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番外編① 龍神さまの休日
★
神は気まぐれなものである。
琵琶湖に棲まう龍神さまが、上岡家の隣に越して来たことも、例えば隣の子どもを少しからかってやろうと思ったのも、それから上岡家の長男をちょっとだけ気に入ってしまったことも。
以来何かと佑太にちょっかいをかけるのも。
全てただの気まぐれのはずである。
☆
肝試し騒動の翌日。
水野龍、もとい琵琶湖に棲まう龍神さまは、自宅である淡海堂の二階の住居スペースにて頭を抱えていた。
ガランとしたまるで生活感のかけらもない部屋の中央に立ち、着崩れた和服もそのままに、かれこれ1時間はこの状態である。
「む、困った」
いくら神とはいえ、悩み事だってあるのだ。本日の議題は、兼ねてより佑太に指摘されていた、「人間らしい生活について」である。
「とりあえず今日は店は休みにしようか」
一度気になると居ても立っても居られないタチであるのか、龍神さま勝手に店を休業日にして、街へ繰り出すことに決めたのだった。
☆
『暇だったらケーキでも買ってきて』
夏は夏休み何度目かの姉のワガママに付き合うくらいには優しい少年だ。例え外が茹だるような暑さであっても、夏休みの宿題を集中してやっている最中であっても、久々に帰省した姉の為に外出するくらいは何でもない。俗に言う良い弟である。
「それにしても暑いなあ」
文句、と言うほどではないけれど、ついつい出てしまう言葉くらいは大目に見てほしい。
自転車に乗って馴染みのケーキ屋へ向かう。
彦根城へと至る道の一つに、キャッスルロードという観光に特化した場所がある。二車線の道の両脇に、ズラズラっと観光者向けのお店が並ぶ一際賑やかな通りだ。
夏の目当てのケーキ屋はその通りに店を構えており、ここいらではダントツで美味しいと評判の店だ。
祝い事は勿論、友達が来るとかお土産にするとか、事あるごとに訪れる馴染みのケーキ屋で、特にフルーツと生クリームをふんだんに使ったオリンピアというロールケーキが絶品。
店に着くと、正面に自転車を停めた夏は、滲み出る額の汗を腕で抑えながら顔を上げ、偶然にも見知った人物を発見した。
「お兄さん地元の人?」
「良かったらぁ、案内してよ」
「あたしらここ初めてでぇ」
観光客か、煌びやかな服装の3人の女性が、わかりやすく甘い声で言い募る。
「ん、今日は休業日だ。悪いが道案内は他の者に頼んでくれ」
「えー、いいじゃん」
「ちょっとくらいいいでしょ?」
いささか露出が高すぎる女性3人に、だけど少しも表情を変えず、むしろ面倒そうに眉根を寄せて対応しているのは、何度か顔を合わせている『めし屋』の隣人、万屋淡海堂店主、水野龍だった。
「水野さん?」
「む、佑太の友人か。ちょうどいい、こいつらをどうにかしてくれ」
心底迷惑そうな顔でそんな事を言うものだから、女性たちはついに怒った顔だ。
「ノリ悪いっつーの」
「もういいや」
「行こっ」
夏が何かするまでもなく、女性たちはフンと鼻を鳴らし、さっさと行ってしまう。
「なんなのだ、あの女どもは」
「水野さん、多分逆ナンというやつですよ」
「ギャクナン?」
なんだそれ、と言った表情。夏は苦笑いで誤魔化す。
「水野さん、何か用事ですか?」
そうたずねると、水野は思い出したという風に手を叩く。
「そうだ、少し人間らしい生活をしようと思ってな」
「人間、らしい?」
「ああ、佑太に言われてな。僕の部屋には何もないから、少しは人間らしい生活をしろとな」
正直、夏には何を言っているかわからない。人間らしい生活、と、人間である水野が真面目な顔で言うのだ。謎すぎる。
「ところでだ」
「はい?」
「人間らしい生活とはなんだ?」
沈黙。そうして夏の脳内には、数々の疑問が。まとめると、大丈夫かなこの人、の一言に尽きる。
「良かったらご一緒しましょうか?」
詰まる所夏は、姉に対してだけではなく心根自体が優しい少年であった。
だからこその提案。夏には只々善意しかない。
「ふむ。では頼んだ」
ニヤリと笑い、気分良く水野は頷く。
神さまがその善意に気付かないはずがなかった。
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