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あなたは、傘
[視点:松澤聡一]
「……少し疲れた。そこのカフェで休みたい」
私の一言に、いつも傍らにいる東條が荷物を持ちながらうなずいた。
「承知いたしました」
取引先との交渉が成功し、緊張の糸が解けたと同時に疲れがどっと押し寄せる。結果的には上手くいったものの今日の交渉は難航した。
平日のカフェは人が少なく、私は窓際の席に腰を下ろす。東條は私が座ったテーブルの空いた席に荷物を置き、すかさず近づいた店員にコーヒーを二つ頼んでお代を支払った。
「松澤様、すみませんが運転手に指示をしてきますので一旦こちらを離れます。すぐ戻りますので」
「わかった」
そう残して東條がその場を離れ、特にすることのなくなった私は辺りをそれとなく見渡した。天井がぐっと高いそのカフェは窓も天井まで高く、開放感に溢れている。
するとすぐにカフェの店員がやってきて、コーヒーを私の席と真正面の空いた席にコーヒーを置き、一礼して去っていく。
淹れたてのコーヒーのかぐわしい匂いが心地よく、座り心地のいいソファにもたれかかった。癒される空間だ。
私は窓ガラスをの方を見ると反射した自分の姿を見た。……老いぼれだ。見慣れてるはずの自分の姿が、改めて老けて見える。
――……零二がこの世を去って、もう二年になる。
ということは、千尋くんが亡くなったのはもう三年にもなるか。
子どもを失った親という顔を持つ私は、未だに心の中にぽっかり穴が開いているようだった。仕事をしている最中は忘れられるが、こうして息をついた瞬間にふとその事実に胸が貫かれるような痛みを伴う。
私は自分の財布の中に大事にしまっている写真を取り出した。そこには高校の入学式で撮られた自分と零二の姿がある。
ちょうど仕事で零二の通っていた高校の近くにいたため、出席することができたのだ。しかし。
一番新しい零二が写っている写真は、この一枚だけだ。
あまり笑わなくなった零二が、この写真の中では儚げに微笑んでいた。傍らの桜の木から花びらが柔らかく降っているからそう感じるのだろうか。
いや、実際零二の命は儚いものだった。
しかも自殺だ。
これが事故や病気ならば多少恨む相手はいたのに。自ら命を絶ってしまったその死で恨むべきは、彼らを世間から守ることができなかった自分だ。
悔やんでも、悔やみきれない。
「そうやって、自分ばかりを責めちゃだめですよ」
気づかぬうちに東條が戻っていたのかと思い、「いや……」と言いながら真正面の席に目を向けた瞬間。
自分の目を疑った。
「……仙崎……さん?」
そこには、あの柔らかい笑顔で自分に笑いかけている仙崎敬介がいた。
「あぁ、よかった! 僕のこと、忘れないでいてくれたんですね」
「忘れるもなにも……ずっと覚えていました。仕事でつらかった時も、あなたの笑顔を思い出して乗り越えてきたんですから」
そこまで一気に話し、色々な違和感を感じる。自分の声がなんとなく若く聞こえた。
急いで窓に映る自分の姿を見て声をなくす。
……若い。それこそ、仙崎さんとあの雨の中で出会った当時の姿だった。
「嬉しいなぁ。松澤さんが僕のこと、そんなに想っていてくれたなんて。――って、苦っ!」
小さな悲鳴をあげる仙崎さんはコーヒーを飲んだらしく口を押えて苦い表情をしていた。その手元のシュガーとミルクはとうに入れられた後だったのだが、足りなかったのだろう。
私は子どものような反応を見せるあの頃のままの仙崎さんを、なぜか愛しい目で見てしまった。
「シュガーとミルクをどうぞ。私は使わないので」
自分のシュガーとミルクをそっと差し出すと仙崎さんはまた、優しい笑顔を見せてくれる。
「ありがとうございます! やっぱり松澤さんってかっこいいです。こうした気配りもしてくれるんですから。――うん、美味しくなった!」
いつまでも見ていたいその笑顔に心を奪われてしまった。
しかし、そこでハッとした。仙崎さんがここにいるということは、私は死んだのだろうか? それとも、夢を見ているのか?
