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☆
佑太の住む滋賀県には日本最古の湖である琵琶湖がある。この自然の遺産は、大概にして移動の妨げとなる。県民の誇りと言いながら、実際には迷惑に思う県民も少なくはない。
さらには海なし県である。これは滋賀の子どもにとっては致命的である。ならば琵琶湖で泳げばいいと思うかもしれない。だがどうだ。湖北はともあれ、湖南など水質的に入れたものではないのだ。残念ながら。
そんな滋賀県の彦根市に佑太は住んでいる。井伊直弼、彦根城。それだけの大して何もない街である。
水野龍と再会を果たした翌日。
佑太は今日も土砂降りの雨の中、学校へと向かう。
佑太の生活圏は城下町の、一際賑やかな観光地だ。しかしそれも観光シーズンに限る。6月の梅雨の時期は閑散期。
玄関を出て傘をさして歩き出す。隣の淡海堂は営業時間外なのか、シャッターは閉まっていた。
「何が龍神だよ。いるなら雨止めてくれよ」
雨は嫌い。雨が降っているだけで憂鬱な気分になる。太陽の光が恋しい。
雨はもう一週間も降り続いている。
☆
雨が続くのは梅雨のせい。
しかし、梅雨のせいというには、いささか長雨であるようだ。というのも、本来ならば梅雨はとうにあけている時期である7月中旬。
隣の市では土砂崩れが相次いでいるらしい。
そんな7月のある日のこと。
「ね、佑太。ちょっと聞いて欲しいんだけどさ」
雨が降り続いているせいで、上岡家の経営する『めし屋』は、ここ数日閑古鳥が鳴いていた。その為佑太と佑香は揃ってリビングで宿題を片付けていた。
「なんだよ」
明るく振舞ってはいるが、ここ数日佑香の表情が暗い。男女であっても双子。ほとんど同じ時間に産まれ、ほとんど離れた事もないのだ。他の誰かがわからない違いだってわかってしまう。
「なんかさ、誰かにつけられてるっぽいんよね」
「はあ?」
怪訝な顔を隠しもしない佑太に、だけれど双子故に疑われているなどとは微塵も思わない佑香は続ける。
「学校の帰りさ、なんか視線を感じるっていうか。水を跳ねる足音がするんだよね……」
あくまで笑顔だが、不安を隠そうと必死なのが佑太にはわかる。そういう感情の機微には、彼らの母親よりも、彼ら2人の方が敏感であった。
「姿は見てないのか?」
宿題をする手を止めて聞き返す。
「それが、振り返っても誰もいないの。でも、足音が聞こえる。あんまし言いたくないんだけどさ、あたし、怖いんだよね」
こうして本心を言えるのも、自分にだけだということも知っている。だから佑太は、佑香の言葉をみなまで信じる。
「明日から一緒に登下校するか」
そう言うと、佑香はちょっとだけ微笑んだ。
「ありがと。ま、佑太じゃ、たよんないけどね」
「あーそーかよ。悪かったな」
憎まれ口だって慣れっこだった。
こうして双子の男女は、翌日から行き帰りをともにする事にした。
☆
「佑太おまたせ」
翌日、放課後。部活動を終えた佑香が、昇降口に来ると2人は傘をさして学校を出た。相変わらず雨は止まない。
「ごめん、待ってんの退屈だよね」
「まあな。でも佑香のためだからいいよ」
「ほほう。兄貴ヅラしやがって」
「おい!怒るぞ」
なんて軽口を叩きながら歩く。高校に入って佑香は弓道部に入った。佑太は帰宅部のため、2人で帰るのは久々だった。
「佑太もなんか部活やればいいのに」
「ヤダよ」
「なんでさ?佑太は運動も芸術もそれなりだし勉強もできるでしょ。その才能なんかに使いなよ」
2人の通う高校はこの辺りでは有名な進学校だ。ただ近いからというだけで合格するのだから、2人はそれなりに頭が良い。
ただ、何かに熱中できるタイプの佑香と、何にでもそこそこで満足できてしまう佑太。2人の大きな違いはそこにあった。
「バスケ、続けたら?」
「無理。しんどいし」
「軽音は?一時期やってたじゃん」
「んー、そんなに楽しくなかったしなあ」
「弓道やってみる?」
「絶対いやだね。佑香と同じのやったら勝てない」
そんななんでもない会話をしながら、2人は雨の中を歩く。夕暮れの街。雨が降っているせいでかなり薄暗い。
ぴちゃぴちゃぴちゃ
その音は佑太の耳にも届いた。
「佑太……」
不安そうな佑香の声がする。佑太はすかさず、背後を振り返った。
何もいない。
ここは繁華街。城下町の観光地。いくら寂れた田舎であっても、誰かしらはすれ違う。だけど、ぴちゃぴちゃという足音が聞こえるのは佑太と佑香の2人だけのようだった。
「急ごう」
「うん」
2人は自然と手を繋ぎ、傘をさしていることも忘れて走り出す。
家まであと少し。
だが、自宅のある商店街に入ったあたりで、佑香が悲鳴をあげた。
「いやあああああっ」
驚いた佑太が佑香に視線を向ける。彼女は、佑太の腕にしがみつき、体を震わせ心底怯えた表情で足元を見ている。
「佑香!?あと少しだ!大丈夫、俺がついてるから!!」
幼い頃はそう言うと、佑香は落ち着いてくれた。しかし、今の彼女の耳には入っていないようだった。
「いやあ、やめ、やめて!さわらないで!!」
何かから逃げるように佑香が身をよじる。
「クソッ」
佑太は無理やり佑香の腕を引き、走り出す。自宅まではあと少し。佑太には見えないが、佑香は何かに怯えている。引っ張って走る佑太は違和感に気付く。何故だか佑香の身体が、いつもより重く感じることに。
こうして双子の兄妹は、非日常へと足を踏み入れる。
それは必然か偶然か。彼らはその日から、この世と並行する、奇怪な世界に足を踏み入れる事となる。
☆
「佑香、朝ごはんできてるけど」
扉越しに話しかける母親。だが返事は無かった。
「母さん、大丈夫。俺がなんとかするから」
母親の背に佑太は声をかける。あれから3日。あの日以来、佑香は自室から出てこない。
「どうしちゃったのよ……」
母親は悲しげに呟いて、だけれどどうする事も出来ないから、あとは任せるわよとその場を離れる。
「佑香、入るよ?」
「大丈夫、だから、そっとしておいて」
扉を開ける前にそんな声が聞こえてくる。そう言われると入るに入れない。
「……わかった」
佑太は軽くため息をついて、仕方なくリビングへと戻った。
☆
佑香は夢を見ていた。
降り続く雨の音に混じって、ぴちゃぴちゃと足音が近づいてくる。
佑太との帰り道。薄暗い商店街。
ぴちゃぴちゃぴちゃ
ぴちゃぴちゃぴちゃ
2人の会話が途切れ、その隙を雨を跳ねる足音が聞こえる。
ペタ、ペタ
制服のスカートの下、晒した足に誰か、いや、何かが触れる。
「いやああ!触らないで!!」
どうした?と叫ぶ佑太の声が遠くに聞こえる。
「助けて!佑太!!」
しかしそこには、佑太の姿はなく。
誰かが足に触れる感触だけが、生々しく残った。
「やめて、離して!!」
佑香の声だけが薄暗い商店街に響く。
パッと目を覚ませばそこは自室で。あまりにも生々しい夢に、佑香は自分の身体を抱きしめ布団のなかでブルブルと震えるしかなかった。
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