで、頭痛は慢性化していた。だが慣れてしまえばもうどうでもよくて、よほどひどくないかぎりは無視していた。万全な状態のほうが珍しい。  幼い頃は不調に敏感で、その都度先生や友だちに訴えていた。  保健室で体温を測る時は、必ず力いっぱい脇を締めた。その行為にどれだけの効果があったのかはわからないが、そうすると大体、三十七度を超えるか超えないか程度の体温になった。微熱か、そうでないかぐらい。今は平熱が低いから、それぐらいが一番しんどいのだけれど。子どものころは体温が高いから、たぶん大したことはなかったのだろう。保健室の先生も、微妙な反応をしていた気がする。  だが、七度を超えると、一応親に連絡するかどうか聞いてもらえた。微熱ね。どうする、教室戻れそう? それともお家の人に来てもらおうか。  その時の記憶のせいで、今でも体温計で三十七度を超えると、少しだけ得をしたような気持ちになる。いいことなんてこれっぽっちもないのに。  いつだったか、どういう経緯だったかも正確に思い出せないが、七度を超えた僕を父が迎えに来てくれたことがあった。  そういう時に迎えに来るのはいつも父だったような気もするし、その日はたまたま休みでその一度きりだったような気もするが、確かに父だった。  父に連れられ、他の生徒よりも早く家へと帰る。父の広い背中にちっぽけなランドセルは似合わなくて、僕はにやにやする顔を俯いて隠した。職員室と校舎との間の、保健室から帰る時しか通らない連絡通路を歩く。悟られまいとして、余計に僕は浮かれていた。父と二、三言何か話して、そして父は僕を見下ろしながら言った。 「お前、仮病じゃないだろうな」  一言一句違わず、というわけではない。声色も覚えてなかった。けれど父は僕を疑い、そういう事実があったことは、しっかりと覚えている。覚えているということを何度も記憶の中で確かめすぎて、その出来事だけ漫画のコマみたいに僕の中に浮き出てしまっているのだけれど、本当にあったことだった。  仮病、ではないつもりだった。でもあの時僕は甘えていた。保健室の先生に、早退できることに、母に、父に、三十七度を超えた、体温に。  繰り返し思い出すのはそこまでで、その後僕がどうしたのかはよく覚えていない。父に疑われたというショックだけが、その姿形をくっきりと残して、鳩尾のあたりに焼きついている。ケロイドというには大袈裟な痕跡が、僕の中でざらついていた。  父はもう、こんなこと覚えてないはずだ。僕だって拘っているわけじゃない。それほど父のことが好きではないし、それほど嫌いでもなかった。ただ、かさぶたになりきらない、塞がっていない傷がいくつかあるだけだ。かゆくなって時々縁をなぞるが、弄りすぎるとじゅくじゅくと膿が出る。だからそれ以上はしない。そういうものが、父と僕の間にはあった。  無愛想で、無口で、あまり人を褒めることもなく、母のどこに惹かれて僕を産むことにしたのかもよくわからない父のことを考えると、突然深淵に放り出されたような、途方もない謎を感じる。掴みどころも距離感もない、宇宙のような漠然としたもの。  父は滅多に笑わないが、対照的に母はよく笑った。母は、陽気で朗らかで無神経な人だ。いまだに僕のことを平気でちゃんづけするし、部屋にだって何の前触れもなく入ってくる。そういう無遠慮さが、何かの奇跡で父の戸を開いたのだろうか。その奇跡の上に僕がいると思うと、押しつけがましい気持ち悪さと果てしない生命の神秘を感じてむず痒い。  計測にやたらと時間のかかる体温計が、ようやく小さな音を立てた。三十六度四分。七度にはほど遠い。全然熱ないじゃん、と落胆していた。寝返りを打つ。閉じていた脇は熱かった。  こんなに熱を持て余しているのに。 「……あつい……」  アイス、もう一本食べようか。机に置きっぱなしの袋には、すでに裸にされた棒が突っ込まれていた。  友だちの家でアイスをもらった日、家に帰ってもう一本アイスを食べて、腹を壊したことがある。トイレの壁を見つめて、アイスは一日一本って、守らなきゃやっぱだめなんだ。ルールってそういうものなんだ、と思ったことを思い出す。何でこういう、つまらないことばかり思い出してしまうんだろう。勉強をしたくなかった。  袋の横には、ミユキが押しつけた短冊が置いてある。参考書に挟んで持って帰ったから、飛び出してしまった下の方はしわになっていた。アイスを一日二本食べても腹を壊しませんように、と書いてやろうかと思ったが、さすがにあんまりだと思ってやめた。  喉が渇く。1.5リットルペットボトルも飲み干してしまったのだった。ベッドからのろのろと起き上がる。空になったペットボトルを回収するついでに、短冊を手に取った。  天に架かる川を挟んだ恋人たちが、見ず知らずの人間の、こんな小さな紙に記せる程度の願いを聞き届けてくれるとは思えなかった。シャーペンを手に取る。家族の、と書いたところで手を止めた。 「シャレにならん」  誰も見ていないのに、隠すようにして消しゴムをかける。短冊の左側が少しだけ破けた。天の恋人たちの関心はなくても、ミユキの関心はあるだろう。絶対、見られる。書けない。そんなことは。  短冊はほとんどゴミ同然であった。それを参考書に適当に挟む。今度は上の方が飛び出てしまったが、気にせず鞄につっこんだ。 「書いてきた?」 「何を」 「短冊よ、願い事。見せて」  そう言いながら、ミユキは目ざとく参考書に挟んだ短冊を見つけて引っ張り出した。僕の願い事に勝手に目を通して、何よこれェ、と顔をしかめる。 「『夏がもっと涼しくなりますように』って、なにこれ? 他にないわけ、ジジくさ」  ミユキはうんざりした顔で、僕の願い事を散々に言った。ミユキの指先で、死にかけみたいな僕の短冊が泳ぐ。  ミユキの薄桃色の短冊は、アイロンをかけたようにぴっちりとのびていて、生き生きとしていた。その隣に、僕の青い紙屑を吊る。一緒に笹に飾るというまで、ミユキは僕の襟首を掴んで離してくれなかった。  僕たちの他にも、何人か短冊を吊るす塾生たちがいた。ロビーにある小さめの笹に、有り余るほどの短冊が結びつけられ、自動ドアが開くたびにかさかさと喧しく鳴る。もはや笹ではなく、カラフルに茂った木だった。派手で奇抜な、風情のない、強欲の権化。  ミユキの願いを見ようとしたら、「ジジイにゃ関係ないわよ」と跳ね除けられた。結局見れず終いで、吊るした後にこっそり見てやろうかとも思ったが、それほど興味もなかったのでやめた。  昼間の熱が払拭しきれていない七夕の夜を、ミユキと一緒に駅まで歩いて帰る。  この間まで、夜はまだ冷えるからとカーディガンを羽織っていた肩は、すでに剥き出しにされていた。サイズのあっていない服が下に引っ張られてずり落ちたみたいな形の、へんてこな服をミユキは好む。薄闇の中でも白くてなめらかそうなミユキの肌を見ていると、そこには女の子がいるのだな、と思う。  ミユキが、ふいに僕を振り返った。 「つまんない」  尖った唇はいつからか、てかてかと照り輝くようになって気持ちが悪い。僕はため息を吐いた。ミユキの眉間のしわが深くなる。つまんない。三度目の文句を言って、ミユキはいーっと歯を剥いた。
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