すると目の前の仙崎さんは私の戸惑いがまるでそのまま聞こえたかのように答えてくれた。
「大丈夫、松澤さんはまだ亡くなってませんし、これは夢でもないですよ。……手を、貸してもらえますか?」
「手……?」
すると差し出した私の手を仙崎さんが両手で包み込んでくれた。私は目を見開く。温かかったのだ。しかも、ちゃんと仙崎さんは存在している。ここに、いる。
「ね?」
あどけなく笑う仙崎さんを見たとき、私の心は抑えられなくなっていた。
「すみません、まだ時間はありますか? ここから近くの場所にホテルの部屋をとっています。よければそこでランチでも……」
ランチなど、建前だった。しかし、「ぜひ!」と笑う仙崎さんを見ては、自分はなんて罪な男なのだろうと漠然と思ったのだ。
*
ホテルの一室にて。
「すみません、荷物を持たせてしまって」
「いいんですよー、僕でもできることってこういうことしかありませんし」
取引先からもらった品物が入っている紙袋を仙崎さんは手分けしてここまで持ってくれた。
「それにしても立派な部屋ですね……! しかもホテルの最上階ですよ?」
「あぁ……このホテルは私の会社の系列なので」
「え、そうなんですか!?」
「もし気に入っていただけたなら、今度部屋をお取りしますよ。もちろんお代はいりません」
「いやいやいや! 僕にはとても高級すぎて身の丈に合いませんから! あ、えっと、この紙袋はどこにおけばいいですか?」
「あぁ、長いこと持たせてしまって申し訳ありません。その紙袋は床に置かれていたものなので、ベッドの隣の床に置いてもらえますか?」
「はい!」
どんな時も笑顔で返事をしてくれる仙崎さん。
あぁ、あなたが長く生きていてくれさえすれば、私はずっとあなたのその笑顔を見れたし、千尋くんもつらい思いをせずに済んだのに。
……そんなことを思っても、しょうがない……か。
仙崎さんはホテルの中をきょろきょろと見まわしたり、そこから見える窓の外の景色を見たりしていた。
「はぁ……ため息がこぼれるほど素敵な眺めですよね……。ねぇ、松澤さ……って、わっ!?」
その時。
突然床に置いた紙袋が倒れ、その持ち手の部分に足を引っかけてしまった仙崎さんが転びそうになる。
「危ない!」
私はとっさに動いていた。その腕と体をすぐさま掴んで、そのまま二人ともベッドの上に倒れる。
ベッドに飛び込んだ瞬間目をつぶってしまい、仙崎さんは大丈夫かと目を開いたとき。
「!」
想像よりもずっと近くに仙崎さんの顔があった。その間わずか十センチ。心なしか、目を見開いた仙崎さんの顔が徐々に赤くなっていく。
「あ……」
言葉なのか分からない、愛しいわずかな呼吸が自分に触れたとき。
「ん……!?」
私はすっと片手を仙崎さんの側頭部に添えて、迷わずその唇にキスを落としていた。
そのまま仙崎さんを組み敷く姿勢になると、真っ赤な顔になった仙崎さんは近づく私の胸のあたりをそっと震える手で押し返し、目を合わせられないのか視線をそらされてしまう。
……でも頑なに拒絶しないということは、まんざらでもないということだろうか。
「だ、だめです、松澤さん……僕たちにはそれぞれ家庭が……」
その口調で、この人は私を受け入れるべきか、心が揺れているのが手に取るようにしてわかる。ならば、その隙をつこう。……私は、打算的な人間なのだ。それでもいい。この人が手に入るのならば、それでも。
「私を、受け入れてはもらえませんか?」
「う……、でも……」
私はその唇に人差し指を置いた。
「その先は、言わないで」
押して手に入れられるのなら、押してみよう。
片方の手で体を支えながら、もう片方の手で仙崎さんの服のボタンを外していく。もちろん仙崎さんは狼狽えた反応をした。
「えっ……ちょっ……!?」
しかし私の動きの方が早く、すべてのボタンを外し終える。そうして改めて、仙崎さんを組み敷く体勢に戻る。
「もう一度聞きます。私を受け入れてはもらえませんか? 嫌なら嫌だと、私を殴るくらいのつもりで拒絶してください」
じっと仙崎さんの瞳を見つめた。
その目は優しさをにじませているが、快楽に押し流されそうになっている。
……勝負は決まった。
本能的にそう心の中で声がした。それはこの人を手に入れられるという正体不明の自信からだろう。
でも、どこか間違っている。
勝つだとか負けるだとか、いつもの商談の時に感じる手ごたえではない。
もっと本気な……そう、余裕のない心持ちなのだ。
いつもの私なら、もっと上手くこの人を自分のものにできる。
でも今の私は、自信があるように見えてその実、断られるのを恐れているのだ。
そこでハッとする。
私はこんなにも、この人に惹かれているのか?
余裕のない、らしくない自分の姿をさらに突き付けられたようだった。
すると、私の不安が読み取れたのか仙崎さんの表情が一度曇る。
そうして上半身を起こそうとする仙崎さんの動きに私は内心焦った。
しまった、と思ってしまう。
しかし彼は予想外のことをした。
……私は、彼に抱きしめられていたのだ。
そうだ、彼が人を殴ったりするはずがない。いや、わかっている。それをわかっていた上で私は殴ってでも拒絶しろと言ったのだから。
耳元で彼は小さく言葉をささやく。
「……僕は、ずっと考えてたんです。あの雨の日にあなたと出会って、惹かれてから……」
「な……」
一瞬、言葉を理解できなかった。惹かれると、そう言ったか?
「僕には……あなたもですが、妻と子どもがいて。二人は本当に大切なんです。それは今も変わりません。だけど……千尋に、そして妻に出会う前にあなたと巡り合うことができたら……と、思ってしまった自分がいました。そんな自分が嫌いだとも思いました。でも今あなたにこうされて、やっぱり胸がドキドキするんです。どうすれば、いいんでしょうか……?」
不安げな表情で私を見つめるその顔がまともに見れなくなって、私は抱きしめ返すことで自分の顔を隠した。
さっきまでの自分が、酷くはずかしく感じる。
仙崎さんは、心が揺れつつもしっかり妻や子どものことを考えて悩んでいた。それに比べて私はどうだ。「この人がほしい」の一点張りで、他が見えていなかったんじゃないだろうか。
もちろん、私だって妻も裕一も零二のことも大切だ。しかし……この人を諦めることはできない。
あまりに幼稚な答えだが、この気持ちをそのまま伝えてみようと思った。
「私は、あなたと同様に妻も息子たちも大切に思っています。でも私は強欲な人間です。あなたを諦めることもできない。……これが答えです」
そっと抱きしめる腕の力を抜くと仙崎さんは体をそっと離してから私の顔を覗き込み、数秒の間見つめあった。
「僕たちは、いけない人なんですね」
「……そうだと思います」
たったそれだけ言葉を交わすと、仙崎さんが私の唇にそっと口づけする。
その瞬間、理性の糸は切れた。
慣れない口づけに恥ずかしがっているような様子の仙崎さんをもう一度ベッドに押し倒し、舌を絡ませながら濃厚に唇を堪能する。
「んっ……んう……」
時折聞こえる悩ましげな仙崎さんの声でさらに私は快楽に溺れていった。
しばらくしてから唇を離し、お互い荒い呼吸をする。自分の呼吸はよく分からないが、仙崎さんの呼吸は普段の様子からは微塵も感じさせない色香を漂わせている。
「……ねぇ、松澤さん……」
「……はい?」
「ひとつ、お願いがあるんですが」
そう言うと仙崎さんは赤くなってる顔を両手で目の下まで覆い、小さな声で続けた。
「敬介、って……呼んでくれませんか」
あまりに意外なお願いでついつい見つめられなくなり、視線を一度外してしまう。この人が愛しい。愛しすぎる。
「じゃあ私も、聡一と呼んでもらえますか?」
そう言ってみると、彼の両手は完全に顔をすべて覆い隠し、コクリとうなずきが返ってきた。
なんとなくその顔が見たくなって、私はわざと彼の耳元でささやいた。
「顔をよく見せてください、敬介さん」
途端、目の前の体がビクッと反応する。そして恐る恐るゆっくりと敬介さんが手を下ろすと、驚くほど真っ赤な顔で目を潤ませていた。
そんなに意地の悪いことをしてしまっただろうか?
しかし、そう思う反面やはり可愛い人だと思ってしまうのだが。
「すみません、泣かせるつもりはまったくなかったのですが……」
「ち、違うんです……。僕、こうしてあなたにまた出会えるまでに何度も名前を呼ばれるのを夢に見ていたから……、嬉しくて」
その言葉に、思わず笑ってしまった。思い出すのはカフェでのあの会話だ。
「私も、あなたが私のことをそこまで想ってくれているなんて思いませんでした」
「ずっと想ってたに決まってるじゃないですかっ」
潤ませていたその目じりから涙がこぼれ、私はなだめるように優しくその涙を親指で拭う。
そしてそのまま目線を合わせて催促した。
「ではあなたも、私の名前を呼んでください」
「……聡一、さん」
自分の名前を呼ばれる、ただそれだけのことで心が震えた。こんなことは初めてだ。
敬介さんはまた涙を流しつつもそっと微笑んでくれる。
「嬉しいです。こんなことが実現するなんて……まるで僕が夢を見ているみたいだ」
その言葉を聞いてようやく、彼の涙の意味に気づく。
……そうだ。この人も、生きていたかったのだ。
その目で自分の子どもが成長していく姿を見ていたかったはず。家族に囲まれて、その幸せにずっと包まれていたかったはず。朝カーテンを開けた瞬間に入る日の光を当たり前のように毎日浴びたかったはず。
それが叶わなくなってしまったことに一番つらい思いをしたのは、私ではなく彼自身なのだ。
そして叶わないはずの逢瀬でこの人と共に同じ時間を過ごしている私は、この上なく幸せ者だということにも気づく。
だからこそ、刻み付けたい。
敬介さんの中に、私が存在していた事実を。
*
「あっ……ん……」
敬介さんは時折小さく喘ぎながら、体の隅々を触る私の手の感触、そして落とされる唇に体を震わせた。
私によって服を半ば剥がされむき出しにされた肌は白く華奢で、乱れた服をかろうじて纏っている姿はいかにも犯されているようで。
……いや、言い方が違うな。言葉を濁さず言えば私が彼を犯して純真なその心を穢しているのだ。
少し表情を曇らせてその体を見つめていた私に、純粋だったはずの彼の両腕がなまめかしい動作で私の首元に触れる。
「やっぱり、相手が男じゃだめですか?」
見せられるのは切なく、泣きそうに微笑む彼の表情。私はすぐさま首を横に振った。
「いえ。あなたを穢してしまうことに罪悪感を感じていたところです」
すると驚いたのか敬介さんは目を一瞬見開き、それから安心したように微笑む。
「なんだ……よかった。聡一さん、僕は今、とても幸せなんですよ?」
そう言って私の首に掴まったまま緩慢な動作で上体をそらしつつ起き上がった彼は、優しいキスで思いを伝えてくれる。
私がその背筋に下から上へと指を這わせていくと、耳元で彼の息が詰まる音が聞こえた。
「私もです」
そう返して、敬介さんの首筋を優しく噛む。
「んっ……聡一さんは、意外と積極的なんですね。肉食動物みたいだ」
「そうなるのは、おそらくあなたを相手にしたときだけですよ」
「本当かなぁ、だとしたら……んっ!」
乳首を甘く噛んでみると敬介さんの体が強張った。
「……お喋りもいいですが、今は控えて。私はあなたの感じている声が聞きたい」
「ご、ごめんなさい……。っ!」
「どうしましたか」
すると息をつめた敬介さんの手がそっと乱れている私の髪をかき上げる。
「聡一さんの余裕のない顔、好きです。今だけは僕のものだと思っていいんですよね?」
「今だけと言わず、いつでも。この関係が秘密である限り、私はあなたのものであり、あなたは私のものだ」
そう言って喉のあたりを噛むと敬介さんはまた顔を赤くして、甘い快楽に浸かったように小さく「はい」と答えた。
*
お互い息を呑んだのは敬介さんの体内に私が入るときだった。
これまで快楽に翻弄されていた敬介さんの顔が、少し怖がっているように見える。
「……やめておきましょうか?」
かろうじて私も知識はあるものの、敬介さんの様子を見たら気が引けてきた。こんなに可愛い人の心に傷をつけるなんてことは、何より私が許せない。
すると私の思いが聞こえたかのように「いや、です」と首を横に振る。
「お願いです……僕が泣こうが喚こうが、無理にでも挿れてください。僕を……抱いて」
「っ……」
この人は可愛い顔をしておきながら、なんて言葉を発するのだろう。
「……私はあなたを傷つけたいわけじゃない」
「そんなことないです! 僕は……もう後悔したくないんです。この気持ちは、一度死なないと本当にわかることはない」
「!」
その言葉を聞いて、彼が生きてるうちに後悔しないように動いていたら、と想像してみた。
もしかしたら現世で、私と一緒にコーヒーを飲みながら笑って、行く行くはこういった状況になっていたのかもしれない。
気づけば彼は再び瞳に涙をためていた。
「お願いします……。痛いとか気持ちいいとかまだわからないけど、あなたが僕の中に入ってくる、その事実がほしいんです」
「……わかりました。では、こうしましょう」
私は彼の両手を頭の後ろで縛りあげた。
「え、えっと……これは?」
「あなたが泣いて逃げようとしても、それができないように」
「徹底してますね……」
「怖いですか?」
「い、いえっ」
感情が丸見えだと、こんな場面なのに微笑ましい気持ちになるのが不思議で可笑しかった。
それにしても、だ。
頭の後ろで手を縛られているせいでどこも隠すことができない彼の体は、傷のひとつもなく白くなめらかで芸術品のように美しい。
この体含めて、彼を自分のものにできることのなんと喜ばしいことか。
「あ、あの……」
体をくねらせて少し身をよじった敬介さんがおどおどと口を開く。
「あまりじっくり見られると、その……」
彼がちらっと体の下の方に視線を向けたのを見て納得した。彼のものが、少し勃ちあがっている。
そのことに愉悦感を覚えた私は「なるほど」とつぶやいてからわざとベッドを離れて服を脱いだ。視線は彼を見据えたままだ。
「えっ松澤さ……じゃなかった、聡一さん、ひどいです!」
その抗議の声も私はさらりと受け流す。
「スーツでは満足に動けません。これ以上汗で汚れるのも勘弁願いたい」
「そんなぁ……それはそうですけど」
そして手早くスーツを脱いだ私は纏っていたワイシャツを脱ぎ捨てて再びベッドに上がる。
「お待たせしました。……再開します」
「い、いちいち言わなくていいですからっ」
そう喚く彼のものを軽く握り、しごいた瞬間に彼の体が跳ねあがった。
「ひゃっ!?」
しかし私はその反応を楽しみつつ手は止めない。
彼は自由に動けないまま体をくねらせて私の手から逃げようとする。そんなことはさせない。
「やっ……聡一さん、待って……あっ」
「待ちませんよ、体をこちらに向けなさい」
頭上で折り曲げられている腕をベッドに押さえつけて体を正面に戻す。そしてそのまま口づけで彼の愛しい声を遮った。もちろん手は彼のものをしごいたままだ。あふれる密が私の手を濡らす。
「んっ……んんっ……ふ……聡一さん、意地悪しないで、んう、も、ヤバ……」
その懸命に抵抗しようとする姿は私を欲情させるには十分だった。
私の手から漏れ出した液体が彼の窄まりに垂れ、そっとなじませるように指を入れていくと、想像よりもその穴は私の指を受け入れていく。
「あ、あぁっ……入ってくる……!」
恐れを含んだ声音が聞こえ、もう一方の空いてる手で彼の乳首をこねると、彼の恐れる声とは反して一層私の指を奥へと咥えこんだ。
そろそろいいだろうか?
それとも、まだ早いのか?
男性を抱くのは初めてのことで、タイミングがいまいちわからない。
女性のものとは違って、もともと受け入れる場所でないから配慮が必要だろう。
全身を行き交う色欲にうなされつつ、しかし脳の隅で冷静な自分がいた。
すると、完全に欲に染まった敬介さんが上ずった声で言う。
「聡一さ……、そろそろ……っ」
その言葉に応えるように私は自分のものを彼の窄まりにあてがい、ゆっくりと彼の熱い体内に入っていく。
その途中、喘ぎながら敬介さんは私を呼んだ。
「聡一さん、お願い……僕、もう逃げませんから、これをほどいて……」
それは先ほど縛り上げた手のことだ。私は性急に彼の唇に口づけながら手を開放する。するとすぐに彼は私に抱き着き、おそらく生理的な涙を流しながらしがみついた。
「痛いですか?」
「す、少し……。でもこの痛みがいいんです、このままもっと奥へ……」
互いの視線が絡み合った時、私は敬介さんの淫靡な表情に驚愕した。
とろんと欲に浸りきった目がまるで私をさらに誘惑させようとしている。あのいつもの純粋な表情はどこへ?
そう思うが、しかし私が彼をこんな風に変えたのだと思うと胸にせまるものがあった。
私は彼の言葉と自分の勢いに任せて奥まで突くと彼の両脚が一段と高く宙へ浮く。
そのまま挿入を繰り返し始めると、その律動に彼は幸せそうな表情を見せた。
これはけして、私の思い込みや見間違いではないだろう。
*
果てたあと、二人でシャワーを浴びた。そして後にベッドに腰掛けると敬介さんはそっと隣に座って私の腕に抱き着く。
互いに言葉は発しなかった。ただ、私の肩にさらりと触れている彼の髪と密着した場所から伝わる体温だけで心地よかった。
このまま、体が溶け合ってひとつになれればいいのに。私の命など、もう惜しくない。この人と一緒にいられるのならば、それで。
そう思った瞬間、敬介さんはギュッと一段強く私の腕に込める力を強くした。
それに気づき視線を向けると、目を合わさず敬介さんは震える声を発する。
「僕が完全な悪魔ならよかった」
……その言葉の意味が、わからなかった。
「僕は偽善者です。完璧な悪者にもなれず、いい人ぶってしまう」
「……どういう意味ですか?」
私から見たらこの人は天使と言ってもいい。なのに突然何を言い出すのか。
「僕が悪魔なら、このままあなたの余命を吸い取ってずっと僕の傍にいてもらおうとするのに……、なんででしょう、あなたには生きていてほしいとも願ってしまう。矛盾、してますよね」
「……」
敬介さんの瞳からこぼれだした雫が私の腕にポツリポツリと雨を降らした。
「……傍にいてほしい……。もう離れたくない……。でもあなたの命を奪うことなんて僕にはとてもできないんです。でもそうすれば僕たちは一緒にいられない。いつ再会できるのかも、わからない」
辛そうな声音が私の心に刺さる。これがこの人の本音なのだとすぐにわかった。
「あなたとともに居られるのなら、私はもう死んでも構いませんよ。十分、やりたいことは一通りやりましたから」
「そんなこと言わないで……。僕が余計にあなたを離したくなくなる。人は二度死ぬんです。一度は肉体が死んだとき。二度目は、その存在が忘れ去られたとき。よく言うでしょう? あなたはまだ、死んではいけないんです」
どうして突然その話になったのか、私には未だわからない。
それがわかるのは、雨が日差しを浴びたとき。
*
ホテルの室内から出る寸前、お互い服を着終えた私たちは指を絡ませながら最後の濃密なキスを交わした。
「……僕、あなたがこちらに来るまでずっと待ってます。誰にも譲らず、待っていますから」
「わかりました。あなたに再会できるのを心待ちにしています」
「んー……僕としては嬉しいですが、縁起でもありませんよ」
そう苦笑する彼の表情はいつもの無邪気さが戻っている。この笑顔も、さっきの顔も。この人のすべてが愛おしい。
そうして、繋いだ指が離れていく。
*
ホテルの外を出ると夕陽が辺りを照らしていた。すると、「あ!」と声を出した敬介さんが一方を指さす。
そこには……見間違えるはずがない。笑顔の零二と千尋くんが楽しそうに歩いていた。
「おーい!」
そう叫びながら敬介さんが彼らに手を振ると、零二は驚いた顔をして茫然と立ち尽くす。そして数秒遅れてから千尋くんから少し距離をとった。二人の間柄は知っているのだが……知らないことにしておこう。
私が傍らの敬介さんに顔を向けるとうなずきが返ってきて、私は零二へと走り寄り思い切り抱きしめた。
「父さん……!?」
零二の体温を感じる。確かに、ここにいる。自分の隣で敬介さんが両手を広げて、「千尋もー!」と言うと、顔を赤くして千尋くんは「やらねぇよ!」とピシャリと敬介さんの手を叩き落とした。
やがて、零二も私を抱きしめる。
「父さん……すみませんでした、親不孝なことをして」
それは、おそらく自殺したことについてだろう。だが、それほどの絶望の中にたった一人で零二はいたのだ。これについて私が言及することはない。
「いいんだ……それよりも、私が君たちを世間から守れなかったことを詫びねばならん。……すまなかった」
「……!」
零二は私の言葉に驚いたようだった。体を離してその顔を見ると、目を見開いたまま黙っている。
「この世界ではどうだ? おそらく私が生きている世界と違うんだろう。元気に、幸せに過ごしているか?」
そう聞くと、零二は少し千尋くんの方を見やってから優しく微笑んだ。
「はい、幸せに過ごしています」
初めて見るその笑顔に涙がこみあげてきそうになる。声が自然と震えた。
「そうか……。それなら、いいんだ」
お前が幸せでいてくれるなら、それだけで。
すると、空を見上げた敬介さんが私に告げる。
「そろそろ雨が降りますね。聡一さ……松澤さん、僕たちはここでお別れです。僕と出会ったあのカフェに戻ってください。雨に濡れてしまうので」
いつかは来るとわかっていた別れの時が来たようだ。
私は佇まいを正し、三人に頭を下げた。
「仙崎さん、零二、千尋くん……ありがとう。私が次にこの世界に来た時は、また会ってほしい」
「わかりました。父さんも……お元気で」
零二をはじめ、三人はそれぞれ笑顔を見せて私を見送ってくれた。
*
カフェに戻ると、まだ自分の席とその真正面の席にコーヒーカップが置かれたままだった。
その椅子に座り、あっという間だった別れに今頃涙がこみあげてきそうになり、目頭を押さえてうつむいた瞬間。
穏やかだった夕暮れの空が急に反転でもしたかのように曇り空に代わり、敬介さんの言ってたとおり大粒の雨が降り始めた。
それを茫然と見つめ、思う。
……あの人は、傘だ。
辛いことから私の身を守ってくれる、傘のような人。
きっとこれからも私の心に残って私を守ってくれるんだろう。
すると雨で濡れた東條がスーツについた雨粒をほろいながらやってきた。
「お待たせしてすみません。……おや、この短い時間に二杯もコーヒーを飲まれたのですか?」
「ん?」
東條の言葉で自分の真正面の席を見れば、そこには空になったコーヒーカップと二人分のシュガーとミルクが置かれていた。
あぁ……敬介さんは確かにいたんだ。
私は自然と微笑んでいた。
「どうかなさいましたか?」
「いや、なんでもないんだ。行こう」
「はい」
すると空から幾筋もの光が注ぎ込み、あっという間に青空が顔を見せた。
「まだ雨が降っている……。天気雨ですね。傘を差しましょう」
「あぁ」
そうしてカフェを出ようとしたとき、共に仕事で訪れていた裕一が走ってくる。
「父さん!」
その手には若干分厚い封筒がある。
「どうした?」
「以前零二と交流があった繊利千秋という子からこれが送られてきました。俺と、父さんに持っていてほしいと……」
そうして取り出されたのは、千尋くんのスマホの中に残されていたという写真だった。色々な零二の顔や、楽しそうな二人が写されている。
自分の財布に入れたままの、あの時の儚げな零二の笑顔ではない。本当の笑顔だと、すぐにわかった。
その時、私は敬介さんの言葉を思い出す。
『人は二度死ぬんです。一度は肉体が死んだとき。二度目は、その存在が忘れ去られたとき。よく言うでしょう? あなたはまだ、死んではいけないんです』
もしかしたら、生き続けて零二と千尋くんのことを忘れるなと言いたかったのかもしれない。
私は大切に写真を封筒にしまった。
「……裕一、東條。私たちは彼らのことを忘れてはいけない。この写真を、大切にとっておこう」
「はい」
「もちろんです」
そうして虹をかけた空の下、私たちは傘を広げて踏み出した。
あなたは、傘 -終-
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